第二節 陽子、和州の洪水に驚く




「それは本当か!」

 陽子は青い顔をして、下官の報告に聞き入った。

 地官府の者が緊急の件案だといってまだ夜も明けぬうちから、王のところへ報告に来たのである。
 聞けば、和州明郭の周辺一帯、集中豪雨が襲っているという。
   思えば、初勅が済んですぐに堯天でも雨が降りだした。 やがて雨雲が和州に集まり徐々に雨量を増して行ったらしい。 三日も降り続いて変だなあと思っているうちに、雨足が強くなったとのことだった。

 濁流は川を下る。止水郷で、いきなり堤をきったそうだ。 被害はいかほどになるのか見当がつかないという。陽子は唇をかんだ。

 あんな思いをして、やっと酷吏から開放されたのに、天は何を考えているのか。 憤りを感じた。いや、私がふがいないから、私のせいか……。こぶしを握り締め、涙をこらえる。

「ご苦労であった。こんな時間に大変だったな。一時休んでくれ。 あ、その前に、申し訳ないが、冢宰と太師と台輔を内宮へくるように伝えてもらえないだろうか」

「かしこまりまして」



 下官が去ると、陽子は鈴に頼んで着替えを済ませた。

「陽子、大丈夫?顔が青いわよ」

「ああ、止水郷の堤が大雨で決壊したらしいんだ」

「えっ!?」

今度は鈴の顔が青くなる番であった。殊恩党のみんなは??いいえ、虎嘯や夕暉は……?

 確かに、夕暉は堯天にある少学へ通うことになっており、虎嘯は陽子の大僕として、 金波宮へ勤めることにはなっていたが、二人ともこちらについたという連絡は無いのだ。 その不安を読み取ったかのように陽子も無言でうなずいた。

「いかがなされました?」

心配そうに訪れたのは景麒であった。 「今、地官府のものから報告を受けた。和州で洪水だ」

「なんと!」

景麒は透き通るような紫色の瞳をゆがませた。

「それでは、このところ堯天でも雨模様だったようですが、それとも関係が?」

「いや、私にはよくわからないが、和州ではもっと雨量が多かったようだ」

「主上におかれましては、いまだ朝餉も召し上がってはおられない。 すぐに用意させますので、まずは朝議のご準備をなさいませ。 私は地官府へ行って、その件について詳しく調べてまいりましょう」

「うん、たのむ」

「おはようございます、主上」

「あれ、浩瀚か。ずいぶんと早い出仕だな。 景麒はともかく、お前の官邸はもっと遠かったような気がしたが」

「申し訳もございません。仕事がはかどらず、 昨晩は冢宰府にて仮眠を取る羽目になってしまいました。 しかしながら、そのおかげをもちまして、 こうして主上の御前へ早くに上がらせていただくことができましたが」

「和州で洪水だ」

「そのようでございますね」

「下官が知らせに行ったのか」

「地官府のものが駆け込んでまいりました。それで、台輔」

「なんでしょう?」

「地官府は冢宰府からは割合と近いほうの府吏でございますので、 その者に地官府あての訴状を見聞させてみましたが」

「それは、手回しの良い。わたしもそうしようと思っていたところです」

浩瀚は静かにうなずくと、何枚かの訴状を景麒に手渡した。 それに目を通した景麒は、みるみるうちに、さらに顔色を無くしていった。

「景麒、どうした!」

そこへ、珍しく急いだ風の遠甫が下官の案内で入ってくる。

「おお、台輔。このお顔の色はどうなさった」

「あ、太師!おはよう……実は和州で洪水が、地官府の訴状を浩瀚が持ってきて、それで……」

浩瀚は、勢い込んで話そうとする陽子を気遣って口を挟んだ。

「主上、大丈夫ですか? いささかあわてていらっしゃるようにお見受けいたします」

「ああ浩瀚、すまない。自分でもどうしたらいいのかわからない。 とても心配なんだ。拓峰のみんなは無事なんだろうかと。 もちろん、慶国はまだどこも貧しく、もっと大変な災害も起きているのかもしれない。 でも、私は……」

「そうですね。主上の親しくされていた方々が、何人もお住まいです」

ただならぬ様子に、大まかな事情を悟った遠甫は、陽子のそばによると静かに提案した。

「冢宰、台輔、それに陽子も、我々がここであわててもよいことはありますまい。 陽子、ここはかえって落ち着かないので書斎のほうへ移動したらどうかの」

「太師……」



 そこへ、先ほど急いで部屋から出て行った鈴が戻ってくる。

「陽子、あ、皆様おはようございます」

「鈴!」

「書斎のほうへ簡単な朝餉を用意したわ。皆様もよろしかったらどうぞ」

「ありがとう。ちょうど今、そちらへ移ろうと思っていたところだよ。鈴は察しがいいな」

「あら、ほめてくれるの?うれしいわ。祥瓊も起きてお茶を入れてくれているはずよ」

「うん、こんなふうにしていると、生活観があるよね。 なんだか本当に金波宮に住んでいるっていう気持ちだよ」

「なに言ってんのよ。もう、登極してから2年めに入っているんでしょ。しっかりしなさい!!」

「わかった、ありがとう」

 たわいない会話だったが、陽子はずいぶんと気持ちが落ち着いた。 見た目だけとはいえ、自分と同じような年頃の友人に気安くたしなめられるのは、 ずいぶんと心休まることらしい。三名の重臣は顔を見合わせて、そっと微笑んだ。

   ことは深刻だったが、気持ちを切り換えた陽子は朝餉をしっかりと平らげた。 健康そのものである様子を見て、景麒は安心する。 祥瓊の入れたお茶を前にして、まず景麒が切り出した。

「主上、この堤の決壊は大雨のためばかりとはいえないようです」

「なんだと!」

「こちらの訴状をご覧ください」

景麒が指し示す書状を、浩瀚がゆっくりと説明する。

「こちらが、訴状を書いた日時、そしてこちらが受け付けた日時でございます。 います。書いた日時も受けた日時も拓峰の乱より以前のものでございます」

「ほんとうだ」

「内容は、止水郷の堤を春の大雨に備えて補強したいというものでございます」

「何だって!」

 いくら政治に疎い少女王であっても、それがどういう意味を持つかぐらいはわかったつもりだった。

「私が王宮を留守にしていたために、補修が遅れたのか!」

愕然として陽子はうなだれる。しかし、浩瀚はそんな陽子に首を横に振って見せた。

「そうとはかぎりませぬ。そして、次の訴状でございます」

「これは、七日ほど前になるのか。ちょうど金波宮でも霧が濃くなった日だ。 よく覚えているよ。堯天は雨だったそうだね」

「さようでございます。内容は止水郷の堤で切れそうな箇所があるから 大至急補修を訴えるものでございます」

「その日のうちに受理したことになっている」

「で、ございますね。そして、三枚目、最後の訴状でございます」

「二日前だ、しかも受理した日付が無い」

「内容は、堤の決壊が始まった、救助を請う訴状でございます」

 陽子は唇をかんで勢いよく立ち上がった。怒りに震えているのは誰の目にも明らかであった。

「こんな大事な訴状をなぜ受理しないんだ。堯天から止水郷までは歩いても2、3日ぐらいだろう。 騎獣を使って先行させればたった1日の距離だ。禁軍の精鋭をすぐに向かわせることもできたんじゃないのか?」

「おっしゃるとおりでございます」

「浩瀚、私はみすみす止水の人たちを洪水に巻き込まれるままにしてしまったのか?」

「まもなく、朝議の始まる刻限にございます。 私が地官長を問いただしてみますので、あまりご自分をお責めになりませんように」

「ああ、そうだね」

陽子は、はぁーっと大きなため息をついた。

「ため息は私がつけば済むことでございます。主上には似合いません」

「景麒、それ慰めているつもりか? 気を使わせてしまったな」

「いえ」

 陽子は自分の半身の不器用な慰めに暖かいものを感じていた。

「祥瓊、鈴。朝早くからどうもありがとう。じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい、陽子」

「落ち着いてね」

「わかった」

こうして陽子は執務室を後にした。



 陽子は、景麒、浩瀚、遠甫とともに外殿へと向かった。回廊を渡るときに、雲海の下では稲光がした。

「春雷……」

陽子はつぶやいた。



 回廊を急ぎ足で行く途中、陽子は突然思いついて、冢宰職の浩瀚に尋ねてみた。

「浩瀚、地官府の私に訴えてきた下官の意見も聞いてみたいのだが」

「そうですね。では、あの者の位以上のものはできるだけ出席させるようにいたしましょう。 もちろん、あの者に是非にと伝えますので」

「ありがとう」

 なんとなく無理をいっているような気がしたが、 自分の考えを受け入れ実行しようとする浩瀚を陽子は頼もしく思った。



 一方、地官長は内心の動揺を隠せなかった。 なにしろ取次ぎの官を残して、ほとんどの官吏に出席せよと冢宰から言われれば 、簡単に断るわけにはいかない。何事かと思って外殿に座っていれば、 景王が台輔を従えて入ってきた。

「本日は、急ぎの案件がある」

 冢宰が重々しく口を開くと、諸官は何事かと固唾を飲んで見守っていた。 地官府の官吏の数が妙に多い事に首をひねる者もいた。

「本日未明、和州明郭から止水郷の辺りに洪水が起こったと知らせが入った。 止水郷の堤防が一部決壊したらしい。地官長、このことはご存知か?」

「ただいま、はじめてお聞きいたしました」

「ふむ、では被害状況などはわからないのですね」

「まことに申し訳ないことでございますが、存じ上げません。至急調べさせましょう」

「では、その任につく官吏を選んで地官府のほうへ戻るようにさせてください」

「わかりました」

「お、お待ちください」

そう言ったのは、未明陽子の元へ急をつげに来た下官であった。

   陽子は、このまま朝議が終わってしまうのではないかと心配しながら見守っていた。

   浩瀚に任せたのだから、今日は最後まで玉座に座っていようと考えていた。 しかし、落ち着き払った冢宰の議事進行は、今朝方の自分たちの思案を、 まるで無かったことにしているようだと、正直いらだちがぬぐえない。

   こうしている間にも、拓峰は被害が広がっているのではないかと、気が気ではなかった。

   あのときの下官が発言しようとしているのを見て取り、 これからの進行に目を向けようと姿勢を正したときだった。

「御前である。そなたの官位では発言は控えよ」

地官長が、下官をにらみつけて言い放つ。陽子はもう我慢ができなかった。

「地官長」

陽子はゆっくりと声をおろした。

「そなたこそ、控えていろ。冢宰、議事は任せる。下官の発言も許す」

「かしこまりました。主上もあのように仰せだ。申してみよ」



 その下官は、とんでもないことを語りだした。

 止水郷の堤防が決壊したという訴状を地官長が燃やすように指示したというのである。 朝議の場は、一挙に騒然とした。

 わあわあと罵声が飛ぶ中、陽子はゆっくりと壇上から下りていった。

 地官府の役人たちの前まで来ると、すらりと持っている水禺刀を抜き放つ。

 周りの官たちは息を呑んだ。やがて、そのぴりりとした空気が伝わっていく 。陽子を見た官たちはみな目を開き口を閉ざした。 波を打ったように静かになるとはこんな感じであろうか。

「地官府の官吏、みなに問う。それは本当のことか?」

水禺刀は地官長の目の前にあった。

「私は、ふがいない王だ。それは私自身が一番よくわかっている。 しかし、景麒は私を選んだ。この水禺刀も私にしか使えない。 その方たち、私が信じられなければ、この水禺刀に誓って答えるがいい。 達王のおりから王だけが扱うことができるというこの慶国の宝重、水禺刀に」

拓峰の乱を、主上自ら剣を取り戦ったことはすでに金波宮じゅうに広まっている。 使令がついているとはいえ、陽子が、今、 目前の地官長を敵として戦うのに躊躇が無いことははっきりとしていた。

下官が平伏して、しかしさらに顔をあげ訴える。

「主上、私は本当のことを申し上げております。 主上には誠に申し訳ないことではございますが、 実はこのようなことは今回だけではございません。 何回かにわたって、焼くように命じられた訴状がございました。 私も、その咎から免れるとは思いません。 しかし、止水郷は私のふるさとでございます。 仙として使えてからまだ10年ほど、私の知り合いも止水郷にはたくさん生活しております。 それを、それを見捨てるなど……できませんでした」

「地官長、なにか言うことがあるか」

 冢宰としての浩瀚は、淡々とたずねていた。 その表情は、常と変わらぬものであり、特に非難の色があるわけでもなく、 かばい立てをするものでも無く、穏やかとも思えるほどの、感情の見えないものであった。

「私はそのような指示を出した覚えはございません。本当でございます」

 地官長も負けまいと淡々と答えようとしていたが、こちらは動揺を隠せない。 そこへ、先ほど地官府へいって訴状を調べていた官が戻ってきた。

「遅くなりました」

「ご苦労でした。なにか見つかりましたか?」

浩瀚は静かにたずねている。

「こちらに」

 差し出された三枚の訴状は、今朝方確認した物であった。浩瀚は日付とともに訴状を読み上げてゆく。

 三枚目の受理印の無い訴状を読み上げたところで、地官府の者は色を失った。 どうやら、訴状の存在を知っていた者は限られていたらしい。

 あの下官はひたすら平伏している。よく見ると震えているようだ。 自分が語ったことが認められるにしろ、られないにしろ、重罪は免れないと思っているようだった。

   地官長は落ち着いた風を装ってはいたが、冢宰から返答を求められたときの声は、かすれていた。

「この訴状はご存知か?」

三枚目の訴状を見せて問う。

「いえ、存じません」

「おかしいですね。訴状が書かれたのは2日前のようですが」

「まったく、存じませんが」

 ひたすら、知らなかったことを論じる地官長。姑息だが、へたに言い訳をするよりは真実味がある。

「それでは、あなたが見過ごしたことになりますが」

「そうであれば、幾重にもお詫びいたしましょう」

「わびてすむことじゃないぞ!」

突然、陽子が口を挟む。

「今、冢宰が読んだことを聞いていなかったのか、止水郷では流された里もあるようだ。 亡くなった人も出ているかもしれないと言ってきた。 なぜ、すぐに救助を出さない。見落としていい訴状ではないだろう」

 すでに水禺刀は鞘に収めていたが、陽子はまだ玉座から降りたままだった。 赤い髪が逆立つように感じられ、緑の瞳はじっと地官長を捉えていた。 陽子は、こみ上げてくる怒りに大声で叫びたいところだったが、 自分を抑え、ゆっくりと語っていた。

「冢宰」

「はい」

「すぐに必要な救助を出せるように整えて実行してほしい。私の勅命がいるのならば教えてくれ」

「かしこまりました」

「秋官長!」

「主上、何でございましょう」

「私は、慶国の法はまだほとんどわからない。 しかし、地官長にはどう考えても落ち度がありそうだ。至急調べて、報告せよ」

「わかりましてございます」

「地官長」

「はっ」

「調査が終わるまで地官長は謹慎していろ」

無言で地官長は叩頭していた。

「主上」

「あ、景麒、すまない。もう戻る。みなも朝議を続けてくれ」

 陽子が壇上の玉座につくと、浩瀚が、今日だけ特に呼び出されていた 地官府の官吏たちに小使徒とその次の位のものを除き、退出をうながした。 地官長は禁軍の兵士に従いこちらも退出して行った。

   これで、緊急の動議は終わり、通常の朝議が進んでいった。 おりしも、春雷の音が外殿にまでとどろいていた。



 その日の朝議が終了した後、内殿へ下がった陽子は、珍しくも、 自分を失うほど激しく憤っていた。周りの重臣たちを相手にばたばたと押し問答をしていたのだ。

「いやだ。お願いだ、私も行かせてくれ!」

 とめようとする女官をふりほどき、鈴や祥瓊の言うことも聞かず、 班渠を呼ぼうとするのを景麒が無理やり待たせるという、どうしようもない状態であった。

   陽子の大声が、内殿の執務室に響いていた。 朝議の間、じっと押さえてきた感情が爆発したのだろう。 桓たいは、今にも嵐の中を飛び出していこうとする陽子の腕を思わず捉えると、 嵐の音に負けないように叫んだ。

「主上、禁軍の空行師精鋭を向かわせるよう手はずをとっておりますので」

「桓たい!遅い!遅いんだ。わかっていたんだろ。 もっと早く行かせるべきだった。なぜ気づかなかったんだ。私は!私は!……」

「主上、しっかりしてください」

桓たいはなおも陽子を引きとめる腕に、力を込める。

「……でも、私は、私……いや、そうだ。桓たいのせいじゃない。すまない。取り乱したね」

   息を弾ませながらそういった陽子は、しばし、大声を出して発散させたのか、 いくらかおとなしくなった。桓たいの後を引き継ぐかのように浩瀚が陽子を諭す。

「主上、落ち着かれましたか。私などが申し上げることではございませんが、 あえて申し上げます。訴状には『甚大な被害』とはありましたが、 怪我人などの記述はございません。 急ぎとはいえ、このような場合、具体的に被害があれば書き記してくるはずでございます。 主上が自ら、危険極まりない洪水の現場に向かうなどということは、どうかおやめください」

「ああ、浩瀚。わかっているんだ。わかっているんだが……」

「主上、私が参りましょう」

「景麒……」

 自分の半身である麒麟が行くと言い出して、 陽子は初めて危険な場所へ飛び出そうとしていた自分に気づいた。

「いや、お前が行かなくても……。お前こそ、そんな危ないところに行ったらだめだ」

「私には常世で最速の足がございます。 私の使令は優秀ですので、危険なことはございません 。侮るわけではございませんが、洪水ごときを恐れる私ではない」

「うん、そうか。そうだね、景麒ありがとう。では、行ってくれるか」

「すぐにでも、転変してまいります。私が直接見てまいりますので、それまでどうかお待ちください」

「うん。景麒、危ないことは避けてくれ」

「私は、主上とは違います」

憮然とした景麒を見て、陽子は苦笑する。

「わかった。みんなも心配かけてごめん。今朝は早くからありがとう」

 ようやくいつもの陽子に戻ったのを見て、遠甫も安心したようだ。

「陽子も、みなも少し休んだらどうかの。台輔には申し訳ないが」

「太師、私のことならお気遣い無く。すぐに戻ってまいります、では」

「ああ、景麒頼む。気をつけて、行ってらっしゃい」

景麒は出て行った。陽子の挨拶の「王」らしくないことを気にかけ、 しかし彼女らしいやさしさを噛み締めながら。



  *  *  *  *  *  *  *  *



「お〜い、兄さ〜ん」

「おう、ここだ夕暉。そっちはどうだ」

「だいたい大丈夫みたいだ。これで切れた所はなんとかなったね」

「ああ、拓峰は運がいいぞ。陽子が来てから生まれ変わったようだなあ」

「そうだね。昇紘がいたときは考える余裕も無かったんだよ」

「ああ、まったくだ」

 雨はいつの間にかやんでいた。むしろ堯天の方向に黒い雲が流れている。 つい先ごろまで殊恩党と呼ばれていた侠客たちも、 懐かしむような思いを込めて堯天の方向を眺めていた。

 ここは止水郷、山地から流れる川が平らな土地に入り、蛇行を始める場所である。 拓峰からはわずかの距離。川が決壊したのはこの部分であった。

 殊恩党と呼ばれる者たちは、虎嘯などを除いて、定職を持たないものが多かった。 それが、拓峰の乱をきっかけに陽子と知り合い、 そのよしみを通じて金波宮で下男として召抱えられる矢先だった。

 いち早く堤防決壊の知らせを受けた虎嘯は、革午ら町の代表とも語らい、 急ぎ補修を始めたのだった。昇紘が治めていたころは考えもつかないことであった。

『自分たちの土地を、自分たちで守る』その当たり前の行為をみな嬉々として行った。

陽子が語った言葉、

「七割の税なんて、想像もできなかった。私は固継の三割だって多すぎると思ってびっくりしたんだ」

そんな呟きを覚えていた。

 自分たちと一緒に戦ったあの少年のような少女が新王だったなんて。 なんとも度肝を抜かれたが、戦後処理を同じように手伝いながら、 郷師や州師のなきがらに手を合わせそっと涙ぐむ姿をも目にしていた。

 凛々しい王と、手を差し伸べてしまいたくなる可憐な王と、 両方の姿を見た者は、常世の常識にとらわれない陽子についつい信奉してしまうようであった。



「台輔、早すぎるのでは?」

 心配する班渠に軽く頷いて、景麒は転変した麒麟の足を少しばかりゆっくりと落とした。 どうやら止水郷では雨が上がったらしい。進むにつれて空が開けてくる。 切れていたはずの堤に着いたときはすっかり日が差していた。

 神獣の麒麟が降り立つと、堤の修復が終わってほっとしていた者たちは一同平伏した。

「みんな顔を上げなさい。伏礼は主上が先日の初勅で廃止されました」

「おう、みんなそうだった。では台輔、拱手させていただく」

 虎嘯に習ってみな立ち始める。 虎嘯にとっては、陽子がいない台輔のほうが神聖度が高いようだ。 自然と伏礼をとってしまった。

 昇紘を捕縛したせいで、郷城がまるっきり空の状態だったのだ。 そこへ、川が増水した段階で、切れそうな堤防の近くに住んでいる住人は避難させていた。

 先の拓峰の乱で、なんだかんだと郷城に出入りした民は多かったので、 ことは案外抵抗なく進んだ。堤が決壊したのはそのあとだったのだ。 怪我人もいたことはいたようだが、さほどの混乱ではなかったようだ。話を聞いて景麒は安堵する。

「主上が大変心配しておられる。すぐに戻って報告いたします。 皆さんは今しばらく止水郷の安全を見守ってほしいのですが」

「台輔、もったいないお言葉です。無論ですとも。 この洪水は恵みの洪水です。山から肥沃な泥が流されてきているのです。 昨年までは干ばつで水が足りなくて死人が出ました。 今年は雨の量もまずまずです。昇紘が残していった義倉には、まだ種籾がたんとあるはずだ。 それを融通していただければ、今年は豊作間違いなしです」

「革午殿でしたね。わかりました、私が直接主上に申し上げましょう」

「えっ、台輔が直々にですか。ありがたや、みんな聞いたか。 今年こそまともに働ける。ありがとうございます。ありがとう……」

 町を束ねる革午の声は、もう声にならなかった。 鍬や鋤を喜んで振り上げていたのはいったい何時のことだったか、 ずいぶん昔だったような気もする。その苦労が今報われる。そんな思いだった。

   景麒にも十分その気持ちが伝わった。

   珍しく心から微笑んだ景麒だったが、残念ながら気づいたものはいなかった。 転変とは不自由な場合もあるようだ。



 金波宮で景麒の帰りを待ちわびていた陽子は、帰ってきた麒麟のままの景麒が、

「大事ございませんでした」

というのを聞き、やっとのことで気持ちが楽になった。

 午後の陽子の執務室には、浩瀚と景麒がいた。 止水郷の様子を景麒に確認するためであった。 様子を聞いて安堵するも、陽子は首をかしげる。

「それは、変だぞ。確かに訴状には甚大な被害と書いてあったんだ」

冢宰である浩瀚は、相槌を打つように答える。

「さようでございます。里が二つ流れたというのもいささか表現が乱暴です。 川が決壊して床が水浸しになったことは事実のようですが」

「浩瀚、このようなオーバーな表現はあたりまえのことなのか?」

おーばーとは、なんだろうと思いながらも、話しの流れからその意味を読み取り、説明する。

「尊大な表現をすれば主上がお気づきになるやも知れぬと、 その書状を作成した官吏は考えたのかもしれませぬ」

「うん、そういうことかもしれないな。まあ、咎めるほどのことでもないか。 景麒、本当にありがとう。みんなは明るい表情だったんだって?」

「はい、今年はこの洪水のおかげで豊作になるとか、語り合っておりました。 革午という町の代表から、義倉にある種籾をぜひわけてほしいと言われております」

「ああ、そうか。まだ、稲作には間に合うんだ。もちろん、よいとも。 浩瀚、すまないがその案件を作成してくれるか」

「かしこまりました」

「仕事を増やしてしまって、申し訳ない」

「いいえ、主上がお気になさることではございません」

「うん、よろしく頼む」

「鈴、祥瓊。そんなところにいないで入ってきてくれ」

 二人は、執務室で話をしている三人を影からそっと見守っていた。

 拓峰のみんなが気になって仕方ないのだ。乞われて入室すると、静かに拱手した。

「虎嘯や夕暉は、決壊した堤を補修していたんだそうだ」

「じゃあ、無事だったのね」

「よかった!」

 うれしそうに声を上げた二人だったが、 まだ陽子が執務中であることを思い出し、姿勢を正して立っていた。

「では、これで午後の執務は終了してよいだろうか」

「はい、ようございましたね、主上」

「ありがとう、景麒」

「では、私は今少し冢宰府にて書状を作成してまいります」

「うん、浩瀚も申し訳ない。今朝は朝早くからありがとう。早めに休んでくれよ」

「主上、実は桓たいに一献誘われておりまして」

「それはいい、よい気晴らしになるといいな」

「もったいないお言葉でございます」

二人は退出して行った。



「お茶にするわね」

「夕餉はもう少しだから、待っていて」

祥瓊と鈴も笑いながら執務室を出て行った。 もっとも、二人は再び陽子の個人の部屋でくつろいだときを過ごすのだが。

 執務室で一人になった陽子は、まだ衰えない春雷の音を聞いていた。



 

逆巻ける再誕の沃土3

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