春誘う吉兆の足音





第四節

   それから、4ヶ月ほど経った、まさに春のさなか、陽子は、午後の政務の時間に冢宰を呼び出した。

 何事であろうと、急ぎ駆けつけてみると、陽子は浩瀚を招き椅子に座るように勧めた。

「忙しいところを申し訳ない。実は、視察に行って欲しいのだ」

「はい。どちらでございましょう?」

「麦州だ」

 陽子はそう言うと、にっこりと笑った。

「昨年の12月頃、桓たいと一緒に凌雲山の崖で寒桜を見ただろう?」

「はい?」

 浩瀚は訝しそうに、目を細める。

「あれから気になって、今の麦州侯に手紙を出したんだ」

 陽子は、うれしそうな顔をしてさらに言葉を続けた。

「ついさっき、麦州侯から手紙が届いてね。官邸の寒桜が二度咲きをしたそうだ」

「本当でございますか?」



      浩瀚は驚いた。

 寒桜は二度咲きすると言うことは、知識としては知っていたが、実際見たことがなかったからだ。



   慶は、王がいない間、自然の理が狂っていた。冬がひどく寒い日が多かったのだ。官邸にあった寒桜は、浩瀚が麦州侯であった時代には、二度咲きすることがなかったようだ。

「それはようございました」

 浩瀚は気を取り直して、そう言った。

「うん、それでね。麦州の麦の育ち具合と、そのほかの農作物を見聞してきて欲しいんだ。ついでに、官邸の寒桜も見てきてはどうだ? そして、見てきたことを私に教えて欲しい」

「寒桜、についてでございますか?」

「ふふ、浩瀚、麦州は農地にする平野が少ないにもかかわらず、土地からの収入は多いと聞く。良い報告を期待しているよ」

陽子が慶国の民人のために麦州の農耕技術や増収のための工夫を知りたいと思っていたのは事実だ。しかしながら、陽子は忙しい冢宰にも少し骨休みを取らせた方がよいだろうとも考えていたのだ。

 たまには、昔の家に戻って、郷愁に浸るのも良い気分転換になると思っていた。

「ありがたき幸せ。では、日時を調整して……」

「明日、行ってこい。景麒と相談した。明日は複雑な案件はないそうだよ」

「左様でございますか、では、行かせていただきます」

 浩瀚は、そんなに急いで行かなくとも良いのではと思ったが、陽子があまりにも楽しそうな顔をしているので、行ってみるのも悪くないと思った。

   よく考えると、初勅から今まで、ろくに休むこともせずに、冢宰府に入り浸っていたかもしれない。

 主上の言われるとおり、外に出てみるか。

   そう思いながら、浩瀚は陽子の執務室から退出していた。





   次の日の朝、吉量を駆って、何人かの供を連れ、麦州城に向かった。

 一通りのあいさつを済ませると、現在の麦州侯が、官邸の寒桜が見事でございます。というので、浩瀚は、とりあえず急ぎ見てくることにした。

   そこは、柴望や桓たいと一緒に酒を飲み、明郭の乱について語ったその場所だった。

 浩瀚は正面の寒桜を見て息を呑む。

 彼は、こんな寒桜を見たことが無かったからだ。



 満開をすこし過ぎたか、薄紅のはなびらを少しずつ散らし始めている。





 「こんなに、赤かっただろうか?」



 浩瀚は独り言をつぶやいた。





   通常であれば、白い小さな花をつけ、春になったときにはきれいに散って、葉が出てくるものだが、今年はどうだ。

     華やかな薄紅色の桜が満開で、鮮やかな緑色の葉も、出てきている。

 冬空に咲く寒桜の花は、数少なくひっそりとしたものだったが、このたくさんの花の数はいったいどうしたというのだろう?!



   冬の倍、いや三倍か四倍の数だ。



 枝に狭しとぎっしり咲き誇っている。



 鮮やかな緑の若葉と、薄紅色の花。





 「これは、主上だ」



 そう、気づくと、浩瀚は語ることばを失った。



   主上が、この慶国に立ったとき、長かった冬が終わったのかもしれない。

 もし、あの時主上が拓峰の乱に参加されていなかったら、もし禁軍が呀峰ではなく乱を起こした我々に向かって進軍してきていたら、今のこの時は、永久に失われていたのだ。

 「主上……」

   決して穏やかに終わったわけではない、拓峰の乱と明郭の乱。

 失われた命の数はいくつあったであろう。

 その命にも、誇れるような国づくりをしなければ。

   穏やかに、しかし美しく華やかに、しかも凛として咲く、二度咲きの寒桜に、浩瀚は陽子という国主がもたらした幸いについて心巡らす。



   心から、主上を支えていきたいと、浩瀚は今一度、桜の花に誓った。



終わり





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