陽子、満月の宴に出かける




   その日は、朝議の終了したその瞬間から、陽子は落ち着かなかった。

 浩瀚が、次の月の満月の夜、自分のために酒宴を開いてくれるという。

 その約束を、心待ちにしていたからだ。

 今宵は満月が昇るはず。


 金波宮には、涼やかというよりはむしろ冷たい風が吹き、秋はますます深まってい 濃い緑が燃え立つようだったあの夏の森は、今ではすっかり落ち着きを見せ、数種類の木々はその葉の色をすでに赤に黄色に色づかせてい

 良く見ると、小さな木の実がすずなりだ。蓬莱のどんぐりのようだ。

 陽子は、正寝へ戻る途中、回廊から庭を見渡して、微笑んでいた。


   正寝に入ると、鈴に声をかけられた。

「陽子、どうしたの?なんだかうれしそうね。ああ、今日は満月ですものね。冢宰が陽子のために酒宴をもうけてくれるんですって。だからかしら」

 しあわせそうよ、と続ける鈴に、陽子はくつろいだ様子を見せながら、こう言った。

「うん、もちろんそれもあるよ。でも、今私がうれしかったのは、もっと単純なことでさ。 回廊から見える庭にね、木の実がたくさんなっていたんだ。だから、小さな動物達も、今年は食べる物がたくさんあるかなぁって思ってさ。 あとね、私が幼かったころ、木の実を拾って遊んだことを思い出していた」

 午後に行う執務の準備を済ませた祥瓊も、会話に加わる。

「陽子の家には、木がたくさんあったの?」

「祥瓊はそうだったの?」

と、逆に陽子が尋ねる。

「ええ。お父様はもともと国官だったから、屋敷は大きなほうだったと思うわ。回りには木がたくさんあって、静かだった気がするの」

「すごいわね。陽子のうちもそうだったの?」

 鈴が尋ねると、陽子は笑う。

「いや、私は学校に植えてあった木の下で、どんぐりを拾ったんだ。うちには木を植えるほどの庭は無かったよ」

 そう?と言いながら鈴は続けた。

「うちは田舎だったから、家は狭かったけど周りがみんな山だったのよ。どんぐりはたくさんあったわ。なんだか、懐かしいわね」

 三人は、幼いころの秋の日を思い出しながら、穏やかに午後の仕事を始めていた。


 実は、鈴には大切な仕事があった。

 本日の酒宴は、空に満月が昇り始めたころ、すなわち午後六時ごろに始めることになっていた。 その時間にあわせて、白米を炊きお結びを作る仕事を、冢宰より頼まれていたのである。

 鈴も、白米を炊くのは久しぶりであった。

 陽子は、酒を飲んだことは無かったが、浩瀚の「私と桓たいでなにかお見せしましょうか?」という提案に、とても魅力を感じていた。 そして、明日は勅命で決まった七日に一度の公休日、第一回目の実施日となっている。

 いささか、自分の都合で公休日の始まりを決めた感が無きにしも非ずであったが、各府吏で相談する都合もあったので、ちょうど良い日程となっていた。

 明日の朝議は無い。

 王、台輔、冢宰、太師は公には仕事が無いことになっていた。

 夜更かししても、大丈夫なわけだ。

 後に楽しみがあれば、仕事ははかどるのは常世も同じ。祥瓊に手伝ってもらいながら、陽子は今日の分の政務を精力的にこなしていた。

「え〜〜、う〜〜んとね。建州では、収穫が昨年の二倍近くに上がった。それで、う〜〜ん、あのぉ〜税収も倍増した?」 「そうね。倍増する見込みかしら。したとは書いていないみたい」

「そうか。まだ時空列を表す文字は難しいな」

「でも、よく読めるようになったわね」

「祥瓊がいてくれるから。本当にありがとう」 「いやね、陽子。でも、がんばってるわ、えらいえらい」

 陽子は祥瓊に頭でもなでられそうな気がして、少し首をすくめる。

 もちろん、冢宰は今日の政務がきつくならないように、陽子のところに回る懸案を調整していたのだが。

 いろいろな人のちょっとした努力で、政務は早めに片付いていた。


「そろそろ、行きましょう、陽子」

「うん、そうだね。遅くなっては申し訳ない」

「そうよ。今日は貴方が主役なんだから。でも、あまり早く行ってもだめよ。今から行けば、冢宰府につくころに、東の空から満月が昇るのではないかしら?」

「そう?今日は少し雲がかかっているね。良く見えるといいんだけど」

「大丈夫よ。そういえば陽子、この間私が探してきた赤い綿の糸、何に使ったの?」

「内緒!」

「あら、ひどいわ」

「ごめんごめん。今日、首尾よくいったら話すから」

「首尾よく行かなくても、話しなさいよ」

「はいはい。祥瓊、怖いよ」

「あら、そうかしら。うふふふ……」

 祥瓊は、陽子が今日の主人役である浩瀚に、何かお礼をしようとしていたことはなんとなくわかっていた。 きっとそれに使ったのであろうということも、予想はできていたので、それについては、今言及しないでおくことにした。


 陽子は護衛役に虎嘯を従え、祥瓊を連れて回廊を渡っていった。

 冷たい風が吹いている。陽子が寒くはないかと祥瓊は心配していたが、長い回廊を急ぎ歩いていくうちに、段々暖かくなってきた。

 西の空はここからは見えないが、だいぶ空が暗くなっている。

 明日は公休日となるので、今日は早くから官邸にもどるものが多かった。 金波宮の府吏は、閑散としていた。急ぎの用があるのだろうか、陽子の三倍ぐらいの速さで、書簡を持って歩く下官が陽子に挨拶をするために止まった。

「勤めご苦労。遅くまでかたじけない。仕事を続けてくれ」

 優しい声かけに、下官は感激して拱手するとまた急いで歩いていった。地官府の方角であろうか。陽子は、しばし見送っていた。

 しばらく歩いていくと、急に明るくなったような気がした。

 月が昇ってきたのだ。

 ちょうど東の地平線には雲が無く、顔を出した月がひどく明るく見えた。

 白く輝く満月。満月の光に照らされて、その上に小さく丸く見える連なった雲が、灰色と白に、真っ黒な空を背景にして、輝く。

 幽玄な風景だった。

 風は冷たい。寒いくらいだ。日が落ちて急に気温が下がったのであろう。

 三人は黙って歩いていた。冢宰府はもうすぐである。


 冢宰府では、宴の準備が整えられていた。夕餉の代わりになるので、比較的腹の足しになるものも、並べられたご馳走の中には入っている。

 酒は、浩瀚が麦州から取り寄せた極上のものと、陽子に合わせて、軽い果実風味のさわやかなものをそろえていた。

 入り口に立った三人は下官に告げると、程なく出てきたのは、なんと桂桂だった。

「あれ?桂桂も呼ばれたの?」

陽子がびっくりしていると、

「僕はお手伝いなんだ。宴のほうはご遠慮申し上げます、って言いなさいって遠甫に言われちゃった」

 少し悔しそうだが、仕方ないという風に桂桂が語るのを見て、陽子は笑う。

「桂桂だけ、太師邸に置いておくと心配だからだろう?」

「うん、実はそうだって、桓たいが教えてくれた」

 今日の宴は、桓たいも陽子を招くほうの一人なので、まだ物騒な雰囲気を一掃しきれない桓たいとしては、警護の効率を上げたかったのだ。


「本日は、奥の院で宴を開きます。皆様もうおそろいです」

 という桂桂のかわいい口上を受け、陽子は笑って中へと進んで行った。


満月の宴その一へ進む

隧道三部作ページに戻る