従順なる原初の使い魔 第九節




 次の日、朝議も執務の時間も飛ぶように過ぎた。

 わざわざ、厄介な問題を案件にして、

「私が直接ご説明申し上げます。」

と、いいながら正寝で他の案件まで、陽子の処理を手伝っていたのは、もちろん冢宰の浩瀚であった。

 最近では、珍しかったが、まったく無いことではなかったので、周りの者達は別に不審にも思わなかった。

 むしろ、ちょっと前まで、陽子は元気が無く、執務にも身が入らないような様子だったので、景麒などは安心したようであった。

「王気が輝いております。主上は何か楽しいことを見つけられましたか?」

そうたずねられて、陽子は悪びれずに、

「ああ、王専用の隧道が、また姿を現したんだ。少しの間、入ってみたい。堯天などには降りていかないから、安心してくれ」

そう答えていた。

「浩瀚と一緒に入るから、大丈夫だよ。水禺刀も持っていくつもりだ」

景麒は、

「わかりました。また、王気がお隠れになるかもしれませんね。入り口を使令に守らせてもよろしゅうございますか?」

「もちろんだとも。そうだ、使令は入れないんだよね。本当に、不思議な隧道だな」

「冢宰府に近い入り口には、左将軍にお願いいたしましょう」

「ああ、それがいい。もう、だいぶ朝は落ち着いているけれど、何かあっても大変だからね」

 陽子は、半身に向かって、私よりも、浩瀚だよ、あいつのように能力に優れ仁に厚く、 柔軟な考えを持った官吏としての人材がまだいないから、むしろそっちが心配だ、などと言い放ち、笑って見せた。

 景麒は、なにをおっしゃいますか、私は貴方以外の王など探しませんから、とむきになって叱る。

「あははは…。わかった、わかった。大丈夫だって、何も無いよ。ちょっと調べるだけだから」

 自分を軽んじる発言には、景麒はこだわるよな、という主を、当たり前でございます、といって憮然とする麒麟は、登極のころから変わらない。

 今となってはむしろ、安心できる日常の一コマだった。


 ともあれ、その日の午後の執務は終了し、景麒から許可ももらった陽子は、早めの夕餉を済ませて、浩瀚と二人で正寝の奥にある岩山の前に立っていた。

 まだ、岩山に扉は現れていない。重朔が陽子の影には遁行していた。


 もう、あのときのような失態は無い。

 重朔は密かに思っていた。

 あの時はまったく経験の無いことがおきたので、うろたえてしまった。今度は、主上が岩山に入られるときは、遁行を解いて、お送りしよう。

 そう考えていたのだ。


 空には、きれいな三日月がかかっていた。まだ、沈んではいない。昨日より遅い時刻なので、あたりはすっかり暗くなっていたが。

 燭台を持って陽子の足元を照らしながら、浩瀚は、

「今宵は暖かく、こうして外に出ていても、ひところよりはだいぶ楽になりました」

そんな風につぶやく。

「そうだなぁ。春を待つとはよく言うけれど、今夜は本当に春のようだね」

 最も、もう三月なんだなあ、などといいながら陽子は、岩山のすぐそばで満開になっている梅の花を見ていた。

「主上、三日月が沈みます」

「え、そう?どれどれ……」

 浩瀚に言われて、西の空を見た陽子は、三日月の上端が向こうの山に沈むところを認めていた。

 程なくすっかり沈んでしまい、月よりも星の輝きの方が増すはずの夜空が、燭台の明かりで邪魔をされたことをなじるかのごとく、一陣の風を送った。

 その場の空気が、ゆらりとざわめく。

 気のせいだったかもしれない。しかし、燭台で照らされる不確かな灯りが吹き消されると同時に、ふわっと、扉が姿を現したのだ。

「やっぱり!」

 陽子は、その、ともすれば不可思議な光景の中に潜む恐怖を、自分の立てた仮説が当たっていたことのうれしさで、吹き飛ばしてしまった。

 浩瀚のほうを向いて、にっこり笑い、

「ね?」

 と同意を求める。

 浩瀚は、この、まだあどけなさの残る少女王に、ますます魅入られてしまう自分を感じていた。

「重朔?」

「御前に」

 低い声が響き、遁行を解いた重朔が、陽子の前に現れた。

「では、扉の守りを頼む。それから、ひょっとすると、私が入ってしまうと扉は見えなくなってしまうかもしれないが、 また、出てくるときは同じところだから、心配しないで、見守っていてくれるかな?」

「是」

 使令としての貫禄も十分、重朔は短く答え、今度は岩山の影に潜んでいった。

「さて、行こうか、浩瀚」

「はい」

 陽子が扉を開くと、そこは夜の闇とは異なり、ぼうっと光る隧道がまっすぐに続いていた。

第十節

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