「では、浩瀚様はご存知だったんですか」
「ああ」
酒を酌み交わしながら、語る男二人。
冢宰府の浩瀚が使っている執務室の奥、仕事に疲れた官吏が休養できる部屋がしつらえてあった。
とはいえ、長椅子と卓があり簡単な茶器がおいてあるくらいなのだが。
混乱した朝がやっと一段落ついたところで、贅沢なものなど何も無く、閑散としたものであった。
「いったい何年前のことなんですかそれは!」
「桓たいが生まれる前のことかもしれんなあ」
「そんな前のことをどうしてご存知なんで?」
「いや、明郭で事を起こそうとしたときに調べたんだ。昇紘はそのときには酷吏として有名だったからね」
「調べたって、何をですか?」
「各地にはふつう地誌が存在している。
もっとも近年はそんな物は作らなくなってしまったようだが。
朝が安定していれば、地官の重要な仕事となってもいいくらいなんだ」
「はあ、そんなもんですか。私が生まれたころは確かにもう慶国は混乱していましたから。
あまり目にした記憶はありませんね」
「うん、私が読んだ物も四十年ほど前の地誌だったよ」
「予王のさらに前の女王のころですね」
「そうだね。そこに止水郷の歴史が書いてあった」
「どんな内容だったんですか?」
「止水郷は肥沃な土地。毎年ちょうど種籾を巻く前に、春の嵐が起こるのだそうだ」
「へえぇ。嵐が起こるのに肥沃な土地と?ああ、まだ種をまく前なのか」
二人はお互いに酒を注ぎあい話しに没頭する。
「この嵐は、たびたび大雨を降らせ、北の山から雪解け水を伴って洪水を起こすんだそうだ。
それが山を下り一気に広がるのが止水郷。
この濁流の中には、地味がよく作物が育つのに必要な土をたっぷりと含んでいるそうだ」
「ああ、なるほどね」
「それを、氾濫するに任せず、うまい具合に平地に流し込んで耕作すると、著しく収穫が上がるとか」
「それで、水を止める、止水郷ですか?」
「先に言われてしまったな」
「これは失礼。浩瀚様、気を悪くしないで続けてくださいよ」
浩瀚はいつもとほとんど変わらぬ怜悧な表情をしていたが、幾分口数は増えているようである。
それが、少し頬を赤らめた桓たいにはひどくうれしく感じられた。
「そこには、高さや長さ、向きをかえた歩哨が複雑に構築されたそうだ」
「えっ、じゃあ明郭にある、あのへんちくりんな歩哨も?」
「あれは、呀峰が国庫から金を巻き上げるためにいい加減にこしらえたものだろう。
和州の州城のあるところは土地そのものの高さが高いのだ。
あの高さまで洪水の水位は上がってこないからね。
しかし、そうだね。止水郷の名残かもしれないな」
「はあ、そうだったんですか。それで、革午も久しぶりの豊作だなんて喜んでいたんですかね」
「そうかもしれないな。その人物がいくつかは知らないが、
五十歳ぐらいであれば記憶に残っていてもおかしくないね。
王が倒れた後はぴたりと嵐が来なくなって、止水郷は水不足に悩まされたそうだよ。
干ばつが酷く、かえって洪水よりもずっと多くの死者を出したそうだ」
これには桓たいは黙り込んでしまった。ややあって、
「で、なんで教えて差し上げなかったんですか?」
浩瀚に問いただした。
「なんのことだ」
「主上にですよ、これは恵みの雨だって言ってあげれば、あんなに取り乱したりしなかったんじゃないですか」
「なぜだと思う?」
「あ、その言い方。浩瀚様、そういうのを意地悪って言うんですよ。聞いているのは私です」
浩瀚は、桓たいを相手に少しずつ語り始めた。
官吏たちはまだ靖共の影響を色濃く受け、権威としての冢宰職に頭を下げてはいるものの、
この新しい朝廷を支えていこうという気もちなど無い者が多いとうことは、浩瀚にもよくわかっていた。
勅命を出していただき、やめさせてしまうことは簡単だったが、
そうすると仕事がはかどらないこともまた事実だ。
そこで、頭から一人ずつつぶしていこうと考えていた。
「もちろん、それはわかりますよ、俺だってそうですから」
桓たいはそういって酒を注いだ。
地官府の下官が飛び込んできたのはそんな折だった。
浩瀚はさっそくその官吏の案内で地官府に入り訴状や案件に目を通していった。
いくら冢宰でも昼日中、別の府へ赴きその書状をいちいち調べることはできない。
これ幸いと調べていくうちにおかしなことを見つける。書状と案件の通し番号が微妙に抜けるのだ。
確かにそれだけでどうということは無いのだが、
訝しく思い下官に問うてみると、訴状焼失の件が語られる。
どうも、その下官は良心に恥じることをしていると感じていたらしい。
そこへ持ってきて自分のふるさとが洪水だという。
おそらく、古株の地官長は、また止水郷の洪水が始まったとでも思ったのだろう。
いつもどおりの堤修復であれば、いろいろな職種の者から賄賂を受け取ることができるのだ。
洪水の被害とあれば緊急性が高まる分だけそのうまみが消える。
捨て置けと考え、本当に訴状を焼くように命じてしまったのだ。
ところが、まだ年若い止水郷出身の下官はそんな恵みの洪水だということは知らない。
あわてふためいて主上のところへ直訴した。
「というところかな」
「はあ、で?」
「桓たい。で、とは?」
「浩瀚様、ごまかさないでくださいよ。
これで、地官長更迭の顛末はよくわかりました。しかしですね。私が聞きたいのは……」
「主上のことだったな」
「そうです」
半ば憮然と吐くように桓たいは続けた。
「それなら、話しておいてあげてもいいじゃないですか。あの嵐の中を飛び出す勢いでしたよ」
「ああ、そのようだった。しかし、桓たい。
主上にお知らせしたら、地官長を失脚させることはできなかったかもしれないよ」
「そうですか?」
「主上はそのことをまずあの下官に話すだろう。彼を安心させようとして」
「それは、確かにありそうですね」
「そのあとの、水禺刀の一件も無かったろうな」
「そうですね」
「私はね、桓たい。主上が見たかったのだ」
「はい?」
「どんなふうにご自分を表現なさるか、見てみたかったのだよ」
「ああ、そうでしたか」
桓たいは、先日浩瀚が『主上とともに戦ったお前がうらやましい』と話していたのを思い出した。
拓峰の乱以降、あの乱をともに戦った者には、一種の親近感が生まれている。
禁軍で主上の人気が高いのもそのせいだろう。
しかし、浩瀚様はそんな主上の素の姿を知らない。もっと知りたいと考えるのは当然だろう。
まして、冢宰として主上を補佐する役目なのだから。
「それで、いかがでした? 主上は」
「かわいらしい方だ。しかし、燃えるような王気をお持ちだ」
「なんだか、うれしいですね。主上のことを浩瀚様にほめていただけると」
「桓たいも、主上が好きなんだろ」
「そりゃあもう、大好きですよ」
酒が入っていささか大胆になっている桓たいは、はっきりとそういった。
そんな桓たいを、浩瀚は慈愛に満ちたまなざしで見ている。
「私も、持てる力をかけて、お守りしたいよ」
「そうですね」
ごろごろと稲光のする空。夜も更けて、金波宮にも春の嵐が届いたようだった。
これは、恵みの雨なのだと、二人静に酒をたしなんでいた。
次の日の朝議の席、
「直答を許す。出身と名を答えよ」
陽子が命ずる。
「かしこまりました。出自は止水郷。氏は燿、名を励庵と申します」
「うん、燿励庵。お前を止水郷の郷長に任ずる。昇紘の後だ。民に優しく、しかし治水をしっかりと頼むぞ」
「かしこまりまして」
下官の目には涙があった。
「では冢宰、後を頼む」
そういって、陽子は玉座に戻る。
「励庵、よくお聞きなさい。これは、試練であるということを肝に銘じておくように。
あなたは、地官府で書状を焼いたことがあると正直に告白した。
それは、心情としては大変立派だが、罪は消えない。
それを、主上は、これはあなただけの罪では無く、
朝の体制を整えることができていないご自分の責もあると、恐れ多くもおっしゃったのです。
蓬莱には、罪びとの刑罰を執行するのに、その状況をかんがみて、
いくばくかの期間をおき、その間に悔い改めしっかりと正しい道を進むなら、
その刑罰をなくしてしまう制度があるそうです。
いまだわが国にはそのような法律を見たことはありませんが、
大変進んだ法律といえましょう。違いますか、秋官長」
「は、はい。まことに」
そんなことは思ってもいないことだったが、秋官長はとりあえず同意した。
「励庵よ。そのことをよく覚えておきなさい。これは許されたのではなく、新しい試練です」
「あ、ありがたき幸せ。この励庵、勤めを果たすべく邁進いたします」
おもわず、両膝をつき叩頭した。
「励庵、叩頭禁止!」
玉座の上から、陽子は笑って命じた。
春雷は嘘のように去り、止水郷には、沃土と生真面目な郷長が残った。
終わり
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