陽子は満月が来るのを楽しみにしていた。
そんなある日、そう、まだ満月までには何日かあったとき、朝議の後、回廊で浩瀚が話しかけてきた。
「主上、お時間がございましたら、いま少し私にお付き合いくださいますか?」
「かまわない。ここでよいのか?」
「では、すぐ下の庭まで下りていただけますでしょうか」
そういって、浩瀚は回廊の下の庭園まで陽子を案内していた。
秋もだいぶ深まってきた。あちこちの木が、葉先の方から色づいている。
色々な花が夏のころとは違ったあっさりとした風情で咲いていた。
「主上、ほかでもございません。お約束いたしました満月の宴のことでございます」
「ああ、どうかしたのか?」
「何か、お召し上がりたい物がございましたらご用意させていただきたいと思いまして」
「え、ほんと?」
そういうときの陽子の顔は本当にうれしそうである。
何にしようかな、とつぶやきながらその瞳をくるりと動かして考えている。
浩瀚は穏やかに微笑みその様子を見ていた。
「そのころは、もう新米が収穫されているのだろうか?」
「左様でございますね。おそらく稲刈りが済んだばかりかと存じますが。
堯天ではちょうどいまごろ、収穫しているかも知れません」
「そうか……」
陽子は遠い目をした。浩瀚はそんな陽子をいたわるように瞳を閉じて尋ねた。
「蓬莱を思い出していらっしゃいますか?」
「うん、浩瀚にもやはりわかってしまうね。いろいろな人に言われるよ。
主上はお考えがすぐにお顔に現れますのでってさ。
私的なところではともかく、公ではほめられたことではないかもしれないな」
「確かにそうかもしれませんが、私はそのような主上もまた、よろしいかと存じます」
「そうかな。どうして?」
「はい。主上のお心が間近に感じられますので、その御心に沿うことができやすいかと」
「そうか。うん、浩瀚にそういってもらえるとなぜかうれしい。ありがとう」
「滅相もございません。ところで、新米についてお尋ねでございましたね」
「ああ、そうだ! あの、実はね。さっき思い出したんだけど、おにぎりってつくれるかなあ」
「おにぎり、でございますか?」
「うん、新米を炊いて、炊き立てのご飯をこんな風に手でまるめて、中に何か入れるんだ。
昆布の佃煮とか、鮭の塩焼きとか、梅干とか。シーチキンにマヨネーズはまさか、無いよね」
「甘辛に煮た物や、塩辛い物を飯の中に入れるのでございますね」
「そうだけど……ひょっとして、おにぎりって常世には無いの?」
「こちらでは、おむすびという言い方が多ございますが、同じ意味のようでございますね」
「あ、蓬莱でもおむすびという言い方はあったよ。
それで、新米の……おむすび……か、新米で作るととてもおいしいんだ。
ふだん、あんまりご飯は食べなかったんだけど、
新米の出る時期は、父が母に、おむすびを作ってくれって頼んでいたらしくてさ。
よく、毎年食べていたんだ。ふふ、今更変だよね、そんなことを思い出すなんて」
「いえ、むしろ主上はもっと蓬莱を懐かしく思われても良いのではないかと存じますが。
我慢をなさっておいででしたら、どうぞそのようなことはなさいませんように。
お心に負担となりますので」
「うん、ありがとう。いや、でもそんなに懐かしく思っているわけではないんだ。
そうだね、時々ふっと思い出すのかな……」
陽子は、口ではそんな風に言っていたが、浩瀚はまた遠い目をされている、と感じていた。
――以前のものをすべて失い、主上は何を思われて政務をおとりになっているのか。強い方だ――
浩瀚は思った。
「それでは、おむすびを作らせていただきましょう。お時間をとらせて申し訳ございませんでした」
浩瀚は拱手をし、お互いに昼餉を取る場所に別れて、歩いていった。
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