春誘う吉兆の足音





第三節

 二人の男は黙って昔のことを思い出していた。

 そう、ここは金波宮だ。麦州の官邸ではない。

あの頃の喧噪な雰囲気は、もう感じられない。

 慶国は平和になったのだ。

 ましてや、片や冢宰、片や左将軍だ。



「ここは、暖かいな。12月だと言うのに」

「ええ、だからお誘いしたんですよ。このところ多くのことがあって忙しかったですから」

「うむ、そうだったな」

 官吏の整理はまだ完全ではないが、ずいぶんと進んでいる。

 浩瀚と桓たいは、ふと表情をゆるめ、笑いながらお互いに視線を交わした。





   その時だ。



 ガサガサっという盛大な足音がした。

「あ、誰かと思ったら桓たい、浩瀚も。こんなところで何をやっているんだ?」

「主上!」

 桓たいはあわてて杯を袖口で拭うと、懐に壺と共にしまおうとして地面に落とした。パリーンという小気味よい音がした。

「何? 杯?? こんなところで昼真っから、酒飲みか」

 呆れたような陽子の声を聞きながら、浩瀚は、額に手を当て、一瞬顔をしかめた。しかし、すぐに穏やかな表情に戻し、

「これは、主上。良くいらっしゃいました。ご一緒にいかがですか?」

そう言った。

 桓たいは、天を仰いでいたが、気を取り直し、跪礼すると、

「主上には大変ご機嫌麗しく」

と、訳のわからない挨拶をした。



「あははは、いいよ、桓たい。昼に酒を飲んではいけないなんていう勅命を出す気はないさ。でも、なんでわざわざこんなところで酒を飲んでいるんだ?」

 陽子は、そう尋ねた。

「主上こそ、いったい何をなさっているのですか?」

「へ!? いや、あのう、ね。ほら、何だ」

こちらもなんだか訳のわからない対応だ。

「もしや、主上。もうすぐ郊祀の祭りがございますが、そのときのお召し物か何かでお悩みでは?」

 そう、浩瀚に穏やかに問われると、陽子もふっとため息をつく。

「うん、そうなんだ。まったく浩瀚には隠し事はできないね」

「確か、主上の代になって二度目のお祭りかと?」

「ああ、それで、前回の衣装と別のものを作るっていうんだ。それはもったいないからやめてくれといったんだが、皆聞き入れてくれなくてさ」

そう言って、陽子は二人の間に腰を下ろした。

「新しい衣装ともなれば、衣装合わせが必要かと?」

「うん、その通りなんだ。今日はもうくたびれきっていて、あの重たい衣装を着る気になならなくてね。悪いとは思ったけど」

「さては主上。祥瓊から逃げてきましたね?」

「当たり! 桓たいよくわかってるな」

男二人は、陽子を見て微笑む。



「あれ? こんな季節に花が咲いている。この花はなんだろう?」

「主上、これは寒桜でございます」

浩瀚が答えた。

「寒桜? ああ、冬に咲く桜があるって聞いたことがあるけど、これがそうなの?」

「はい」



陽子は、改めて花を見上げた。

「桜としては少し小さめの花だけど、冬の寒さに耐えて咲いている感じが、切ないな」

 陽子は、両手を頬に当て、抱え込んでいた膝の上にその肘を載せた。





「なんだか、この花は浩瀚に似ているね」

そんな独り言を言う陽子を見て、桓たいは驚いた。

「へえ! 柴望様が聞いたらお喜びになるだろうなあ」 「ん? なんでだ??」

「主上のご意見が、柴望様と同じだからですよ」

「桓たい、それはどういう事?」

「柴望様は、かつてこの花を浩瀚様に喩えたんですよ」

「そうなのか?」

陽子は今度、浩瀚の方を向いて問いかけた。

「はい。桓たいの言うとおりでございます」

「主上、麦州にある浩瀚様の官邸に、寒桜の大きな木があったんですよ。そこで、浩瀚様と、柴望様と俺とで、そんな話をしたことがあったんです」

「ふうん。何かよっぽど印象深いことがあったんだな」

「え、なぜそんな風に思うんですか? 主上」

「だって、お前と浩瀚がわざわざこんな所に来て酒を飲んでいるなんて、よほど懐かしかったんだろう? この寒桜が」

「主上にはかないませんね」





 陽子と桓たいが、たわいない話をしている間、浩瀚は、それを見守りながらかつての自分を思い出していた。



 この寒桜が散る頃には、自分の命の行方も片が付いているだろう。あのときは本当にそう思っていた。



   和州に乱を起こす。

それは、主上が玉座に着かれてから、ずっと練っていた計画だった。  成功するかどうかは、半々だった。

呀峰も靖共も、浩瀚を犠牲にして慶の官吏をまとめる腹だったようだ。

二人が牽制し合っている間は勝機がある。しかし、あの二人が完全に協力体制をとったなら、こちらは不利になるだろう。そう思っていた。



  しかし、主上が、拓峰の乱と明郭の乱を、まとめてしまわれた。

  我々は、本当に良い国主を抱くことができたのだ。

  あとは、官吏の腕の見せ所、のはずなんだが。



「浩瀚、お前も麦州の官邸にあった寒桜が懐かしいか?」

浩瀚の思考は、陽子の声によって中断した。

浩瀚は、少し思案して、

「左様でございますね、こちらの寒桜は若木のようでございますが、州侯官邸の木は、もう少し古い物でございました。懐かしく思います」

そう言った。

「そうか。冬空に美しいな。凜として、咲いている」

「はい」

浩瀚は、穏やかに陽子の話に応じる。

「ほとんどの州が偽王に下ったあの頃、お前のいた麦州だけが最後まで孤軍奮闘してくれたんだ。それなのに私は……」

「主上、そのお話はもう繰り返さなくともよろしいのでは?」

「ありがとう、浩瀚。でも、そんなお前のことを思うと、この冬空に咲く白い花に、孤独な正義を感じたんだ。不甲斐ない私を、諫めようとしてくれた」

「そのようなことは」

「いいんだ、浩瀚。もう、慶は進み出している。私もがんばるので、これからもよろしく頼む」

「主上、臣下にそのようなことを言ってはいけません」

「なんだ、景麒と同じ事を言うな!」

 それまで黙っていた桓たいが、笑いながら声をかけた。

「お二人とも、もういいじゃないですか。ほら、寒桜が揺れていますよ?」

そう言われて、陽子は木を見上げる。

「ああ、本当だ。綺麗だね。寒桜はいつごろ散るんだろうな?」

「暖かくなったら散るんですよ。それまでは、雪が降ろうが吹雪になろうがしっかりと咲いているんですよ」

自慢げに説明する桓たいに、浩瀚は穏やかに笑いながら言った。

「左将軍、どこかで聞いた様な説明ですね?」

「あ、ちょっと浩瀚様。ばらさないでくださいよ。せっかく主上にいいところを見せようと思ったのに」

「なんだ、桓たい。浩瀚の受け売りか?」

「ほら、浩瀚様。主上にばれちまったじゃないですか!」

「あはははは……」

 陽子は、二人のやりとりを聞いて笑い出した。



「はあ、なんだか気が晴れた。仕方ない、着せ替え人形になってくるよ。これも国王のつとめらしいからな」

片目をつむると、陽子は二人を後にして、正寝の方へ戻っていった。

「では、左将軍。我々も政務に戻りましょう」

「かしこまりました! 冢宰!!」

ふ、くっくっく、笑いながら二人の男は立ち上がった。



前のページ 次のページ