春誘う吉兆の足音




第一節

 カツカツカツ、小気味よい足音が回廊に響く。
「冢宰に申し上げます」
「これはこれは、左将軍。いかがいたしましたか?」
 ここは、慶国。十二国の一番東に位置する国。だから慶東国と呼ぶ。
治める王は、胎果の少女。名を中嶋陽子という。
 16歳で神籍に入り、景麒と共に、金波宮にすむ。

 民草に混じって乱を支援し、その力を発揮して収めてしまった。
 武断の王と呼ばれることもある。
 しかし、蓬莱にいた頃は、おとなしく真面目な女子高生だった。



 そんな、陽子が初めて自分で選んだ百官の長、冢宰が、冒頭にあった会話の主。名を浩瀚という。

 その、冢宰を呼び止めた左将軍は、かつて浩瀚の部下であった、青辛(せいしん)。字を桓たいという。



   金波宮では、毎朝、朝議が行われる。案件が無いなどということはなく、毎日沢山の懸案が検討され裁可されていく。

 今日も、多くの議題が諸官の間で検討されていた。

 そんな朝議が終了した今、冢宰である浩瀚は回廊を渡って冢宰府へ戻ろうとしている。その合間を縫って桓たいが近づいてきたのだ。



 浩瀚は、腹心の部下ともいえる桓たいと、冢宰に任命されてすぐの頃、この回廊でよく密談を交わした。

 陽子は初勅と共にこの男を勅命で冢宰に迎えた。

 びっくりしたのは金波宮の官吏たちだった。


 一度は罷免し国外追放に処した男を冢宰にすえるとは。物議をかもしたことは言うまでも無く、彼を亡き者にしようというたくらみは、汚泥にわく泡ぶくのように浮き上がっては消えていった。



  そんな物騒な事件もやっと下火になってきた今、時は12月、冬の気配が濃い。初勅から数えると、10ヶ月ほど経ったことになるか? まだ、郊祀の祭りにはいくらか間がある。そんなときであった。



「冢宰にご報告したい事がございます」

「では、園林に下りましょう」

「ありがたき幸せ」

などという、表向きの会話が終わると、桓たいは先にたって園林の中をどんどん歩いていく。

 やがて、回廊からはだいぶ離れ、凌雲山の崖近くに着いた。



 日当たりがよく少し開けた場所に出ると、桓たいはおもむろにその懐から、やや小さめのつぼを取り出した。浩瀚に向かって振り返ると、

「浩瀚様。実はこんな物を手に入れたんですが」

と言って、片目を瞑って見せた。

「酒……か?」

「はい」

そう言って、桓たいはまた向き直り、なお少し歩く。



 崖っぷちにすこし張り出したところ。その脇に身の丈の二倍くらいの木が生えていた。



 その木には、小さな白い花。寒桜だ。



 まだ若い寒桜だった。



「桓たい。この木は……」

「はい、そうです。なんだか懐かしくて、浩瀚様をお誘いしてしまいました」

「そうか。では、その酒も?」

「麦州の酒です。浩瀚様のお好きだったやつですよ」

「まだ、作っていたのか? あの造り酒屋は無くなってしまったと思っていたがな」

「はい。一度は浩瀚様の伝で雁国の方へ避難していたようですが、主上の代になって早々に戻ってきたようですね。どうやら、酒の種は大事に持ち歩いていたようで」

「色々と、苦労をかけたからな」

「麦州の人々は、浩瀚様のためなら一肌もふた肌も脱ぐやつがたくさんおりましょう」

「追従はいらん。今は主上の世なのだから」

「ああ、そうでした」



 崖から滑り落ちない程度に、寒桜の木に近寄り、桓たいはまた懐を探り、そこから杯を二つ取り出すと、ひとつを浩瀚に渡して、白い陶器の壷からその杯に注ぎ込んだ。

 浩瀚は、舌の上で酒を転がす。

 桓たいは手酌でやはり酒を注ぐと、一杯目は一気にあおった。



「やはり、うまいな」

「ええ」

そう言って、二人は黙って杯の酒を、桓たいは二杯目だが、飲み干す。

 頭上を見上げると、白く小さな寒桜の花が、冬のいささか淡い日の光に揺れていた。



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