それは、冬至の祭礼における準備が真っ盛りで、金波宮が忙しいときだった。
赤楽十数年、慶国は復興してきている。
諸官の整理もすすみ、新たな意気込みの官吏たちが、希望を持って行政を執り行っている、少なくても表向きはそう見える時代となった。
陽子を中心として、慶国における重臣たちは、努力が実りつつあることを確信していた。
そんな公の部分に隠れて、陽子の身辺では、陽子自身のことを思いやる余裕も出てきたのだ。
「あ、祥瓊!」
「あら、鈴。どうしたの?こんなところで会うのは珍しいわ」
女御の鈴と、女史の祥瓊は、冢宰府に近い回廊ですれ違おうとして、お互いに足を止めた。
「私は、よくここまで来ることがあるけど、鈴は久しぶりなのではないかしら?」
「ええ、今日は陽子が浩瀚様に至急尋ねたい事があるからって、言づてと手紙を頼まれたのよ」
「そうなの?いったいどうしたのでしょうねぇ」
「堯天の天候のことらしいわ」
「ふうん、鈴は最近下におりているの?」
「それは雲海の下って言う意味かしら?」
「そうそう」
このころ鈴は、陽子の身辺でごく身近なことは、ほとんどすべてを取り仕切るようになっていた。
頻繁に雲海の下に行くことのできない陽子に変わって、陽子のちょっとした買い物や様子見も兼ねて、堯天に降りる事が多い。
陽子付きの女史として、政務の記録や書状の内容確認をする祥瓊に比べて、鈴の方が格段に雲海の下のことについては詳しかったのだ。
陽子もたまには下に降りることもあったが、今は政務がうまく回転するようになり、むしろ忙しくて遊んでいる心の余裕がなかった。
先日景麒が、今年の冬は瑛州ではいつもの年よりも寒さが緩んでいるという報告を持ってきていたのだ。
陽子は、冬場の適度な寒さが作物に良い影響を与えることを知っていたので、
いつもより暖かい冬至の準備期間を過ごしながら、この気温変化が慶国全体に影響が出ていないかを調べるように、
浩瀚に手紙を書き鈴に言伝を頼んでいたのだ。
「で、鈴。堯天では何か変わったことがあったの?」
「まだ特に無いわよ。でも、野菜売の女将さんが葉ものを漬物にするのに、寒さが足りないって嘆いていたわ」
「どうしてかしら」
「あんまり暖かいと、野菜がつかる前にかびが生えてくるのよ」
「ああ、そうよね。そういうこともあるわよね」
「でもね、祥瓊。わざわざ浩瀚様をお呼びするほどの問題ではないような気がするのだけれど」
「陽子、忙しいからこのところ政務でもあまり浩瀚さまと親しくはお会いしていないのよ」
「あら、そんな遠慮しなくても良いのに」
「そうねえ鈴? でも、やっぱりまだ気にしているのではないかしら。前の景王と台輔のこと」
「そうね。いくら平和になったとはいえ、王と冢宰という間柄では、堂々とっていうのは、難しいと思うわ」
鈴と祥瓊の二人は、陽子と浩瀚がお互いに王と臣下という関係とは別の部分で、思いあっているのではないかと感じていた。
それは、公の部分ではまったく気づかないような、ささいな部分であったが。
たとえば視線が合うと、二人だけのときは穏やかに見つめあったり、また、他のものが周りにいるときは逆に、合わせないようにしたり。
いつも一緒にいることの多い鈴と祥瓊の二人だからこそ、わかるのであろう。
また、桓たいや虎嘯から、浩瀚の私的な様子についても情報が入ってくる。
どうやらお互いにまんざらではない様子なのに、まだ少しも触れ合うようなことはしていないのだ。
男女の理は、複雑だ。
表に出せば、良いというものではなく、隠し通そうと押さえ込めば大爆発を起こすかもしれない、扱いにくい感情だ。
事実、予王はそれが原因で結局は失道にまで発展してしまった。
「早く野合でも何でもしてしまえばいいのに」
「あら、それはちょっと乱暴ではないかしら?」
鈴と祥瓊は、この類の会話をしょっちゅう交わしていたのだ。
この日も、そんな戯言を交わし、二人はそれぞれの役目を行うために分かれていった。
しゃらり。振り返る陽子の髪に豪奢な簪がゆれる。
「お美しゅうございます」
月並みな言葉しか浮かんでは来ないと思いながら、浩瀚がその姿を評した。
冬至まであと半月ほど。
郊祀の祭りの衣装合わせがちょうどすんだところに、浩瀚がやってきた。
祭祀の衣装は、質素だが落ち着いた品のあるもので、若くして神籍に入った陽子には、とてもよく似合っていた。
特に誰も命じているわけではないが、二人の周りから自然に下官たちは離れていく。
とはいっても、何があってもすぐに駆けつけられるように控えてはいるのだが。
二人の邪魔にならないようにと、自然にそういった流れができていた。
「ああ浩瀚、ありがとう」
「簪が重いですか?」
浩瀚は、初勅がすんですぐのころ、頭に色々な装飾品をつけるのは大変だと愚痴をこぼしていた陽子を思い出していた。
「いや、そうでもない。女御たちが軽い物を選んでくれるし、新しく作らせるときは、玉よりも貝や真珠なんかの重さが軽い簪を作ることにしているからね」
「左様でございましたか。それはようございました」
「ああ、慶もだいぶ落ち着いたな」
「本当でございますね」
二人は、穏やかに見つめあう。そしてお互いにふっと唇をほころばせた。
「ところで、ほかでもないのだが、今年の堯天なんだけど、妙に暖かい日が続くんだそうだね」
「はい、そのようですね。至急冬官府と地官府に問い合わせてみましたが、具体的な被害などは上がっていないようです」
「そうか、それならとりあえず様子を見ていよう。私はまだ、この国のことがよくわかっていない」
「それは、常世についてわからないことがおありになるという意味でしょうか?」
「いや、そんなんじゃないさ。十二国にどんなことがあるのかは、まだまだ先のことだ。まず、自分の国を見つめなくちゃ。
それも、この瑛州からだ。そして、この金波宮のある堯天を、まず知らなくちゃならないと思う」
「それで、時々雲海の下へ降りられるのですか?」
「それは、少し前の話だな。このところ、勝手に下へなんか降りていないよ。忙しいんだ」
浩瀚を前にして、にっこりと笑う陽子は、初勅すぐのころの陽子とほとんど変わらなかった。
「では、少し気晴らしにおいでになりますか?」
「ううん、いいよ。まだ、やるべき事が山積みだから」
浩瀚は静かに頭を下げる。
主上は、政務には誠実に向かっておられる。このようなお姿を垣間見る官吏たちは、さぞかし心が引き締まることだろう。
なかには、不届きな振る舞いをするものもいるようだが。何、そやつらは我々が考慮すればすむこと。
静かに思いをめぐらせつつ微笑む浩瀚を見て、陽子は苦笑する。
「とはいえ、やっぱりこの時期はきついな。何か、面白いことでもあるか?」
「出奔意外でございますか?」
「浩瀚」
ほんの少しだが、陽子は憮然としたようだ。声をかけてから、一呼吸おいた。
「私はそんなにしょっちゅう金波宮を抜け出したりしていないぞ。鈴や、祥瓊に聞いてみてくれ」
「それは、失礼をいたしました。しかし、先ほどのお話でございますが、このように暖かい日が続きますと、毎年降る雪の量が、今年は少ないかもしれません」
「すると、降雪による被害は少なくなるが、その後……なんだろう?浩瀚、どう思う?」
「いささか、乾いた冬となりましょう」
「では、来年の稲作に影響が出るか」
「やもしれませぬ」
「ううんと……何時ごろ降るかなあ?雪」
「では、私と予想を立てて、近いほうが勝ちといたしましょうか」
「え、雪が降る日を当てるのか?」
「はい。この程度の面白いことしか、思いつかずに恐縮ですが」
「いや、そんなことは無い。面白いかも」
陽子は、にこにこしながら考えていた。
「では浩瀚、こうしないか?ただ当てるだけではつまらないから、
より近かった方を勝ちとして、負けたほうは勝ったほうのいうことを一つだけなんでも聞く、ということにしては?」
「主上、私と賭けをなさるのでございますか?」
浩瀚の琥珀色の瞳がすいっと細められる。
そんな艶のある視線を、誰からも送られたことのない陽子は、一瞬背筋がぞくりとした。
そんな瞬間があったことをあわてて頭から振り払うと、明るく言った。
「賭け、というほど深刻なものではないかもしれないけど、そういう風にした方が、向かう気持ちが高まるだろ?」
「それはその通りでございますが」
「あ、そうだ。何でもいうことを聞くのではなくて、私的なことにしよう」
浩瀚は、いつも穏やかに陽子を見ている目を、幾分曇らせた。それは、陽子にはわからない。
「別に、深い意味は無いんだ。この賭けは、こう言っちゃ何だが浩瀚に有利だと思う。
なにしろこの慶国におまえは長く住んでいるのだから、私よりはよく季節の移り変わりをみつめてきただろ?
だから、浩瀚が勝って、『それでは御政務に役立つようにこちらの本を読みすすめるということでいかがでしょう』なんて、言われるのは嫌だからさ」
「左様でございますか?」
浩瀚は今度は口元をほころばせながら聞いていた。
主上は私がそんなことをさせようとしているように見ておられるのだろうか。それは、まったく無いとはいえないが。
「うん、まあ、だから政務に関係ないことで何か条件を出そうよ」
「そうですね。わかりました。それでは、主上はいつと思われますか?」
「浩瀚から先に言ってくれる?私はそれを参考にさせてもらうから。そのくらいいいだろ?」
主上は私に勝つ気でいらっしゃるか。
自分が有利な立場に立っていることを確認しながら、穏やかに笑って浩瀚は答えた。
「はい、そうですね。では、一月半ば過ぎ。賭けでございますので、はっきり日にちを決めましょうか。それでは、一月二十日にいたします」
「ああ、そうか。いつもよりちょっと遅くなるという感じかな。きっとそのあたりが妥当な線だろうなあ……。いつにしよう……」
しばし考えていた陽子は、突然その表情を輝かせたかと思うと、こう言った。
「私は、十二月二十四日にする」
浩瀚は軽く目を見開く。
ここ、慶国では年内に雪が降ることはあまり無い。ましてこのように暖かい冬では、例え雲が出てもほとんど雪にならずに雨になってしまう。
それは、あまりに無謀な答えではないか?いや、むしろ負けようとなさっておられるのか?
浩瀚は陽子が自分と真面目に賭けをする気があるのかどうかを疑ってしまいたくなった。
「いや、浩瀚と同じじゃつまらないから、この日にしたんだ。もちろん、私が負けたら浩瀚の言うことを何でも聞くよ。でもひとつだけだぞ」
「承知いたしました。主上も私に何をお望みかお考えになってくださいませ」
「いや、もう決まっている」
妙にはっきりと答える陽子に、浩瀚は訝しげな顔をする。
「あ、あ、あ、たいしたことじゃないから安心しろ。いや、それ以前に私が勝てるかどうかが問題だな」
浩瀚は、陽子の顔が幾分赤くなったような気がした。
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