従順なる原初の使い魔 第六節




 陽子は、今日は久しぶりに堯天へ降りて、鈴や祥瓊と遊んだ後、早めの夕餉をとると、二人に後片付けを任せて、正寝の奥にある岩山へと急いだ。

 時は酉の刻を半刻ばかり過ぎ、細筆で描いた貴人の眉よりも細い二日月が、西の方角に沈もうとしているところだった。

 陽子は、新月の次の日の月が初春の正寝を臨んで、誰かのように口端をあげ、にっこりとしながら沈んでいくようなそんな気がした。

 あたりには甘酸っぱい花の香りが漂う。おそらく沈丁花がかもしだす冷たい香気が、まだ肌寒い空気の下に沈んで足元を漂っていたのに違いない。



「こんなことに一生懸命になるなんて、やっぱり変かな?」

 と、沈み行く月に言い訳をしながら、岩山の前に立った。


 陽子は、がっかりした。

 やっぱり、扉は無かったのだ。

 ため息をたっぷり落とすと、陽子は情けなくてその場に座り込んでしまった。

 やはり自分の王気に反応するのではないだろうか。

 このところ、自分はとりとめも無く気が散じていた。

 諸官は真面目に執務を行い、少しずつだが慶国は復興している。そんな安定した王宮に胡坐を欠いて、自分は緊張感を失ってしまっていたのだろう。

 そんな自分をたしなめるように、いや、むしろ励ますように…だな。また、隧道が現れた。

 今度こそ、どうやったら、この入り口を見つけることができるのか、探ってやろうと思っていたのに。

 明日から、また政務が始まる。しかたない、また初心を思い出してがんばらなくっちゃ。

 そう思ったときである。


 陽子の眼に前に、ぼうっと隧道への扉が姿を現したのだ。

「え?何??なんで??さっきは確かに無かったのに。どうして、今あるんだ?どこがさっきと違うんだ?!」

 陽子は、一生懸命考えた。

 はじめて隧道に入ったとき、真夜中だった。

 あのころは初勅から半年ほど後で忙しかったな。

 府吏の灯りも月も無くて、星を頼りにここまで歩いてきたんだ。

 そのあと、入ろうにも扉を見つけていない。


 そして、昨日だ。

 昨日は、夕方、何の気なしにここまで散歩した。

 そうしたら、たまたまあったんだ。

 そのあと夕餉を済ませてから、またここに来た。

 今度は、また見つけることができて、うれしくなった。

 あわてて案件が書かれている書簡を持って、冢宰府まで行ったんだ。

 そういえば、あの奥の院で浩瀚が酒宴を開いてくれたのだった。

 懐かしいな、あの時も隧道が話題に出て、みんなで見に行ったけど、見つからなかった。

 庭にはっきりと自分の影が映るほどの、きれいな満月だった。

 昼間は見えないし、満月のときも見えない。明るいと見えないのかなあ。

 え?待って! 

 月って言えば、今日は二日月。新月のすぐ後だ。もう……。

 陽子は西の空を見るために首をぐるりと回して見た。そこには、すでに月は沈んでしまって星だけがきらきらと輝いている。

 ひょっとして、月?いや、昼は見えないのだから、太陽と月というべきか。

 陽子は常世における不思議な月の呪力のことを思い出した。麒麟は月の呪力を借り、蓬莱までの扉をくぐると言う。

 月が出ていなければ見えるの?!

 今まで、そういう観点から扉を見に来なかった。

 いや、むしろ逆だ。月が出ていれば足元も明るい。 そう思って、月が出ていたときにばかり、見にきていたような気もする。 うん、きっとそうだ。浩瀚は向こうで待っていてくれているだろうか。この話をしたら、一緒に驚いてくれるだろうか。

 陽子は胸がどきどきするのを押さえ、夢中で扉を開け、中の回廊を走っていった。



 浩瀚は、走りこんでくる陽子を眼で追いつつ、自分も奥の院の露台から降りて靴を履く。その、胸の中に赤いふわふわしたものが飛び込んできた。

 陽子の髪だった。

「はあ、はあ、はあ……」

 次の瞬間、陽子は両肩を浩瀚に支えられながら、大きく息をしていた。

「浩瀚……。実はね、……実は……」

「主上、扉を見つけられたのですね?」

「うん、そうなんだ。私の考えを聞いてくれる?」

「もちろんでございますとも」

 浩瀚は、勢い良く飛び込んできた陽子の額が、自分の胸に軽く触れるのを感じながら、 「落ち着きなさいませ」と声をかけ、少しばかり惜しい気持ちをこらえて、彼女を支えていた両手を離すと、前に回り膝をつく。


   陽子は、月が天空にあるか無いかで、扉が現れたり消えたりするのではないかと語った。 浩瀚は、確かにそういうこともある。と思った。一番最初に陽子が寝巻きでここに来たときも、確か上限の月が沈んだくらいの時刻だった。

「で、どうなさいますか?」

「うん、明日も月の入りはそれほど遅くないから、明日も確かめてみたい。浩瀚は、その時刻にここで仕事をしているかな?」

「左様でございますね、いつもでしたら、執務中かと思います」

「そうか、ではまた明日」

「今日は、隧道にはお入りになりませんか?」

「浩瀚は、もう今夜は用事が無いのか?」

「はい」

 微笑む彼は、いつもと同じ顔をしていた。

「では、少しだけ」

「水禺刀をお持ちなのですね?」

「ああ、これだけはできるだけもって歩くことにしているよ」

 陽子は、赤楽3年のある夏の日のことを思い出した。 うっかり宝剣を持たずに泰麒に会いに行って、かえって多くの命が飛んでしまった。 浩瀚をはじめとして、心ある諸官は当然のことだと言って彼女を慰めた。 しかし、陽子は、国の安定のためとはいえ、また陽子を襲った本人達が悪いとはいえ、無用な命を奪ってしまったのではないかと、今でも思うときがある。

 そんなことの無い様に、また、少しでも失う命に自分で責任が持てるように、彼女は水禺刀を離さないようにしていた。

「では、ご一緒しましょう」

「ああ、頼む」


   奥の院では、姿を隠しながら、桓たいが密かに

「がんばってください、浩瀚様」

と、つぶやいていた。


 隧道に入ると、ほわっとした感覚が襲う。

 しばらく行くといつもの衝立があった。そこにある恋文と思われる書簡をもう一度読もうとした陽子に、浩瀚はその上の書簡の話を始めた。

「主上、こちらの書簡によりますと、この隧道には管理するものがいるらしいのです」

「ええっ?ほんとう??」

 あわてて、陽子は上を向いてその書簡を読み始めた。 「挨拶をするっていったって……誰にもあったことは無いよ」

「不思議なお話でございますね」

「昔はいたけれど、今はもういないとか」

「そのような可能性もございますが」

「この衝立、裏にも何かついているよ」

 どれどれ、などといいながら陽子は衝立を少しずらすために、隧道の壁に手をついて自分の体を支えようとした。


「ぎゃああああーー!」

 陽子が素っ頓狂な声をあげたので、浩瀚はびっくりしながらもその手を取ろうとした。

 浩瀚も、目を見開いている。

 陽子の手首から先が無いのだ。

 いや、隧道にめり込んでいると言ったほうが良いかもしれない。

「失礼!」

とひとこと断り、浩瀚は自分の体勢を低くして、陽子の体を脇から抱え込むと、思い切り引こうとした。

 ずわん、と音がしたような気がした。

 浩瀚が陽子を引き抜こうとした、ちょうどそれと同じくらいの力で、陽子は浩瀚ともどもその隧道の壁に、全身飲み込まれてしまったのだ。

 隧道には、陽子がさっきずらそうとしてそのままになった衝立だけが、ぽつんと残されていた。

第七節

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