春誘う吉兆の足音




第二節

 ざっと一年と少し、時を遡る。

 麦州の秋、あまり豊かとは言えない麦州の田にも金色の稲穂が揺れる頃、麦州の州侯であった浩瀚は、謀反の疑いをかけられ、蟄居させられていた。

 浩瀚は、陽子が王となって慶国金波宮に住むようになったすぐその後、諸侯と時を同じくして、拝謁に上がっていたが、そのときすでに、諸官の様子をみて、自分がその地位を追われるであろうと言うことは予想していた。

 そのためか、本人はあまり悲嘆に暮れている様子はなかったが、周りのものは皆悲しみ、その後のことを心配していた。

 州宰を勤めていた柴望など、その度合いはひどく、政務をそこそこに官邸で謹慎している浩瀚の元を訪れ、慰め力づけているつもりが、逆に諭され元気づけられるという始末であった。


と、いうことになっていたのだ。



「侯、どこにいらっしゃるんですか? 侯!」


大きな声が官邸に響く。

「柴望、私はここだ。そんな大きな声で騒ぐものでないよ。それに、その呼び方は感心しないぞ。私は自ら王にならんとして玉座をねらう罪人だ。今まさに任を解かれて謹慎中なのだから」

 涼しい目をした浩瀚は、そんな風に柴望に声をかけた。

 そこは、小春日和の日の光を受け、中庭を見渡す事ができる。

 彼、浩瀚は、官邸の奥まった部屋に張り出した回廊の端で、座って外を見ていた。

「はあ、こちらでしたか。まったく、侯は何をおっしゃるかと思えば。そんなもの金波宮の誰かが捏造した罪に決まっています。聞けば、主上は靖共の意見ばかりを尊重するとか。もってのほかでございましょう」

「柴望、息が荒いぞ。そのようにあわててどうした?」

「あ、おお、申し訳ございません。これを、お持ちしました」

柴望は、左手にぶら下げてきたひょうたんを、浩瀚の目の前で振って見せた。

 ちゃぽちゃぽというかわいい音がする。

「なんだ、差し入れの酒にしては情けない音がするな」

そう言って、浩瀚は笑った。

「何を言ってるんです、侯! これは、侯の大好きだった造り酒屋の酒ですよ」

「うそをつけ。あの夫婦は、私が雁国に追放したんだぞ?」

「また、そのようなことを。『追放』だなんて。まあ、よろしい。侯、断っときますが、この酒は私が大切に保管していたあの店の最後の酒ですから。まがい物なんかではありません!」

「ふふ、わかっているよ。柴望、ありがとう」


 軽口をたたいていた浩瀚は、柴望に向かって軽く頭を下げる。そんな浩瀚を見た柴望は、その場にへなへなと座り込んでしまった。

「おやめ下さい、侯」

 柴望に向かって無邪気な笑みをたたえながら礼を言う浩瀚を見て、ふがいなくも、彼は目頭を片袖で押さえる羽目となってしまったのだ。


「俺にもいただけませんか?」

 カサリと落ち葉を踏む足音がしたかと思うと、園林の影から一人の男が出てきた。

「なんだ、桓たいか。お前にやるためにここにきたわけではないぞ」

柴望は、笑いながら後ろ手に酒のひょうたんを隠してみせる。

「何、柴望。そう意地悪をするものではない。どうせ男3人酔うほどの量は無いのであろう? 仲良く飲もうではないか」

「流石は侯! お心の広い」

冗談めいた口調の桓たいを一睨みした柴望は、苦笑すると器を3つ懐から出していた。

「柴望様もお人が悪い。最初から俺の分まで入っているじゃないですか!」

「はて、そうだったかな?」

「まったく、これだから麦州は食えないやつばかりだなんて、金波宮から睨まれるんですよ」

薄笑いを浮かべながら、桓たいも回廊の端に腰を下ろす。


   浩瀚が、桓たいの耳元にすっと顔を寄せた。

―― 今日はどうだ? ――

―― 誰もおりません ――

ささやき交わされた後は、

「桓たい、どこを散歩してきた? 寒桜の花びらがこんな所についているぞ?」

 浩瀚はそう普通の声で言うと、何事も無かったかのように襟足の先から何かをつかむと、回廊の外へ捨てていた。

 柴望は、その様子をじっと見て、

「では、侯。本日は大丈夫のようでございますな」

と、ごく小さな声で、話し出した。

「ああ、桓たいが周囲を見てくれたので、大事なかろう?」

「はい、お二人ともお気がね無くお話し下さい。もし、誰かが偵察にきても、すぐにわかるように見張りの兵に言付けてありますので」

「いつもすまないな」

 そういう浩瀚の顔を見ながら、柴望は、黙って酒をついだ。桓たいも口を閉じてその様子を見守る。3人それぞれ、器を持ち上げた。

「侯、乾杯いたしましょう。どうぞ、何かお話し下さい」

「そうか、柴望がそう言うなら、酒がうまくなるような乾杯をしたいものだな」

そう言うと、浩瀚は静かに目を閉じた。


 ややあって、目を開くと、

「では、寒桜の花に乾杯してもらおうか」

そう言った。

 柴望と桓たいの二人は、その言葉を聞いて改めて、上を向いて、寒桜を確かめた。


   浩瀚の官邸にあった寒桜は、浩瀚が麦州侯になる前から、ここにあったようだ。

 しっかりとした幹はさほど太くはないが、苔むして年輪を伺わせる。

 その高さは四丈ほどになるか。

 大きいというわけでもないが小さいわけでもなく、あえて言えば、この官邸にちょうど良い大きさだった。


   その寒桜が、白い小さな花をいくつか咲かせ始めていた。まだ五分咲きと言うところであろうか?

 寒桜は、八重桜のように大きな明るい花ではなく、白く小さく楚々とした花である。

 花の付き方も、割合と間を開けて咲いていくので、余計にひっそりとした感じがする。

 しかし、冷たい秋風に吹かれ、真っ青な空を背景に、白い小さな寒桜の花が、凜として咲いているのを見るのは、たいそうすがすがしい気持ちになるものだ。


「侯、この寒桜という花はいつ頃散るんですか?」

桓たいが杯を持ったまま、浩瀚に尋ねた。

「そうさな、2月、いや3月か。暖かくなったら散るのさ」

そう言った浩瀚の顔を見た桓たいと柴望は、そのまま声を失った。


 浩瀚があまりにも遠い目をしていたからだ。

 侯は、このまま死ぬおつもりではないのか?


   そんな、切ないほどの静謐さを漂わせていた。

「侯、飲みましょう。この酒はうまいですよ」

 柴望が、静かに声をかける。

「ああ、そうだな。では、二人とも、この寒桜の花に、乾杯!」

「「乾杯!」」

杯はあっという間に空になった。

「おお、うまい! 柴望様、この酒はあの造り酒屋の酒ですね?」

「ああ、そうだ」

そう言って、柴望はもう一度ひょうたんからそれぞれの杯に酒を注いだ。

 小さなひょうたんは、空になる。


「侯、寒桜って言うのはそんなに散らないで咲いているんですか?」

 二杯目の酒を一気に飲み干した桓たいが、浩瀚に聞いている。

「いや、私も同じ花がずっと咲いているのかどうかを確かめたことはないんだが、寒桜の木としては、2月の終わりになっても沢山花が付いているよ」

「桓たい、この間の大雪を覚えているか?」

柴望が桓たいに問いかけた。

「はい、もちろんですよ、柴望様。あのときうちの州軍は一致団結して、あちこち雪かきをしてまわったじゃないですか。大変だったんですから! 忘れるわけ無いですよ」

「はっはっは、そうであったな。あのときも、こちらの桜は咲いていたよ」

「え!? 本当ですか??」

浩瀚は軽く頭を縦に振る。

 しばらく沈黙が続いた。



「侯?」

「ん、なんだ柴望、改まって?」

「この寒桜、まるで侯のようだ」


柴望は、何を思ったのか放心したように、話し出した。

「そう、そうだ。この真冬のような慶に咲く、白く清らかな、そして寒さや北風にも決して散ることのない、寒桜。これは、侯だ」

「何を言っているんだ、柴望は」

浩瀚はそう言いながらも、彼の「寒桜」の解釈に反対を唱える訳ではないようだ。

「寒桜って、風雨では散らないんですか?」

桓たいが、真面目な顔をして問いかければ、

「ああ、吹雪でも散ることは無いな」

そう、浩瀚が答える。

 桓たいも、それを聞いて押し黙ってしまった。


 どんなときも、ひっそりと、ただ咲くためだけに咲く。

   周りに流されず、自分の時を知り、自分の役を知り、目立つことなく、しかし、凜としてと咲く、寒桜。


   侯は、慶のために命を落とすのではないか。そんなことになったら、俺はいったい……

 桓たいは、そして柴望も同じように思ったようだった。


「侯、我々に何かできることは無いのですか?」

柴望の瞳が、放心するのをやめた。

「うむ、今日はそのことも語ろうか」

「おお!」

 3人は、膝を寄せ、頭を寄せた。

「おそらく私は、何か大きな罪をおわされるであろう」

 ひっそりとした浩瀚の声が、二人の耳に届く。

「そんな、侯! 処刑の沙汰が降りたら、そのまま受け入れられるのですか?」

   柴望はびっくりして小声ながらも問い返す。

「いや、これは私の感、あるいは賭だが、その後、主上から金波宮へ登城して申し開きをするように言われるだろう」

「そんなことがあるでしょうか? 役人が来て沙汰を知らせるだけでは?」

 柴望は、心配している。

「柴望様、もしそんなことがあったら、処刑は俺たちがやるんですか? そんなことを言われたら俺は侯を抱えてとんずらしますよ!」

   桓たいも、言葉遣いが荒くなる。

「まあ、待て。そう急くな。私は主上にその機会が与えられたら、行って慶の現状をお知らせしたいのだ」

「いや、靖共らに押し切られて処刑の使者を出すだけでは? うっかりすると、主上自ら侯の処刑をお望みかも?」

「柴望!」

 浩瀚の表情が厳しくなる。

「主上を信ぜよ。今までの主上の行いを冷静に考えよ。そんなことはないはずだ。しかし……」

「「侯!」」

「金波宮まで護送される途中で、私は命を奪われるだろう」

「そんな事はさせない!」

 桓たいが、その場の誰へとでもなく、拳を握って言葉強く吐き出す。

「それが、合図だ。むろん、私はそんなところで死ぬつもりはないよ」

二人の目が強い光を帯び、口元が笑みの形になる。

「望むところです!」

   柴望が決意を語る。

「手はずは整っております!」

 桓たいも負けずと浩瀚に告げる。

「では、細かい事だが……」



 と言うような事を、金波宮凌雲山の崖で、二人は思い出していたのだ。

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