隠されし因縁の奥の院




 赤楽2年初秋のこと。

 その夜、陽子は寝つかれなかった。

 折からの残暑も厳しく、寝苦しいことが大きな原因だったが、いつも一緒に生活している鈴と祥瓊が、 今夜は諸用のため陽子のそばにはいなかったことも、その一因となっていた。
 夜が長い。話をする相手もいない。書物を読んで勉強をしたいが、するためには、 字を読むことのできない陽子は、誰かに助けてもらう必要がある。  太師をはじめとする、陽子専用の優秀な教師人である、台輔や冢宰に頼るしかないのだ。
 もっと、朝が安定すれば、優秀な教師を別に見繕うこともできるし、先ほどあげた重臣たちにも、 もう少し時間が取れるようになるのだろうが、今現在は、日々の政務を何とかこなすので精一杯だった。
 陽子の勉学よりも、陽子の命を守るほうが優先懸案であった。
 ようするに、鈴や祥瓊がいないと、夜はかなり暇なのである。
 眠ってしまえばよいのだが、それが、今夜はなかなかできなかった。

「重朔、いる?」
「御前に」

大きな猿型の妖魔の顔が、床から半分現れた。

「申し訳ないんだけど、散歩に付き合ってくれるかなあ?」
「御心のままに」

 重朔は、微笑んでいた。  今度の主上は、蓬莱にいたときはともかく、我々を恐れないだけでなく、 ご下命とはいえないような、ご命令の仕方をなさる。 このようなご下命に慣れるのにしばらくかかったが、なんともくすぐったいものだ。 使令にも幸があるのかと、重朔は思っていた。
 しかしながら、陽子の影に遁行しながらのみちゆきなので、その表情は陽子にはわからない。
 何しろ暑いので、寝巻きのまま、こっそり外に出た陽子は、 寝所の庭なら大丈夫だろうと、星の明かりを頼りに歩き出した。
 寝所の近くの庭は、良く掃き清められ、素足の裏にもほとんど抵抗がなく歩くことができた。

「ひんやりして気持ちいいな」

 庭には小さな岩山がある。金波宮を支える凌雲山の一部を加工したものだろうか? 陽子は今はじめて、その存在に気がついたようだ。 今までは庭を散策する暇、暇というよりは心の余裕かもしれないが、 そんな物は無かったので気がつかなかった。 ほとんどの花が、昼のうちに咲き終えそのつぼみを閉じていた。
 ふと気づくと、虫も鳴いている。

「チーチー、コロコロ、ジージー……」

陽子は、蓬莱にも似た初秋の闇に、懐かしいぬくもりを感じた。
 岩山の後ろには、藪があり、その中にきらりと金属の輝きが見える。 なんだろうと思った陽子は、藪を少しだけ払ってみた。 すると、人一人がくぐれるくらいの小さな扉があったのだ。 その、扉の手をかける部分が金属でできていて、先ほどはその角度の加減で光って見えたらしい。

「なにが入っているんだろう」

すっかり目がさえてしまった陽子は、その扉に手をかけた。

「あれ?」

あまり中に入ったような感覚はなかったが、扉の向こうは廊下になっていた。 天井こそ低めではあったが、割合と広々とした空間だったのである。
 床は渋くも美しい黒光りする板敷きになっており、壁から天井は岩をくりぬいたような様装だ。
 振り返ると、先ほどの扉が閉まっている。 行く先は、ほのかに明るくなってはいるが、 行き止まりになっているかどうかはわからない程度に、遠くまで続いている。
 幻想的な雰囲気に魅せられて、陽子は少しずつ足を進めた。
 天井や壁がぼおっと光っているのがとても不思議で美しい。
 ところどころに、ついたてのような板が並び、常世の文字が並んでいたが、陽子には読むことができなかった。

「だめだ。少し真面目に字を学ばないと、きっとこの道の説明なんだろうけど」

つぶやく陽子は悔しそうだった。
 それでも、四半時も行かないうちに、先ほどと同じような扉が見えてきた。 陽子としては、まっすぐに進んできたつもりだし、 わき道もなかったような気がしたので、迷いも無くその扉を押し開けた。 すると、先ほど中に入ったときと同じように、出てきた感覚を失ってはいたが、 どこかで見たような庭の岩山にたたずんでいた。

「呪というものが、施されているんだろうか??」
常世に来てさっぱりわからない物の一つだが、陽子は何かの技術の一つだろうぐらいに考え、 そのことについては、学習するのを避けていた。
 とりあえず、今この場所はどこなのかを確認しようと、辺りを見回してみた。
 すぐそばに、灯りのついた格子が見える。 割合と大きな格子だ。するといきなり明るい笑い声が聞こえた。 陽子の良く知った声だ。男二人、談笑しているようだった。 蓬莱で言えば12時すぎ、こんな時間にもまだ仕事をしているのか?
 そう、ここは冢宰府らしい。声は浩瀚と桓たいだと思う。 いつもの二人の声とは、少し雰囲気が違うけど。 陽子は、何をしているのか知りたくなって明かりの漏れる格子の所へ近づいた。
 格子の外側には広めの露台があり、直接庭に降りられるように何段かの階段もついている。 なんだかしゃれたつくりだな、と思いつつ陽子はそばへ寄っていった。

「浩瀚様、それは無いでしょう!馬鹿なことを言わないでくださいよ」
「何だ桓たい、なさけないぞ。そんなことでは」

再び男達は笑い、かちゃりと、器の音がする。こぽんこぽんと液体の注がれる音。

――ああ、酒を飲んでいるのか――

 ここまで寄って、陽子はようやく状況を理解していた。 もうだいぶ前になってしまうのか。陽子は初勅を出してすぐのころを思い出していた。
 まだ、浩瀚を冢宰に任命してすぐ、陽子としては、まだよくは知らない、 有能で人望のある冢宰に、仕事のやりすぎを心配して、休むように勧めたことがある。
 しかし、浩瀚は、その日はちょうど桓たいから酒に誘われていると説明し、やんわり断ったことがあるのだ。
 陽子は、大人にはそういう気晴らしも存在すると思って、笑ったが、 それが実際には、こんな感じで行われているのか、と、考えていた。
 もっと近くで、話を聞いてみたい。いささか行儀の悪いことを考えた陽子は、 立ち聞きするべく、もっと格子のそばへと近づいた。
 一歩、二歩、三歩、とそっと足を進めたとき、突然、男二人の話し声がとぎれ、 一瞬の間をおかず、それまで閉まっていた大きな格子が右側に開かれると、

「誰だ!」

と、怒号が響いた。
 桓たいであった。右手には、抜刀した剣を構えている。 陽子は、びっくりして体が固まってしまった。
 ほんの、二三秒であったろう。桓たいの体にかばわれるようにして、 しかしその手にはやはり抜刀した剣を構えていた浩瀚が、口を開いた。

「主上ではございませんか?」
「あ、本当だ。いったいどうなさったんです。こんなところで」

二人の男の緊張が解ける。

「あ、いや、すまない。邪魔をするつもりは無かったんだ。本当に、申し訳ない」

陽子は、なにがなんだかわからないままに、詫びる気持ちだけがこみ上げてくる。

「いえ、そんなことはございません。とにかく、こちらにお上がりくださいませ」

浩瀚は陽子に院の中へ入るように勧めた。

「あ、いや、はだしで来てしまったから、中に入ると床が汚れるから……」
「そんなことは結構ですから、とにかくお早く」

浩瀚は、いつになく急いている様だ。陽子は訝しく思いながら、肯いて露台から部屋に上がった。

そこは、冢宰府の冢宰専用の執務室の、最奥の部屋であった。 普段は浩瀚もここまでは利用しない。する必要が無いのだ。 いや、利用する暇など無いと言ったほうがよいのかもしれない。 桓たいとの酒も、いつもならもっと府吏の表に近い、冢宰の仮眠室で済ませてしまう。
今夜は、残暑が厳しく、奥の院が外に通じていて思いのほか涼が取れるので、 たまたまこちらに移ってきたのであった。
桓たいは、どうやら、金波宮の中ぐらいは夜中も出歩ける程度に、治安も良くなったかと思っていた。 そんな矢先に、冢宰府最奥の庭に人の気配がしたので、大きな憤りを感じ怒鳴り声を上げたのだった。
しかし、それが陽子だったとは。
 浩瀚と二人で、彼女を部屋に迎え、一応上座に席を勧めると、桓たいは、跪礼の姿勢をとり顔を伏せた。 浩瀚も同じように、片膝をつき顔を伏せる。

「あれ?ふたりともどうしたの……」

陽子は、ただでさえ男二人の邪魔をしたと悔いている所、 普段より少しばかりよそよそしい二人に寂しさを覚えた。
 まさか男二人が、目のやり場に困って下を向いているとは思わなかった。
 軽くため息をついた浩瀚は、

「失礼をいたします」

と、陽子に断ってから、

「桓たい、部屋の入り口を警護してはくれまいか。 そして、これからしばらく、どんなことがあっても主上をお守りしろ」

幾分寂しそうに含み笑いの顔をする浩瀚に、桓たいは、

「それは、どなたからもお守りせよとのご命令でございますね」

と、妙な確認をした。軽く瞳で肯く浩瀚は、もう笑ってはいなかった。

*  *  *  *  *  *  *  *

 重朔は、ぼんやりしている自分に気がついた。
 ふと我に返ると、遁行していたはずの自分が、 陽子の部屋のそばにある岩山で座り込んでいるの認めたのだ。

「主上は、どうしたのか?」

寝所へもどって中を伺うが、陽子の気配は無い。

「 確かに、主上の影に遁行していたはずだが……」

だんだん、あせってきた。
 青くなった重朔は、台輔の元へ行かなければならないと思った。
 とんでもない失態だ。このまま主上がお隠れになってしまったら?
 重い心を引きずって、重朔は走った。

*  *  *  *  *  *  *  *

 時をさかのぼる。

 桓たい は、今日も冷酒を持って浩瀚の元を訪れようとしていた。

――亥の刻にはなったのだろうな。流石にこの時刻になると、回廊で人に出会うことも無いか――

 桓たいは思いをめぐらせる。ところどころに部屋から明かりが漏れているのが見て取れる。
 いづれかの下官が、夜遅くまで、働いているのであろう。
 金波宮も、段々朝としての組織が成り立ってきていると言えば良いのだろうか。  桓たいが、陽子から左将軍を拝命した初勅のすぐ後では、 日が落ちると、王宮と言えども何が起こるかわからないくらいに真っ暗な場所になったことを思い出していた。

 桓たいの務めている兵舎から冢宰府までは、なかなかの距離といくつもの門が存在していたが、 軽装で酒つぼを提げて冢宰府へ足を運ぶ左将軍の姿は、下官に有名になっていて、 その行く手をさえぎられるようなことはこの日も無かった。

「急がないと、せっかく冷やした冷酒がぬるくなるか」

独り言を言って、笑みを浮かべると、桓たいはふと、西の空を見上げた。

 天頂よりはだいぶ傾いていたが、まだ美しい、銀の盆を真っ二つに割ったような半月が、輝いていた。

 冢宰府にはすでに取次ぎの下官はいなかった。

「浩瀚様、入りますよ」
「ああ、桓たいか。かまわん、入ってくれ」
「また、遅くまで根を詰めておいでですね」

ため息をついて桓たいがにらむと、浩瀚は苦笑する。

「まあ、仕事だからな」
「実は、冷酒があるんで、ご一緒にどうかと思いまして」
「それは、ありがたい。今日はもう切り上げよう」
「そうですか。では、ご用意しましょう。それにしても、暑いですね」
「そうだな。この時期、安定して暑さが続くと、米の実りに期待できるので、そうそう文句も言えんがな」

にこりと笑った浩瀚は、

「では、着替えてこよう」

といって、奥の方へ入っていった。

 浩瀚は、人には言わなかったが、冢宰府にとまることもたびたびであった。
 たまには官邸に帰りたくても、なかなか仕事が忙しくそれが許されない。
 そこで、食事も風呂も冢宰府のなかでできるように整えてしまった。

 以前、冢宰府を使用していた靖共も、生活に不便の無い様に冢宰府に必要な施設を整え、 下男下女を何人も置いていたので、さほど目新しいことをしたわけではなかったのだが。

 冢宰として働き始めたころは、靖共の復廷を望むものも多かったのであろう。 こうして深夜に及ぶ冢宰府の浩瀚のもとに、何度か、狼藉を働くものが相次いだ。 しかし、桓たいやその腹心のものが、常に浩瀚を密かに守っていたので、 事なきを得て、いずれも表には知られていない。

 浩瀚は少しずつ、以前から務めていた下官たちの配置換えをしていった。
 目立たぬように、少しずつ。

 大概のものは、元の地位よりも高い位の仕事にかえていたので、 表向きには栄転であった。 しかし、そうやって浩瀚は自分のもとを信頼できるもので置き換えることによって、 身の安全を確保していったのだ。

 ただし、周りの者達に不安はなくなっても、仕事は山積みである。 浩瀚がどんなに有能でも心に負担はたまっていく。 桓たいとの酒は、有効な憂さ晴らしであった。

「静かな夜だな、桓たい」

官服のようだったが、ひときわ軽く薄い袍衫に着替えた浩瀚は、執務室に帰ってきて桓たいに声をかけた。

「あれ、浩瀚様。湯浴みなさったんですか?」
「ああ、いつでも湯が用意されているんだ。贅沢と言えば贅沢だな」

くすりと笑う浩瀚に、肩をすくめると、桓たいは、

「ご自分だけずるいですよ。今夜は蒸しますからね」

と、顔をしかめ責める口調になる。

「おや、そうか?では、奥の院へ行ってみるか」
「どこにそんなものがあるんですか?」
「この冢宰府のすみに細い回廊があってね。そこを渡っていくとあるようだ。 実は私も行ったことは無いのだが、下男たちが掃除はしてくれているようでね」

 どうする?と浩瀚に首を傾けられた桓たいは、 黙って先ほど用意した器を重ねると酒つぼと両方を持って立ち上がっていた。

 二人は、奥の院へ出向いてみた。
 二人で飲むには広い間取りだが、趣があってよいものだ。 やはり、虫の音などを聞きながら、いつもより酒量が増えていたかもしれない。

「最近は、冢宰府に物騒な者が訪れなくて何よりですね」
「ああ、桓たいのおかげだ。お前がいつも何人かの者を、私につけていてくれたんだろう?」
「おや、ご存知でしたか」
「お前、私が知らないと思っていたのか?」
「いいえ」

二人は笑い含みの視線を交わし、お互いの器に酒を注ぐ。

「うまいですね」
「そうだな」

「ときに浩瀚様。下官がだいぶ数が減ったようでしたが」
「ふふ。元からいたものはついにいなくなったぞ」
「へへぇ、そうなんですか」

にやりと笑った桓たいは、何か知っているようである。

「先日、夏官府の官吏がすぐ上の上官にこっぴどく叱られていましてね。 訳を聞いてみたら、その官吏、冢宰府の下官だったやつが抜擢された者だったんですよ。 これが冢宰の推薦だったと言うんでね」
「ほおぉ」

浩瀚は、面白そうな顔をして、器に入った酒を口に運ぶ。

「そいつは、同じ夏官府のもっと下のやつから、賄賂を取ろうとしたらしいですね」
「なるほど」
「それで、さっさと首になっていましたが」
「それは、気の毒なことをした。やはり冢宰府で下官をさせていたほうが良かったかな」
「よくおっしゃいますね。浩瀚様、知っていて外に出しましたでしょ」
「そうか?しかし、冢宰の推薦を断るものもいなかったよ」
「そりゃそうでしょう、なんといっても冢宰なんだから」

二人は笑い、冷えた酒を口に含む。

 官吏は、与えられた地位をうまくこなせなければつぶれてしまう。  浩瀚はやみくもに他の府吏へ下官を押し付けていたわけではない。 その、人となりを良く見て転勤させていた。 あまり感心しない下官は、わざと少し高い位の官吏に抜擢させてみた。
 その下官がどう立ち回るか、大方予測をつけていたので、さっきの桓たいの話のように、 首にされるようであれば、そこの府吏はきちんと仕事をしている府吏だということになる。
 うまく利用して試していると言えないことも無かった。

「ところで桓たい。祥瓊殿とは、うまくいっているのか?」
「浩瀚様、いきなり何をおっしゃるんですか? そりゃもう、これ以上ないってくらいうまくいってますよ」
「ほほう、それはそれは。さぞかし、今夜は寂しいことであろう」

浩瀚は、あのような物言いをする桓たいは、 話題を変えようとしている時だとわかっているので、軽く揶揄してみた。

「はいはい、本当に寂しくて寂しくて。こうして、浩瀚様と酒でも飲まないといられませんよ」
「はは、そうか。それでは、禁軍はどうだ?」
「まだ……ですね。まだ、なにか大きな暴動がおきると危ない気がします。 もう少し、指揮系統の徹底と、伝令の技術を上げて、訓練をしませんと。 実践にはきついかもしれませんね」
「そうだな。それには、国そのものが豊かにならんと、正直言って厳しいな」
「左様でございますね。ときに、主上はいかがでございますか?」
「うむ、よくやっておられるが、お疲れのようだ。 正寝に入られると、我々には考え付かないようなお姿で、 諸事をなさるので、女御たちが困っていたようだった」

桓たいは噴出した。いかにもありそうなことだった。

「しかしな、あまりに頓着がないと、 ご自身がお気づきでないうちに不幸を呼び寄せてしまうかもしれないのでね」

 蓬莱はどのようなところか二人にはよくわからなかったが、 着物の枚数が極端に少ないらしいと言うことは間違いないようだ。

 内殿から出て行くときは、流石に陽子でもそれなりの服装を整えてきていたが、 いったん中に入ってしまうと、とんでもない格好をして良く叱られているらしい。

――今の主上は、神籍に入った御年が微妙なのだ――

と、浩瀚は考えていた。

――下世話な言い方だが、男はご存じないのであろう。 それが、ともすれば無防備な振る舞いにつながる恐れがある。
 つつしみがないだけならば、年月をかければお分かりくださるだろうが、 主上はご自分の魅力をご理解してはいらっしゃらない。
 このままいけば、主上は多くの官の人望をお集めになることであろう。 しかしそれだけではなく、男の官吏たちのよこしまな思いも寄せてしまわれるような気がする。
 誰か、噛んで含めるように男女の理を主上に教えていただける者がいればいいのだが――

「そんなことを、主上相手にできるような者がいるわけないじゃないですか。適任者は浩瀚様ぐらいでしょう」
「ばかをいえ」

お互いに酌をしながら、話しははずむ。

「桓たい、おまえやらないか。年も一番主上に近いだろう」
「浩瀚様、それは無いでしょう!馬鹿なことを言わないでくださいよ」
「何だ桓たい、なさけないぞ。そんなことでは」

 お互いに視線を交わしあい、笑っては酒を注ぐ。そうして、さらに話す。

 桓たいが人の気配に気づいたのはそんなときだった。 殺気はないが、こちらを伺うような気が感じられる。 音が漏れないような舌打ちをすると、桓たいは、浩瀚に目配せする。 彼を後ろにかばい、得物に手をかけ格子を勢いよく開けた。

 そこにいたのは、陽子本人だった。

 この部屋の明かりにともしだされた翠の瞳と赤い髪は、 誰が見ても間違うことのない、慶東国国主、中島陽子その人であった。

 *  *  *  *  *  *  *

 寝巻きしかまとわずに目を見開き立ち尽くしている陽子を見て、浩瀚はあわてて部屋に入るよう勧めた。

 桓たいとの会話が頭の中によみがえる。

――正寝から冢宰府までは、かなりの距離がある。何のためにここまでお渡りになったのか?――

 桓たいが入り口の警護についたことを確認すると、浩瀚は顔を上げないように気をつけて陽子に尋ねた。

「まことに失礼ではございますが、主上に置かれましては、 今夜は、どのような御用でこちらにお渡りでしょうか?」
「ああ、本当にすまない。二人の邪魔をするつもりはなかったんだ」
「主上、それではお答えになっておりませんが」
「ああ、うん。盗み聞きのようなまねをしてすまなかった。 二人がどんな話をしているのか聞いてみたかったんだ」
「そのようなことを……お望みでございましたか」

 浩瀚は、跪礼を解き、すっと立ち上がる。

 陽子は勧められた席におとなしくつきながら、ぼんやりと浩瀚を見ていた。
 さっきまでは、語る言葉に叱責が混じっているようで、 すわり心地が悪かったのだが、それが急にやさしい口調に変わった。

 ほっと一息つけるかと思ったが、その、浩瀚のまなざしを見て、自分の心に小さな恐れを発見する。

 目が笑っていない。
 薄い唇はその両端が幾分上がり笑みの形になっているが、笑っていない。
 なぜ? 陽子にはよくわからない。

「失礼ながら、お寝巻きのようでございますね」
「あ、うん。そうだった。今日はなんだか暑苦しくて寝つかれなかったんだ。 それで、ちょっとはだしで散歩のつもりが、こんなところに来てしまった。」

「はじめから、冢宰府をおたずねで?」
「いや、いつの間にかここに来ていた」
「左様で……ございましたか……」

 陽子はいつの間にか自分と浩瀚の距離が縮まっていることに気がついた。

「あ、あの……浩瀚?」

 自分のすぐ前まで来た浩瀚は、 ゆっくりと腰をかがめ陽子の両肩をその両手で押さえると、 ゆっくりゆっくりと唇を陽子の耳元へ近づけていった。

 陽子は、段々と青くなった。

――ひょっとして、私はまったく違う理由で叱られるのか?――

「失礼は……お許しを……。お立ち……くださいますか?」

 低い声が耳元でささやく。 陽子は戸惑い、浩瀚に顔を寄せられたまま立とうとしたが、体がこわばって動けない。
 くすりと笑うと、浩瀚は肩に置いた手を滑らせて二の腕を軽くつかむ。ゆっくりと、ゆっくりと。

 陽子は、ようやく大事なことを思い出したような気がした。

 やがて浩瀚の両手は脇に差し込まれる。

 先ほどより二人の顔の距離は離れたはずなのに、陽子はその瞳から目を離すことができない。

 昼日中見るときとはまったく違う、怜悧な相貌には、冷たい瞳が、 それまでたしなんでいた酒のせいもあるのか、熱い炎すらともしているようで、怖い、と陽子は思った。

 その思いは、陽子の顔色から血の気を奪い、真っ青にさせると、体を小刻みに震わせ始める。

「わたくしが……こわい……ですか?」

 脇に通された浩瀚の手に、ぐっと力が入り、陽子はその場に立たされた。

 浩瀚は自分の着ている薄物の袍に手をかけ、その紐を解いていく。陽子のすぐそばで。

 陽子はようやく自分の犯した大きな間違いに気づいていった。 この時間、こんな格好で、この二人が酒を飲んでいるところなどに近づいてはいけなかったのだ。

 謝ろうとしたのだが、あまりにも怖くて体が動かない。 視線すら動かせずに、浩瀚を見つめ、震えたまま立ち尽くしていた。

 かなりの時間をかけてゆっくりと紐解いた袍を、 肩からするりと滑り落とした浩瀚は、再び陽子の肩に両手を置いた。

「このようなお姿で、我々二人をお尋ねとは、いかなる目的をお持ちでしたか?」

 いつも、きちんと官服を着こなし、潔癖な物腰の浩瀚が、夏物の薄い衫一枚で、目の前に立っている。

 陽子は、浩瀚が「男」であったことにようやく気づいた。

 いや、一連の浩瀚の動きを、今見せられて気づかされたといったほうが良い。 不用意なことをした自分を恥じ、これから何が起こるのか更なる恐怖が今一度襲う。

 浩瀚の一挙一動は、男をあらゆる意味で知らない陽子にとっても、 十分すぎるほど艶のある仕草であった。 陽子は恐怖と共に、その目をそらすことが、尚さらできなかった。

 どこか甘美で切ない動きであったような気がした。 陽子にはその意図がはっきりとはわからなかったが。

 入り口に立つ桓たいは、額に手を当て、声も無くうめいていた。

――浩瀚様はご自分を悪者に仕立てるおつもりか――

――これでは主上は、しばらく冢宰として以外の浩瀚様を避け、ご老体とお子様しか男は相手になさらないだろう。
 最も、台輔は別か。
生活に支障はなさそうだが。
主上も、なにもこんな夜においでにならなくてもよいのに――

 桓たいは、酒の席での会話を、思い出していた。

 彼は、先ほど浩瀚が、どんなことがあっても主上をお守りしろ、 と言ったその意味を、正確に理解していた。

――浩瀚様は、主上と自分を守れとは言っていない――

――これは、浩瀚様自身からも、主上を守れといった意味だ――

――おそらく、浩瀚様は陵辱ぎりぎりまで主上を追い込むに違いない。 そのときを正確に捉えて、おまえ自身で、ご自分から主上をお救いしろと言うことだ――

――男を知らないということはどうしようもない――

――説明するにはこれぐらいのことは、今の主上には確かに必要かもしれないが――

「いやな役だ」

桓たいはつぶやいた。

 蒸し暑い夜、袍の紐を解き、衫だけになった浩瀚が再び近づくと、 陽子の良く知った、清廉な浩瀚の好む香に混じって、浩瀚自身の匂いが陽子にかかる。

 陽子は、泣きたくなった。罪は自分にあると思った。

「このようなお姿で、こんなところまでお渡りとは」

 陽子の肩にかかる浩瀚の両手に、また、力が加わる。

「このような……薄物だけをお召しで……」

「華奢なお体で……ございますね」

「こう……かん……?」

陽子の口の中はからからであった。

「冗祐殿もお付でなく……こちらにおいでになるまでに…… 狼藉者がおりましたら……なんとなさるおつもりでした?」

静かな、穏やかな声色であった。陽子の、耳元で深く低く囁かれる、浩瀚の声。

「このような……か弱いお姿では……どのような優男でありましても…… その手におかかりになってしまうことでしょう……」

そのとおりだった。

「残念ですが……わたくしは……いささか腕に覚えもございまして……」

両肩にかかる浩瀚の、意外なくらい大きな手が、陽子を少しずつ引き寄せているような気がした。

「今の主上では……わたくしから逃れることは……おできにならないかと……」

そう囁き、浩瀚は今一度くすりと笑った。

「大僕も、使令殿でさえも……お近くに気配がない」



――使令?あれ?――

  陽子に、幾分訝しい思いが湧く。
 それまで、自分を悔恨と緊張の真っ只中に落としていた事実が、何か違うように感じられた。

「いかようにして……回廊を……こんな無防備なお姿で……お渡りなさった?」

相変わらず、低く囁く艶のある声だったが、陽子はすでにその中にはいなかった。

――え?回廊??あそこは回廊じゃないだろう???――

「未だ……仕事の終えない官吏も……大勢いた事でございましょう」

――誰も、いなかったぞ――

浩瀚の声が、陽子のうなじのすぐそばで響く。

「いったい、何時ほどそのお姿で出歩きなされた……?」

 急に、陽子の体から震えが抜けた。

 あっという間に、覇気が戻った。

「浩瀚、それは違う」

 きっぱりと言い切った陽子には、朝議の時のような凛とした王気が満ちていた。

 今にも泣きそうだった翠の瞳に、明るく強い光が輝く。

 先ほどとは打って変わった陽子の様子に、浩瀚はむしろ安堵の色を浮かべ、 自分の袍を陽子の肩にかけると、陽子から離れ、片膝をついた。

「失礼いたしました。主上は、こちらにどのようにお渡りでございましたか」

「ああ、実は正寝の庭で小さな扉を見つけたんだ。 そのなかに入ってまっすぐに歩いてきたはずなんだけど、 たどり着いたところの扉を開けると、ここだったんだ」

「それは、不思議なお話しですね」
「疑っている?」
「いえ、それで、お庭に出られたのは何時ごろでございましたか?」
「何時といわれても……もう夜中だったからね」

「そうでございますね。それでは、空に月は出ていたかどうか覚えていらっしゃいますか?」
「ええと……空に、月は無かったぞ。星明りを頼りに庭を歩いていたから、確かそうだと思う」
「でしたら、本日は上限の月でございますから、少なくとも子の刻は過ぎていらっしゃいますか」

 浩瀚は思った。

――確かに回廊を渡ってきたのでは時間が合わない。 主上が外に出られた時間はおそらく四半時もないであろう。 園林を渡ればもっと早いが、使令殿はお付ではないようだし、大僕殿もいらっしゃらない。 それに、もう少しお召し物が汚れるだろう――

「その扉というのは、どちらでございましょう」
「あの、岩山の向こうだけど」
「見せていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん、こっちだ」

 ついさっきまで震えていた体が嘘のようだった。浩瀚は、桓たいに声をかける。

「桓たい、すまないが、少しばかり主上と庭に出る。もうしばらく、警護を頼む」

 桓たいは、浩瀚の、男でも引き込まれるような剣呑で艶っぽい波長を感じながら、

――ここまでいったら最後まで御止めしないのがお二人のためか――

などと、悶々と自分の出て行く瞬間を計っていたところだった。

 それが、急にいつもの穏やかな気をまとった浩瀚と、覇気の戻った陽子を見て、訝しく思いながらも、

「かしこまりました」

と、答えていた。

*  *  *  *  *  *  *  *

「こちらをどうぞ」

 浩瀚は、素足の陽子に、簡単な靴を勧め、自分でも同じようなものをつっかけると、共に庭に出ていた。

「ここだけど」

 寝巻きの上に浩瀚の薄物の袍をかけた姿の陽子は、岩山の裏手で指を差して浩瀚に示した。

「変だなあ」
「何がでございますか?」
「実は、使令はつけていたんだ」

 首を傾げる浩瀚に、陽子は続けた。

「今日は、重朔と一緒だったんだ。 夜中に熱くて寝苦しいから、散歩でもしようと思って、わざわざ重朔を呼んで私の影に遁行させんだ。 はっきり覚えているから間違い無いはずなんだが。本当に付いていない」

「左様でございますか。不思議なこともございますね」
「お前、信用して無いだろ」
「いえ、そのようなことは」
「無い……か?いや、しかし、実際付いていなかったんだから、言い訳の仕様が無いな。 とにかく、入ってみてくれないか」
「かしこまりました」

陽子は浩瀚の手を引いて、小さい扉をくぐった。

 浩瀚は背の高いほうだったので、かなり身を縮めなければならなかったが、 通り抜けられないと言うほどではなかった。
 そして、不思議なことに「通り抜けた」と言う感覚が喪失していた。
 確かに、ぼうっと光る廊下が続いている。

 しばらく様子を伺い思案した浩瀚は、

「主上、こちらは、呪がかかっているようでございます」

と、陽子に告げた。

「そうなんだ」

 陽子は、扉を潜り抜けるとき、妙な感覚に襲われたことを思い出した。

「王専用の隧道ではないかと存じますが」
「ふうん」

「特殊な呪がかかっているようでございますね。 それで使令殿も入ることができなかったのではと、拝察いたします」

浩瀚は語りながら、先ほどの自分の行為を少しも感じていない様子の陽子に、 かなり感心していた。 珍しそうにその壁やところどころにある装飾を見たり触ったりしては、楽しそうにしておられる。

「浩瀚、これ読めるかなあ」
「どちらでございますか?」

 少し歩いた先で、書簡のような物が板壁に貼り付けられているのが見て取れる。 大事な物なのであろう。古いものではあったが細工がなされ、美しい文字でつづられている。
 それを眺めていた浩瀚は、やがて、

「申し訳もございません。古い書体なので、その意味を捉えることができませんでした」
「ああ、ごめん。そんな古いものだったんだ。昔の景王が使った道なのかなあ?」
「左様でございますね」

「じゃあ、もう遅いから私は戻るよ」
「わかりました」
「本当にごめん。桓たいにも伝えておいてくれないか、謝っていたと。 でも、いいなあ。気の合う者同士で酒をかわし語り合うことができるなんて。うらやましい……」

「それでは、主上の御ために酒席をご用意いたしましょうか?」
「ありがとう。でも、私はまだ飲めないと思う。酒が体に合うかどうかわからないんだ」

「では、食べ物と催し物のほうに一工夫いたしましょう。私と桓たいで何かお見せいたしましょうか」
「ほんと!」

 浩瀚は陽子のうれしそうな顔を見て安心したように提案した。

「はい。それでは、来月の中ほどが満月でございます。 そのときには、もう少し仕事のほうも落ち着いているかと存じます。 また、そのころであれば女御や女史もいくらか忙しさが引くのではないでしょうか。 皆様で、ぜひ。私が音頭を取らせていただきましょう」

「ああ、うれしい。ぜひ頼む。楽しみだなあ」
「それでは、お休みなさいませ」
「うん、お休み」

踵を返しもどっていく陽子を見送ると、浩瀚は大きなため息を漏らした。

*  *  *  *  *  *  *  *

 もどってきた浩瀚は珍しくも放心状態であった。
 桓たいは心配して二人が姿を消したほうを何回も見に行ったのだが。 何も見つけられなかったのだ。
 そこへ、急に浩瀚の姿が現れた。

 不思議なことに、先ほどの隧道の入り口は、その後何回行って見ても見つからなかった。 どうやら、本当に王だけが使える呪が施されているらしい。
 桓たいは、来月半ばの満月に陽子を招いて酒宴をすることにした、 という浩瀚に、いったい何があったのか尋ねたが、浩瀚は何も言わずに笑っているだけだった。

 さらにその後すぐ、主上から離れてしまったと、 傍目からもわかるほど慌てている重朔と、彼を連れた台輔が冢宰府に現れ、 主上が突然いなくなってしまわれ、王気も見えないのだ、と冢宰に伝えた。

浩瀚はさっきの話をして、
「今頃は正寝にお戻りでございましょう」
 と、告げた。

「ああ、本当ですね。今、王気がお戻りだ」

 王気が漏れないような特殊な呪があるのだろうか。 謀反が起こったときの退路であろうか。 景麒はそう思いながら、冢宰府を辞していた。

*  *  *  *  *  *  *  *

 正寝にもどった陽子は、まだ、どきどきしている胸を押さえつつ、寝台に横になった。

「いや、本当にまずかった……」

思わず独り言をつぶやく。

――だいたい、あの扉がいけないんだ。 冢宰府につながっていると最初からわかっていたら、服装だってきちんとしていったし、 尋ねる理由だって見繕っていったさ――

 そう思いながら、壁にあった装飾やらなにやらで気を取り直そうと必死になっていた自分を思い出した。

 そこで、壁には何枚かの書簡が貼り付けてあり、たくさん文字が書かれていたことを思い出す。

――そうか、ひょっとして書いてあったのかも――

陽子は少し恥ずかしくなった。

――やはり、文字が読めないと、とんでもないことをしてしまうことになる。 寝巻きで男の人を訪ねるなんて――

 はた、と思い当たった。

 ぼん、とほっぺたから音がしたような気がした。

 陽子はやっと気づいたのだ。顔が真っ赤になっていた。

「あ、どうしよう……本当にまずいことをしちゃった……」

 謝ることすら恥ずかしくてできない。

 浩瀚が、冢宰府を尋ねた理由を、しつこく聞いてきたわけがやっとわかった。

 あの状況では、「そのように」解釈しないほうが無理というものだ。

「私は、なんてことをしてしまったんだ……」

 陽子は、明日の朝議に出なければならない自分の王という立場を呪った。

*  *  *  *  *  *  *  *

     一方、皆が引き取り、奥の院で一人きりになった浩瀚は、 陽子が常世の字に疎くて本当によかったとため息を付いた。

 その隧道は、国王が愛人として冢宰を訪れるときに利用した隧道であったらしい。

 艶を含む書簡がいくつもこれ見よがしに掲げられている。

 確かに、他の場所では保管しておくことは難しいだろう。

――国王と冢宰が恋仲では……収まるものも収まらない――

 それが高じて失道を招き、王としての道を絶たれた者もあったのだろう。

 あの隧道の中には、そのための部屋がいくつか用意されているらしい。

 何からも邪魔されず、麒麟にすら王気を隠す、究極の部屋なのであろう。

 いったいいつ、本来の作られた目的は何なのか。 自分の知識など、取るに足らないものなのだと、浩瀚は感じていた。

 主上が女性であるということは、しばらく忘れよう。 無軌道に、はしたないことをなさっているわけではなさそうだ。

 むしろ、常世に流されないように、お守りしなければ。

 百官の長である冢宰の責任を、しばらくは担わなくてはならないと一人考える浩瀚であった。

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