陽子、うすと杵を持った桓たいをみつける




    「お〜〜い、桓たい!さがしたよ」

 桓たいが振り返ると、彼の前には翠の瞳があり、一度細めたそれが大きく開けられてきらきら光った。

 背中越しに声をかけてきたのは、ほかならぬ陽子その人であった。

 桓たいは、担いだ杵とうすを下に降ろし、小さなため息をつくと軽く拱手した。

「主上、兵舎のほうへお渡りくださってありがとうございます。剣の練習をお望みですか?」

「うん。今日は私が裁可しなければならない案件は少なかったんだ。 この後は自由に過ごして良いと景麒からお墨付きをもらった」

そうしている陽子はとてもうれしそうだった。

 主上も、王様稼業に幾分お慣れのようだ。

 一時は根を詰めるかのように政務をおとりになっていたが、このところはいくらか余裕を作られている。

   先は長い。こうして時々息抜きをなさるくらいでちょうど良いのだろう。

 しかし、今はちょっとまずいな。

 桓たいは複雑な顔をした。

「あれ?何か用事だったのか」

 陽子は、桓たいのすぐそばに置いてあるうすと杵に気がついた。

「餅でもつくの??」

 陽子は興味津々である。

「いいえ、主上。う〜〜ん困りましたね。実は内緒にしておこうと思ったんですが」

「え、なんだ桓たい。内緒の理由にも寄るけど、たいしたことでなければ、教えてくれないか」

 聞かなかったことにしておくからさ、と陽子にいわれてしまい、桓たいは苦笑する。

「いや、そんなんじゃありません。お楽しみにしようと思っていたものですから。 主上は最近、浩瀚さまから満月の宴に何か召し上がりたい物がないかと聞かれませんでしたか?」

「ああ、何日か前に聞かれたような気がする」

「そのとき、なんておっしゃいました?」

「ええっとね……。確か、新米をお結びにして食べたいなんて言ったような……。変かな?」

「変、というか。さすがは主上、庶民には思いつかないようなものをお好みだと思いまして」

「はい???」

 なんですと?陽子の心の中はそんな状態だった。

「慶国は、ここんとこ不作続きでしたから白米を炊飯にして食べるなんて事は、すっかり忘れておりましたよ」

「あのぅ……桓たい?白米を炊飯するって、ひょっとしてすごく珍しいことなのか?」

「そうですね。豪商の葬式とか、金持ちの結婚式なんかで食べるんですかね。 私は、麦州にいたころ何回か、口に入れる機会がありましたよ」

 桓たいの話を聞いて、陽子は考え込んでしまった。 また、慶国と日本の決定的な差を発見してしまったような気がした。

「桓たい。信じられないかもしれないけどね。蓬莱では、米は白米で炊飯するのが当たり前だったんだ」

 桓たいは、軽く目を見開く。

 それと同時に、彼も自分と陽子の間にまだ大きな隔たりがあることを、今更のように気づいたのだ。

「蓬莱と言うところは、豊かなところだったんですね」

「そうだね。自分が暮らしていたときは、そんなことは感じなかったけど……」

「お帰りになりたいですか?」

 そう尋ねてから、桓たいはしまったと思った。

 陽子が遠い眼をしていたからだ。

 二人とも何も話さない、冷たい秋風が兵舎を吹きぬけていく音だけが、しばらく耳に届いていた。

「帰りたかったんだ、ものすごくね」

「左様でございますか」

 桓たいは、なぜか見たこともない蓬莱に、軽い嫉妬を感じていた。

「巧国に流されてきたときは、帰りたいという一心で夢中になって雁国を目指した」

 そんな陽子を見て、桓たいは寂しそうに笑う。

「でもね、今はそうでもないよ」

「それは、良かった」

 桓たいは心から安堵したためか、うっかり敬語を使うのを忘れてしまった。

 珍しい?という顔をして陽子が桓たいの顔を覗き込んでくる。

 苦笑しながら、彼は、

「剣の鍛錬よりも、本日は脱穀をお見せしたほうがよろしいかもしれませんね」

「脱穀をうすと杵でやるの??」

 ますます、瞳を輝かせて桓たいを見上げる陽子に、まいったなとつぶやきながら、

「すぐに、帰ってくるんですよ」

と念を押し、うすと杵を肩に担ぎ上げた。

 陽子は瞠目したが、彼が桓たいであることを今一度確認して笑う。

 彼の重槍に比べれば、多少かさばるが、なんと言うことはない代物だ。

「主上、使令殿はお付ですか?」

「ああ、今日も班渠がついてきている」

「では、班渠殿にお乗り下さい。 本当は私の後ろにおのせしたいところですが、今日は荷物がありますので、ご勘弁下さい」

「あはは、そうだね。じゃ少しだけ。班渠?」

「御前に」

 そういって、班渠は陽子の影から少しだけ顔をのぞかせた。

「ごめん、今日も堯天まで行ってくれるかな?」

「はい、先日の田へ行かれるのですね」

そう、班渠が確認すると、陽子はこくりとして少しうつむいた。 班渠は、また台輔には内緒なのだろうと思ったが、口には出さない。

 景麒は、王気を追うことができるので、堯天ぐらいでは内緒にすることは不可能なのだ。

 班渠はそのことを良く知っているし、陽子もばれるのはわかっている。

 景麒も、ただそれだけのことでくどくど叱るようなことはしていない。

 特に、今日のような景麒自ら休憩を言い出したような日は、大丈夫なのだ。

 話はまとまり、桓たいとともに陽子は堯天の田を目指した。

陽子、堯天の田で脱穀精米を見るへ進む→

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