その夜、冢宰府で執務中の浩瀚の元へ、桓たいが呼ばれていた。
桓たいは、たびたびとはいえないが、できるだけ浩瀚とは話をしようと務めている。
しかし、酒抜きは珍しかった。
しかも、いつもだったら桓たいのほうからふらっと尋ねていくのだが、今回は浩瀚からの呼び出しである。
執務上のことであれば、冢宰として呼び出せば良いはずなのだが、私的に呼び出しを受けていた。
「何かあったかな?」
浩瀚の身辺については、十分すぎるほどの注意を払ってきた桓たいであったが、漏れがあったのかと心配になった。
冢宰府の入り口に着いた。取次ぎの下官は、もういない。
「浩瀚様、お呼びでしょうか?」
扉の外から声をかける。
「ああ、すまないな。入ってくれ」
それほど、緊迫した声色でないことを確認して、安堵の色を浮かべながら、桓たいは部屋に入っていった。
「実はお前にやってほしいことがあるんだが……ってとこですかね?」
浩瀚は思わず失笑した。書面を眺めていた目を桓たいにうつし、筆をおく。
「先に言うな」
言葉は叱責だが顔は笑っている。桓たいも思わずふふふと声を漏らすと、
「浩瀚様が悪いのですよ。こんな時間に呼び出すなんて。
表向きでも良いから理由ぐらいつけていただかないと。何があったのかと思いましたよ」
「ふふ、そうだな。まだ、安心できないか」
「できませんとも。まあ、ふたを開けたら迷子の主上っていう線もございますけど」
あはははは……二人は大きな声を上げておかしそうに笑った。
「誠に。先日はびっくりしたよ」
「びっくりしたのは、こちらですよ浩瀚様。俺の出る幕は全然無かったじゃないですか」
「そうだったな」
二人は、ほっと一息ついて、先日の寝巻き姿の主上を思い出していた。
「その主上のことだ」
浩瀚が切り出すと、桓たいははっとして居住まいを正した。
「主上はまだ、お若いので酒宴の酒は飲んだことがないとおっしゃる」
「へえ、お嬢様だったんですねえ。俺なんかその年には……」
「お前と主上を一緒にはできんだろう。それに、蓬莱では二十歳になるまでは酒を飲むと法律で罰せられるそうだ」
「なんですかそりゃ?」
「さてな。それで、酒のほかに何かお召し上がりたいものはないかとお尋ねした」
「そりゃいい。旨い物は、酒の席を盛り上げますから」
「ああ、それで主上は何を望まれたと思う?」
「私の知っている物ですか?」
「当然だろう」
「いやぁ、蓬莱の食べ物だと思っていたもんですから。なんだろうなあ。甘いあんこの入った饅頭とか?」
「ああ、そういったものもお好きかもしれない。それも、一品加えるか」
浩瀚はおもむろに筆を取り出し、下書き用の書きつけの竹に何やら文字を走らせる。
それを見ていた桓たいは幾分むっとした表情で答えていた。
「ほら、自分から言い出したくせにじらさないでくださいよ、浩瀚様。いったい何なんですか?」
「おむすびだ」
「へ??」
「蓬莱では、新米を収穫する季節に、わざわざ作ってお召し上がりになったようだ。そのことを思い出しておられた」
「へえ、それはまた。本当にお嬢様だったんですね、主上は」
「うむ。そうかもしれないが、そうでないかもしれないな」
常世では、米がそのまま庶民の食卓に乗ることは、あまりないのだ。
金波宮でも、玄米ご飯か、むしろ陸稲をついて餅にしたものが多かった。
庶民は米の粉に色々なものを混ぜ、それを煉って団子にしたりして食べる場合が多い。
慶国は米どころであったが、長く荒廃していて、米は貴重だった。
お金の代わりのようなものだ。
陽子が登極したての二三年は、ほとんどの収穫を税として持っていかれてしまうようなものだったという。
もちろん、陽子が出した減税法案を無視して取り立てられていたのであるが。
庶民はそれに供えて雑穀も植え、自分たちの食い扶持を何とか保とうと苦労していたのだ。
それが、今年の堯天では、少しずつ事情が変わってきた。
そう、浩瀚が冢宰になってからである。
地方の主となる国官の徴税方法は、それほどうるさく言わず、
収穫の量について細かく報告させるようにしていたのである。
まずは、浩瀚自身が封じられている「県」から、その「県」の内部を司る主だった官吏の封地について次々調べさせていた。
さらに、金波宮のもと、堯天の街の王宮から近い順に、禁軍の訓練も兼ねて、
収穫の具合がどのくらいか、順に調べていったのである。
大変な仕事のようだが、この時期、すなわち赤楽二年のころに限ればそうでもない。まともな田が少なかったのだ。
里の数と、その荒廃ぶりを確かめれば、大方の生産量は想像がつく。
その収穫高と報告に上がってくる収穫高を比べていたのだ。
先だって、堯天を襲った秋の嵐の後でも、これ幸いと結構な広さを検分させていたので、
その後の報告にごまかしがあればすぐにわかった。
瑛州全体は、まだ無理だが、堯天についてはほぼ調べがついていたのだ。
不正な官吏については、浩瀚はあえてほうっておいた。
何しろ禁軍は、賦役復活がかかっているので実に良く働いていたのだ。
さらに事情を語れば、この調査を、浩瀚は荒民救済で手一杯の地官府とは別に行っていたのである。
その調査から推察するに、今年の慶国の稲は、まずまずであった。
昨年、陽子が登極してすぐの年でさえ、多くの里で稲穂が揺れたのだ。
今年はそれを上回る収穫高になりそうだ。
王が玉座にある。それは、大変な恵みをもたらすものだということだ。
ところで、陽子のいた蓬莱では、米は白米が当たり前だった。
陽子の住んでいた町はそれなりの都会だったので、陽子は田んぼの作業を社会の教科書の中でしか知らなかった。
米を買うときは、米屋はおろかスーパーで、もともと精米されて袋詰めされた物を買ってきて炊いていた。
しかも、電気釜である。
最近では米を研ぐことすらしないですむのだが。
そんな生活をしていたとは知らない桓たいは、
白米を炊いて作ったおむすびを食べたいという陽子を、
豊かな家の娘だと思ったのもしかたのないことかもしれないのだ。
「精米した白米を炊飯するんですね」
「そういうことだ」
「普段そんなことをしませんからね」
「まあな」
「満月まで、いま少しありますか?」
桓たいと浩瀚は、宵闇に吹く涼しい風を感じながらしばらく思案をしていた。
「ああ、堯天の荒民による田にも稲穂がゆれていたな。彼らに頼むことはできないだろうか」
「そうですね。どのくらい炊きますか?」
「うん、主上のことだ、ご自分だけと言うわけにも行かないだろう。
五合から六合は炊かないと間に合わないだろうなあ」
「そのくらいなら分けてもらえるんじゃないですか?」
「ついでに精米もしてもらえると助かるんだが……」
「では、明日にでも行ってみましょう」
「すまないな」
「いえ、それより浩瀚様。本当にやるんですか?」
少しばかり声を潜めて、上目づかいにその整った顔を見上げてみる。
「だめか?」
「とんでもない。久しぶりですね」
「そうだな。主上はお喜びであった。少し練習をしないとまずいだろうな」
「そうですね。では、今宵も少しさらいましょうか?」
「もちろんだとも」
二人は、酒宴の席で行うための出し物をこっそり練習することにしていたのだ。
浩瀚は書類を片付け、桓たいと二人で奥の院へと向かった。
夜は更けていく。
秋は深まり、涼しいと言うには少し寒い空気が辺りを包んでいた。
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