次の日、朝議も執務の時間も飛ぶように過ぎた。
わざわざ、厄介な問題を案件にして、
「私が直接ご説明申し上げます。」
と、いいながら正寝で他の案件まで、陽子の処理を手伝っていたのは、もちろん冢宰の浩瀚であった。
最近では、珍しかったが、まったく無いことではなかったので、周りの者達は別に不審にも思わなかった。
むしろ、ちょっと前まで、陽子は元気が無く、執務にも身が入らないような様子だったので、景麒などは安心したようであった。
「王気が輝いております。主上は何か楽しいことを見つけられましたか?」
そうたずねられて、陽子は悪びれずに、
「ああ、王専用の隧道が、また姿を現したんだ。少しの間、入ってみたい。堯天などには降りていかないから、安心してくれ」
そう答えていた。
「浩瀚と一緒に入るから、大丈夫だよ。水禺刀も持っていくつもりだ」
景麒は、
「わかりました。また、王気がお隠れになるかもしれませんね。入り口を使令に守らせてもよろしゅうございますか?」
「もちろんだとも。そうだ、使令は入れないんだよね。本当に、不思議な隧道だな」
「冢宰府に近い入り口には、左将軍にお願いいたしましょう」
「ああ、それがいい。もう、だいぶ朝は落ち着いているけれど、何かあっても大変だからね」
陽子は、半身に向かって、私よりも、浩瀚だよ、あいつのように能力に優れ仁に厚く、
柔軟な考えを持った官吏としての人材がまだいないから、むしろそっちが心配だ、などと言い放ち、笑って見せた。
景麒は、なにをおっしゃいますか、私は貴方以外の王など探しませんから、とむきになって叱る。
「あははは…。わかった、わかった。大丈夫だって、何も無いよ。ちょっと調べるだけだから」
自分を軽んじる発言には、景麒はこだわるよな、という主を、当たり前でございます、といって憮然とする麒麟は、登極のころから変わらない。
今となってはむしろ、安心できる日常の一コマだった。
ともあれ、その日の午後の執務は終了し、景麒から許可ももらった陽子は、早めの夕餉を済ませて、浩瀚と二人で正寝の奥にある岩山の前に立っていた。
まだ、岩山に扉は現れていない。重朔が陽子の影には遁行していた。
もう、あのときのような失態は無い。
重朔は密かに思っていた。
あの時はまったく経験の無いことがおきたので、うろたえてしまった。今度は、主上が岩山に入られるときは、遁行を解いて、お送りしよう。
そう考えていたのだ。
空には、きれいな三日月がかかっていた。まだ、沈んではいない。昨日より遅い時刻なので、あたりはすっかり暗くなっていたが。
燭台を持って陽子の足元を照らしながら、浩瀚は、
「今宵は暖かく、こうして外に出ていても、ひところよりはだいぶ楽になりました」
そんな風につぶやく。
「そうだなぁ。春を待つとはよく言うけれど、今夜は本当に春のようだね」
最も、もう三月なんだなあ、などといいながら陽子は、岩山のすぐそばで満開になっている梅の花を見ていた。
「主上、三日月が沈みます」
「え、そう?どれどれ……」
浩瀚に言われて、西の空を見た陽子は、三日月の上端が向こうの山に沈むところを認めていた。
程なくすっかり沈んでしまい、月よりも星の輝きの方が増すはずの夜空が、燭台の明かりで邪魔をされたことをなじるかのごとく、一陣の風を送った。
その場の空気が、ゆらりとざわめく。
気のせいだったかもしれない。しかし、燭台で照らされる不確かな灯りが吹き消されると同時に、ふわっと、扉が姿を現したのだ。
「やっぱり!」
陽子は、その、ともすれば不可思議な光景の中に潜む恐怖を、自分の立てた仮説が当たっていたことのうれしさで、吹き飛ばしてしまった。
浩瀚のほうを向いて、にっこり笑い、
「ね?」
と同意を求める。
浩瀚は、この、まだあどけなさの残る少女王に、ますます魅入られてしまう自分を感じていた。
「重朔?」
「御前に」
低い声が響き、遁行を解いた重朔が、陽子の前に現れた。
「では、扉の守りを頼む。それから、ひょっとすると、私が入ってしまうと扉は見えなくなってしまうかもしれないが、
また、出てくるときは同じところだから、心配しないで、見守っていてくれるかな?」
「是」
使令としての貫禄も十分、重朔は短く答え、今度は岩山の影に潜んでいった。
「さて、行こうか、浩瀚」
「はい」
陽子が扉を開くと、そこは夜の闇とは異なり、ぼうっと光る隧道がまっすぐに続いていた。
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