小柄な女性の足が、一歩一歩進むに連れ、彼女の後ろに居る男性も歩く。
やや、視線を相手の方に向ければ、不機嫌な顔が目についた。
「お前はもう少し楽しそうな表情が出来ないのか?」
彼女の問いかけに彼が言う。
「本日の朝議では何をおっしゃるのか」
景麒は半ば憮然とした声色でたずねた。
先日の朝議も自分に一言の断り無く話が進み、
結果的には良い方向へ行ったものの、どうにも不安の色は隠せないでいた。
「ああ、心配しなくてもいいよ。といってもお前には無理か。
私は無茶なことを言うつもりはない。
しかし、もう官の顔色を伺い、自分を偽るのはやめにしたいんだ」
きっぱり自分にそう告げる陽子は蓬莱で会った時の少女の面影とは幾分異なって見えた。
ここに在るのは、頼りないのは事実だが、紛う事のない王なのだ。
「それは、わかっているつもりです」
「うん、すまない」
微笑とも苦笑とも言える笑いを浮かべて、陽子はそっとうつむいた。
回廊をまわると、冢宰として身なりを整えた浩瀚に出会った。
他の官吏たちに先立って、陽子を迎えに来たようであった。
「おはようございます」
折り目正しく拱手する浩瀚に、陽子は笑いかける。
「うん、おはよう。今日も忙しくなるな」
「しかたがございません。台輔にはご挨拶が遅れました」
「冢宰、あなたにもご苦労をかける」
「何をおっしゃいますか」
お互いに挨拶を交わし微笑む重臣を見て、陽子はまた笑う。
初勅を出して何かが吹っ切れたようだと自分自身も感じていた。
普通、朝議に同席はしても王はあまり口を挟まない。
見守っているものだ。事実、今までは初勅の日を除いて陽子もそうだった。
しかし、この日は違った。
王が諸官の席まですたすたと下りてきてしまった。
否、すたすたでは無い、上段を降りようとしたとき、
官服のすそに足を取られて、躓いてしまった。
「主上!」
台輔の声が朝議の間いっぱいに響く。
ちょうどすぐそばに控えていた浩瀚が、脇から腕を伸ばしてすくい取るように支えていた。
「あ、すまない」
ほほを染めてはにかむ陽子は、ふつうの少女であった。
「主上、もう少し落ち着かれるのがよろしい」
たしなむような景麒の声が聞こえた。諸官はただあきれ返ってため息をついている。
「お怪我はございませんか」
浩瀚はやさしい。
「うん、ありがとう。先日まで袍だったからね。まだ、ぎこちないな」
「そんなことはございません。
ですが、動きづらいようでしたら私が支えて差し上げますので、ご心配なさらずに」
低い、囁くような声が陽子の耳をくすぐる。
どうやら陽子を気遣って諸官には聞こえないように伝えているらしい。
陽子は浩瀚の思いやりに感謝した。
彼のほうを振り返り、みなにはわからないように、片目を瞑って見せた。
浩瀚は、蓬莱のウインクという行為を知らなかったので、
年相応のかわいいしぐさに目を見張る思いだったが、表情には出さずに、にっこりと微笑んだ。
そして、陽子は今度こそゆっくりと、段を下っていった。
議題は官吏の移動。みな、自分たちのことに関係するだけあってそわそわと落ち着かない。
近くに来た王を見てあわてて叩頭する官もいる。
「叩頭はしなくていいんだ。伏礼は初勅で廃止してしまったよ」
静かに微笑んで陽子は語る。その官吏ははっとしたように座った姿勢で拱手した。
ゆっくり頷いてさらに陽子は口を開く。
「朝議の司会は冢宰が行うのであったな」
「さようでございます、主上」
「では、私も意見を言ってもよいだろうか」
ざわつく諸官ら。想像の範疇ではないのだろう、王が命令をだすのではなく、意見を言うという。
素直にびっくりしているもの、胡散臭そうに下を向いているもの、色々だ。浩瀚はすばやく印象を記憶する。
冢宰こそ浩瀚が拝命していたが、三公は先の冢宰靖共派の地官長、
秋官長と反靖共派の春官長を、陽子がその場の勢いに任せて、配置換えしてしまった者たちである。
夏官長は勝手に禁軍を動かした罪を問われ、早々に謹慎処分になっていた。
後を引き継いだ官吏の長たちも、
陽子を支えていくということに関してはあまり頼りになるとはいえなかったのだ。
慶国のそれが実態であった。
「主上」
冢宰である浩瀚は穏やかな声で言葉をつないだ。
「主上は国王であらせられますから、
主上がおっしゃればそのお言葉はすべて通るのが筋と申すもの。
そのことがわかっているものであれば、誰も主上のお言葉を阻止するものなどいないでしょう」
そういってから、陽子の顔をしっかりと見た。
「ああ、それはどうしようもない意見は言うなとも聞こえるな。
そのとおりだね。では、浩瀚。訴状の中でよくわからないことがあったら尋ねてもよいだろうか」
「主上のご意見でどうしようもない意見があらせられるとは思えませんが、
ご質問のほうは何なりとお申し付けください」
「お待ちください」
といったのは冬官長であった。
「なにか?冬官長」
浩瀚は少しも笑っていない目で相手を凝視すると、感情を殺した低い声で問い返した。
国王に対する不敬は許さないといった冢宰の雰囲気を感じ取ってか、
冬官長はぐっとたたずまいを直すと、自分に言い聞かせるように陽子に訴える。
「はっきり申し上げて、主上はあまりにこちらの理をご存じない。
ご遊学の前もそうであったように、
わからないことをすべてご説明するほどの時間があるとは思えないのでございます」
「ほう?」
怜悧な微笑がますます美しい。周りの官たちは浩瀚の瞳に吸い寄せられる。
しかしそのあとなんとなく怖気づいてしまう。
靖共のいなくなった今、王の信を得ているのは、台輔である景麒を除けば、
この元麦州侯で現在冢宰の浩瀚であるからだ。
六官たちは靖共のときに、冢宰という役職の権力をいやというほど思い知らされていた。
「冬官長」
突然陽子が話しに割って入ってきた。
「あなたの言うことはよくわかる。それほど邪魔をするつもりはないよ。
安心しろ。冢宰、議事を始めてくれ」
険しい空気がふと緩み、男二人が視線をそらした。
「かしこまりましてございます」
その日の議事が始まった。
人事では、反靖共派の天官長、春官長が息をまいた。
靖共派を公言していた地官、夏官、秋官は色が無い。冬官長は黙って意見を言わない。
「靖共の罪は主上もご存知だ。この際、同じ穴の狢は一掃してもらいたい」
「そのとおり。今後の主上の御政務に滞りが生じるのは明白だ」
「死罪とは申さぬが、官を辞任していただきたい」
「何をおっしゃるか。靖共殿と政務での考えが同じだっただけのこと。これからの仕事を見ていただきたい」
「秋官長、よく言ってくれた」
「は?」
と官たちはそちらを向いた。
陽子が突然発言していた。怪訝そうにした官を前に幾分首をすくめるようにして陽子は続ける。
「うん、話の腰を折ってしまった。しかし、整然と議事が進んでいたわけではないから許してほしい」
上目遣いに浩瀚を見る。陽子は、官たちと同じ床にたたずんでいた。
「どうぞ、お続けくださいませ、主上」
やわらかい笑顔を見て安心した陽子は語る。
「私は、今のところ、どの官吏にもやめてほしくは無いんだ。
みんな、私よりもずっと前から政務に携わっている。
一番新参は、私自身なんだ。それはよくわかっているつもりだよ。
呀峰や昇紘のような、酷吏をそのままにしてしまったことは、
大いに反省しなければならないが、その責任は私にもあると思っているんだ」
居並ぶ官吏たちは少し驚いたように、この年若い胎果の女王をみつめた。
顔と顔をまともにあわせての朝議など初めてのことだったので、
官吏たちはその翠の瞳と紅の髪に魅せられた。あわてて顔をそむけるものもいた。
そんな様子を、浩瀚は苦笑をかみ殺すようにして眺めていた。
――この者たちも、私と同じかもしれない。王というものはまことに不思議。
はじめから人をひきつけるものをお持ちだ。
むろん、官吏は一筋縄ではいかないが、もう少しわが女王のおもうさまを拝見したい――
浩瀚はそんな風に思った。自分が「信ぜよ」と語り、
部下と言うよりは「仲間」と言ったほうが良い麦州の多くの者達の命を懸けて必死に走ってきたその成果が、
この真摯でかわいらしい少女王であるなら、誠に甲斐があるというものだ。
陽子は続ける。
「そう簡単に、官吏を罷免などできないだろ。台輔、冢宰どうだ?」
「まことに」
「ごもっともでございます」
「うん、ありがとう。だから、私の意見はみんな、このまま同じ職場で、
職場っていう言い方は蓬莱風で申し訳ないが、同じ職分の場所で地位もそのままで、
しばらく働いてほしいんだ。もちろん、初勅のときに伝えた人事は、そのまま変わらないけど。
そこで、一刻も早く女性に慶国へ戻ってきてほしいということと、
半獣、海客に関する差別撤廃の法令を進めてほしいんだ」
「冢宰、よろしいか?」
「秋官長、どうぞ」
「主上のご意見はごもっともでございます。
さらに、昇紘、呀峰、靖共についても所業を明らかにするべく
秋官府の総力を持ってあたらせていただきます」
すぐにやめさせられることはなさそうだと思ったのか、
陽子の前で名官吏振りを見せようと秋官長は発言する。
「私もよろしいか」
「地官長、忌憚ない意見を」
「慶国を出奔した女性に関しては、秋官、夏官ともに話し合いを持ち、
本国へ帰還できるよう新たな法令を案件として整えたく存じます。
それについては、予算のほうも割かなくてはならないと考えております」
地官長もほっとしたようだった。
「うむ、天官長、春官長。主上もあのようにおっしゃっておる。いかがしたらよかろう」
「春官といたしましては、主上のお言葉身にしみましてございます。
温情ある人事、まことにありがたく思います」
「はっきり申し上げる。私は、この案件の行方が心配です。
元靖共派のあなた方に任せると、いったいどんな物が出来上がってくるやら。
冢宰、私はあなたがこれらの案件に目を通し吟味されることをお願いする」
天官長は春官長とは幾分異なり辛口の意見だ。
「天官長、もとよりそれが冢宰の職務。
新参者ではございますが、私も能力の限りを尽くして吟味いたしましょうぞ」
「それならば、とりあえず異議は取り下げる」
地官長らを一瞥して、天官長は口を閉じた。
「冬官長、なにかございますか」
「いえ、私は特にございません」
彼は、政務については無関心なのか、この件については意見を言わなかった。
「主上、いかがでございましょう」
「うん、みんなありがとう。実は、人事については、
もうひとつ言いたかったことがある。言ってもよいか?」
陽子は、あくまでも官吏たち全員に向かって話していた。
思わずこくんと肯く官吏もいる。
今までの慶国の朝議の中では、けして見られない様子なのであった。
「どうぞ、お話なさいませ主上」
「冢宰、すまない。実は、私自身のことなんだ。
みんな、よく聞いてくれ。私は、こんな王だ。
いまだに字もろくに読めない。
常世のことは蓬莱には無いことばかりで戸惑う。
こんな王の下ではとても働いていられない、と思う官吏も結構いるのではないかと思っていた。
私が王である限り、官吏としてのやる気がおきない、という官がいたら、
正直に話して、やめてほしいと思っている。
努力してはいるんだが、なかなか追いつかないんだ。
王にあきれ果てて、慶の民に酷なことをするくらいならぜひ辞表を出してくれ。
私の言いたいことはそれだけだ」
どこか寂しそうでもあった陽子は、語り終わると晴れ晴れとしていた。
ずっと思っていたことをやっと口に出して言えたのだ。
これで、みんなに辞表をだされても仕方ない。そう思っていた。
「主上」
冬官長が口を切る。
「私は、主上のお心がいまだよくわかりませぬ。
礼や作法も気になりまする。
しかし、今主上が慶の民を思うておられることはよくわかり申した。
もっと、苦言を申し上げることになるかもしれませんが、
私はもう少しこちらで働かせていただきましょう」
「私も」
「私もでございます」
次々と拱手する官を見て、陽子はそっと涙ぐんだ。
「よかった。私ももう少し大丈夫」
そう思う女王であった。
「では、ここまでで本日の朝議は終了する。一同解散」
浩瀚の低くよく通る声が外殿に響いた。
朝議が終了し、陽子は台輔と冢宰と回廊に出ていた。
「う〜〜〜ん。浩瀚、こんなもんでどうかなあ」
「ようござりました。主上は、おやさしい」
「やさしいかどうかは別として、ずっと思い込んでいたから」
「何をでございますか」
「私みたいな王の元で働くのはたいへんだよ。私だったら絶対やめているだろう」
「主上!」
景麒は、なげやりな陽子の物言いが気になった。
「あ、景麒ごめん。王にあるまじき言動だね。でもよかった、誰もやめようなんていわなくて」
「給田が多ございますからね、国官は」
「うん、そうらしいね。太師に里家で世話になったときに教えていただいた。
それにしたって、いやなことをするよりましだと思うんだけど」
「それは、豊かな国になればそうかもしれませんが」
「うううう、いやな国王にも使えなくてはならないほど、慶国は貧乏って事か……」
うめいた陽子に二人の男は笑い出した。
「主上」
「なんだ、景麒」
「主上のおそばより穏やかな気配が流れておいででした。
諸官もその気配を感じていたようでございます。
新しい慶国のはじまりかと存じ上げますが」
「うん、そうだとうれしい」
「さようでございますね」
浩瀚も笑顔で肯いた。
浩瀚は陽子と台輔に挨拶を済ませ、回廊を冢宰府へと向かおうとしていた。
「冢宰!」
声をかけたものがいる。
「桓たいか?」
「こちらでございましたか」
「うむ、主上から昼餉に誘われたのだが」
「それはうらやましい」
「ことわった……」
「えっ?!それでは、陽……主上もがっかりなさったのではありませんか」
「そのようだったな。しかし、お前とも話をしておきたかったのでね」
「主上より私を選んでいただけましたか。それは、うれしいですね」
「禁軍は、どうだ?」
「まずまずかと」
「ふむ。武人のほうが、主上は好かれるやも知れぬな」
「なにしろ、和州の乱では、ものすごい光景でしたから。冢宰にもお見せしたかったですよ」
「台輔にまたがって元左将軍を諭された一件か?」
「諭すなんて、そんなおやさしいもんじゃありませんでしたよ。
息を呑むような美丈夫ぶり、いえ生粋の武人というか、
なにしろ女性とは思えぬような凛々しさでしたからね」
「話だけを聞くと、そうらしいな。
しかし、今日の朝議ではまことに御年にふさわしく、おかわいらしい少女王だったが」
「そうなんですか、俺はかわいらしい主上と言うのは想像できませんよ。
機会があればぜひ見てみたいですね。主上との思い出といえば、
拓峰の乱の真っ只中、背中を合わせて戦ったことでしょうか」
桓たいはしばし遠い眼をして、心を何日か前に飛ばしていた。
そんな桓たいをまぶしそうに見ていた浩瀚は、そっと口を開いた。
「私は、そっちのほうがうらやましいぞ」
「左様でございますか?しかし、金波宮の中にあっては、あまり主上自ら、
りりしいお姿をするような機会が、あっては困るような気もいたしますが」
「まったく、お前の言うとおりだ」
「「ん、ふふふふ。」」
二人は顔を見合わせて笑った。
「いくつかきな臭い連中もおりますが、もう少し立つとはっきりしてくるかもしれませんね」
「では、そちらはしばらく任せるとするか。官吏のほうも、もう少し泳いでいていただこう」
「主上が罷免しないのでしょう。おおかた、ふがいない私でもよいのかなどとおっしゃって」
「よくわかるなあ」
「そういう方ですよ。まあ、よろしいんじゃないですか。一度にやめられても仕事がとどこおるだけですし」
「そういうことだ。主上は何もわからないなどと仰せだが、
なかなかどうして肝心なところは抑えていらっしゃるようだ」
「予行練習でもなさったんですか」
「いや、あれはそうと気がついておっしゃっていたわけではなさそうだった。
主上の天性のものであろう。昨晩、お考えを伺いいくらかご助言申し上げたが、
主上はただ、ご自分のお考えを率直に朝議の中で話してもよいのかどうかを案じておられただけだった。
お心のままにおおせなさいませと言っただけだよ。助言もへったくりも無いだろう?」
「それで?」
「朝廷の勢力図はほとんどかわらん。靖共派はいまだ健在だ。
みな、自分の地位が安泰であれば主上が何を言おうとあまり真剣にはとらないだろう。油断するまいぞ」
「こころえまして」
二人の男は瞳を交わしあい、それぞれの官府へと歩みを進める。
金波宮には、春先によくある霧が立ち込めていた。
下界では雨が降っているのだろうか。
ちょうど良いお湿りになればよいと、男二人、思案しながら回廊を歩き去っていった。
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