満月の宴 その三




   露台での大円舞会が終わると、静けさがまた戻ってきた。 満月は、東の空からだいぶ上ってきている。中空に輝く月。白く光る静かな満月であった。天頂まで届くには、もう少し時間がかかりそうだ。

 陽子は、まず自分の半身である麒麟のところへ行った。

「景麒……」

「主上」

 紫の瞳が部屋にともされたろうそくの明かりを受け、ゆらゆらと輝いた。

「とても素敵だったよ」

陽子は、率直に感想を述べる。

「ありがとうございます」

景麒は気恥ずかしく思ったのか、珍しくはにかんだように俯く。

「笛がふけるとは思わなかった」

「蓬山でたしなむ機会がございました。最近はまったく吹いていなかったので、本日主上の御前で披露いたしますのは、いささか不安でございました」

「そんなことない。とても良かった。とても、不思議な切ない旋律だった。私は……私の心がとても、動かされた……」

景麒は、軽く目を見開き、微笑む。

 酒宴と聞いて、主上が飲みすぎたりしないかと心配だったが、このような穏やかな宴であれば、主上のお疲れも癒されることだろう。少しでもお役に立ててよかった。

 景麒はとてもうれしかった。


 陽子は、次に遠甫のところへ向かう。

「太師!大変見事でした。それは、なんと言う楽器なのですか?」

「これは、サンシンというものじゃ。もとは蓬莱の楽器ではなかったかのう」

 陽子の質問に、遠甫が答えていた。

「もうずいぶん昔に、習い覚えたものじゃよ」

「松塾でも、演奏なさっていらしたのですか?」

「そうじゃなあ……」

 陽子は、遠甫から楽器や歌の由来を聴いていた。

 ふと視線を移せば、祥瓊が、露台に腰を下ろしている桓たいの隣に座り、その額にあって月の光を受け小さく輝く汗を、自分の手巾で拭き取っていた。

 二人は仲がいいなあ。

 うらやましいとかそういうことでなく、単純にそう思った。

 遠甫は、自分の話に集中させていた陽子の意識が途切れたのを感じた。

 陽子の視線がほんの少しずれている。その視線の先には、桓たいと彼に寄り添う祥瓊がいた。

 遠甫は目を細めながら自分が語るのをそっとやめ、柔らかいまなざしで陽子を見ていた。

「ああ、申し訳ありません太師。それで、麦州に古くから伝わる、民衆の踊りだったのですね」

「そうじゃ。麦州には内海に面した港が昔から栄えておっての。最後の踊りは、その港に大きな商船が入港してくるときに皆で踊って歓迎したのが発端じゃといわれておる」

「そうでしたか。それで、浩瀚も桓たいもあんなに上手なのですね」

「いや、どうかのぅ。普通官吏ともなると庶民の踊りなど忘れてしまうものじゃが」

 にこにこしながら、遠甫は露台の先、冢宰府の最奥にある庭に目を移した。

 陽子も、同じように視線を動かすと、そこには浩瀚が一人でたたずんでいる。

 浩瀚にお礼をしなくては、陽子はずっとそう思っていた。 しかし、一月前、この奥の院へ、偶然とはいえ寝巻きのまま訪れてしまったこともあるので、なんとなく気後れしていたのだ。

 もう一度、祥瓊のほうをみれば、桓たいに虎嘯や、意外にも景麒や、膝に眠そうな桂桂を抱えた鈴も加わり和やかに談笑している。

 もちろん、酒のほうもお互いに酌をしあいながら、たしなんでいるようである。


「太師、ありがとうございました。浩瀚にも一言お礼をしたいので、これで失礼いたします」

「陽子、月がきれいじゃの」

「はい」

うれしそうに肯くと、陽子は庭のほうへ下りていった。

「浩瀚?」

「主上」

 陽子は浩瀚のそばにより、上目遣いでその顔を覗き込んだ。未だに額に汗が浮き、流れている。

「官服以外のお前をはじめてみたような気がする。最も、具合が悪くて正寝で寝ていたときは、寝巻き姿だったんだな」

おかしそうに、ふふと笑いながらつぶやくと、

「幸いにも、私は主上のお寝巻き姿を拝見できる幸運に預かりましたので」

と、逆に言われてしまった。

 陽子は返答する言葉につまり、顔を赤くした。

「あの時は、本当にすまなかった。それと、今日はありがとう、心から礼を言う」

「おむすびは、いかがでした?」

「おいしかったよ。でも、今日のおむすびは常世の味がした。この、慶国の味なんだと思う。蓬莱のおむすびは、もう思い出せないな。比べることができないんだ」

 優しい感じの味がする。そんな風に陽子は思っていた。

「左様でございますか、それはよろしゅうございました」

 こ、こほん。なぜか陽子は咳払いをする。

 何時の間に座ったのだろう。さっきまでは浩瀚は庭にたたずんでいたような気がしたんだが。

 陽子は、片膝をつき主の目をじっと見ている、怜悧な自国の冢宰に向かって、改めて口を開いた。

「本日の趣向、誠に重畳であった。よってこの手巾を下賜する」

 珍しくきょとんとした、浩瀚の、まだ汗の流れた跡が残る額を、陽子はそっと、手巾でぬぐった。

 陽子は、その浩瀚の汗をぬぐった手巾の向きを変え、それを浩瀚に向かって差し出したのだ。

「私のようなものに、このようなものを主上から直接賜ることができるとは。誠にありがたき幸せでございます」

そう言って、浩瀚はおしいただくと、その手触りに違和感を覚えた。

「これは、金波宮にある手巾ではございませんね?」

 浩瀚は、自分の主を見る。

 陽子は、ばつの悪そうな顔をした。

 いくら貧乏でも、およそ国王が使う手巾ともなると、一応絹製なのだ。手触りももちろん良いのだが、意外に使い勝手が良い。絹は手入れに手間がかかるのが難点だが。

「浩瀚は鋭いなあ……。もうわかってしまったか。先日、皋門へ行ったとき、国官の臨時採用試験の願書受付をしていたんだ」

「はい、確か今はもう受付は締め切ったような記憶がございます」

「うん。そのときはまだ受験の希望者が何人もいた。そこで、足の悪い女性受験者を、受付まで負ぶっていってあげたんだ」

「主上がでございますか?」

「そうだよ。女性だったから、虎嘯よりもいいかな、と思った」

 浩瀚は、そんな陽子を見て穏やかに微笑む。

「主上は、誠にお優しい」

「ううん、その人が、一人では中に入れなくて困っていたからね。それで、そのときのお礼に頂いたものなんだ」

「左様でございましたか」

と、答えつつも、浩瀚はただそれだけの話ではないような気がしたが、あえて陽子には尋ねなかった。

「こちらの手巾は、綿でできているようでございますが、大変やさしい感じのする織物でございますね。手触りがとても自然でございます」

そういいながら、浩瀚は何か赤いものが手巾の生地から透けて見えるのに気がついた。幾重かにたたんであった手巾を開いてみると、そこには赤い糸で何か刺繍がしてあった。

「主上」

「なんだ?」

「こちらの刺繍は主上がなさったのですか?」

「そうだけど」

 浩瀚は、息が詰まるかと思ったが、陽子が蓬莱出身の普通の少女だったことを思い、何とか平静を保つことに成功した。

 国王が自ら刺繍をして臣下に下賜されるなど、きわめて珍しいことであろう。 勿論、その国王と臣下の間に恋愛感情でもあれば別であろうが。浩瀚は常世の常識を何とか自分の心から掃き出して、陽子に改めて礼をとった。

「誠に、うれしゅうございます」

「そうか、それは良かった」

 いつしか、夜は更けていく。寒さが募ってきた。満月が天頂に近く、静かに二人を照らしている。


 陽子と浩瀚は、皆が談笑し酒を酌み交わしている露台のところまで戻ってきた。

 みんなで今夜の舞について話していたようだった。

 「とても素敵だった、二人とも」

 陽子も話の輪に加わる。

「そうだ、桓たい。今度、桓たいが踊っていたほうを教えてもらえないかな?」

「え?俺の踊ったほうをですか?そりゃ、かまいませんど……」

 桓たいは、あわてて浩瀚のほうを向いたが、彼は穏やかに微笑んでいるだけだった。

「俺のほうより、浩瀚様の太鼓のほうが、軽くて扱いやすいんですけど。こちらは、結構大変ですよ」

「そうか?女性では無理かな……」

 陽子は、残念そうである。

「主上」

 浩瀚が助け舟を出してきた。

「麦州には、女性でもこの太鼓の踊り手がたくさんおりました。女性だからできないということは無い様に存じます」

「ほんと?だめかなあ、桓たい」

 桓たいとしては、浩瀚が、陽子に主従としての好意以上のものを持っている可能性を感じていたので、自分のほうに向く陽子の気持ちがうれしくもあったが、心配でもあった。

 さらに、自国の女王の「恋」について、色々と心配の念を持つ官吏も多いため、必要以上に敏感になっている部分もあったのだ。

「どうして、こちらの太鼓がよろしいんで?」

 桓たいは、はっきり聞いてみた。

「だって、これは二種類の太鼓で踊る舞なんだろう?だから、大きなほうの太鼓を練習すれば、浩瀚と一緒に踊れるんじゃないかと思ってさ」

 その場の誰もが、陽子のほうを向いた。

 そうか、主上は浩瀚様と踊りたいのか。

 桓たいは得心がいった。

「わかりました。そういうことであれば、喜んで。しかし、かなり体力が必要ですので、基本的な訓練はご自身でなさってくださいね。剣術とほぼ同じでございますので」

「う、う、そうだね。がんばってみる」

 多少声の調子が低くはなったが、陽子はやりたい気持ちを伝えることができて満足そうだった。

「陽子、なぜ浩瀚様と踊りたいのかしら」

 祥瓊にまっすぐに尋ねられ、陽子は多少どぎまぎしたが、しっかりと答えた。

「とても、きれいだったんだ。私もあんなふうに踊れたらいいな、ってそう思った。桓たいみたいに上手には踊れないかもしれないけど、自分でもやってみたい。そう思った」

 遠甫が、肯いて語る。

「陽子は、そのように政務以外の趣味を持つことが必要かもしれないの」

「左様でございますね」

 景麒も賛同する。

「舞は、立ち振る舞いを優雅にいたしますので、主上には大変よろしいかと存じます」

 そこか、突っ込みどころは……。

 景麒の物言いに陽子は憮然として顔をしかめたが、他の者達にとっては、いつもの主従のやり取りに過ぎない。それをみてほほえましいと皆笑っていた。

「ああ、そうだ、忘れていた。浩瀚、先日は外履と袍をありがとう。なかなか返す機会がなくて今日になってしまった」

 陽子はそういうと、懐から風呂敷のような布に包んだ袍と外履を出した。 一月以上前に、この奥の院へ迷い込んだときに、浩瀚から貸してもらったものであった。それを懐から取り出して、彼に返したのだ。

「あら、陽子。ここは初めてじゃないのね」

 鈴は何の気なしに陽子に問いかける。

「うん。まだ残暑が残っていたとき、鈴も祥瓊も夜あけていた日があっただろ。 そのときに正寝の庭で妙な入り口を発見してさ、夜中その中に入って、出てきたらここの庭だったんだ」

 この陽子の話を聞いて、桓たいはいたずらっぽく笑ったが、浩瀚は手放しで笑えなかった。

「夜中に出かけたの?」

 祥瓊が再度尋ねる。

「うん。暑くてさ、寝つかれなかったんだ。夜中に抜け出しちゃった……」

 あははと笑う陽子に、祥瓊はごまかされなかった。浩瀚は苦い顔をしている。

「私も、鈴もいなくて、どうやって着替えたの?」

「うん、着替えなかったんだ。寝巻きのまま出て行ったら……」

「主上は寝巻きのまま冢宰を尋ねたのですか?」

 景麒は思わず口を挟んでいた。

「え、いや、あれ、そうなんだけど……」  陽子は、自分の口が滑ったことを理解した。

 浩瀚は、次第に募ってくる異様な雰囲気を感じて、あわてて話しに割って入った。

「皆様、主上はご自分のお庭に王専用の隧道があることをご存じなかったようでございます。 夜中に出歩かれるのは、確かに危険なことでございますが、その隧道は遁行している使令殿もはじき出されてしまう、特殊な呪がかかっていたようでございます」

「そうなんです。お二人はそれを確認するために、その隧道にはいられたのですが、お二人が入ってしまうと、その入り口は私が見つけることはできませんでした」

そう、桓たいも続けた。

 皆に気づかれないように、祥瓊は桓たいをつつく。

「何もなかったんでしょうね」

「あたりまえだ」

「なぜ、教えてくれなかったの」 「勘弁してくれ、失念していた。主上が冢宰府にいたのはほんの四半時にも満たないくらいだったんだから」


 遠甫は、目を細めながら、

「その入り口は、どこにあるのかな?」

と、陽子に向かって尋ねた。

「こちらです。みんなも来てくれる?」

 歩きながら、景麒も思い出していた。

「そういえば、主上。そのとき重朔があわてて私のところに駆け込んできました。 私も王気が見えなくなったので心配しておりましたが、すぐに王気も戻られて大事無かったので、今まで私も失念しておりました」

 そう、話しながら、皆で冢宰府最奥の庭にある岩山のところまで歩いてきた。

「この、岩山の影にあるんだけど……」

 そう言って、陽子が指差した先には……



 何もなかったのだ。

「あれ?変だな」

「左様でございますね」  このなかで、唯一陽子以外に隧道に入った浩瀚も、首をかしげる。

 遠甫は、

「ほほう、それはかなり特殊な呪じゃろうな。まあ、古い王宮じゃ。色々なこともあるじゃろう、気にせずとも良いのではないかの?」

 そう、皆に語って聞かせた。

「私の王気が安定しないから、扉があったり無かったりするのでしょうか?」

「ふむ、なんとも言えんが。まあ、そうではないと思うがのう。朝が安定したら調べてみると良かろう」

「そうですね」

 陽子も、とりあえず納得していた。

 浩瀚は、表情には出さなかったが、入り口が見つからなくて、胸をなでおろしていた。 ここにいる全員が中に入ればどんな隧道であるか、主上にもわかってしまう。余計なお心遣いをされてしまうだろうと、心配していたのだ。


 満月は天頂に輝き、みなの姿を照らし出していた。影が、うすぼんやりと庭に落ちる。

 寒さを感じてはいたが、酒の香りと、うまかったおむすびと、浩瀚と桓たいの二人の舞が、みなの心に響いていた。

 今宵は楽しい、ひと時となったのだ。


つけたし←工事中

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