従順なる原初の使い魔 第五節




  浩瀚は、官邸から冢宰府へ渡る回廊にいた。ここからは西の空が良く見える。 針よりも細い二日月(ふつかづき)が、今にも西の地平線に沈もうとしているところだった。


 昨夜は桓たいと飲んだ。

 久しぶりに飲んでしまった。

 桓たいがどこかで手に入れてくる麦州の地酒は、浩瀚には懐かしい味であった。

 麦州侯として、州城で麦州の政務を執り行っているときも、今の主上に、ぬれ衣とはいえ、 王位簒奪の疑いをかけられ蟄居していたときも、桓たいか柴望が、この酒を差し入れにやってきては、話し込んでいった。

 まったくもって情けない、酒量が多かったこともあったが、浩瀚としたことが、桓たいに向かって隧道での陽子とのやり取りを、くどくどと愚痴にしてしまった。

「なるほど。それで浩瀚様は、主上のことを一人の女性として、好ましいと思っていらっしゃると、そういうわけですね?」

「変に結論付けないでくれないか?」

「左様でございますか?それに、『変に』ってどういう意味があるんですか?俺は別にかまわないと思いますが」

「なぜだ?」

「そんな据わった眼でにらまないでくださいよ。ではおたずねしますが、主上と浩瀚様が恋仲になると、何が不都合なのでございますか?」

「他の官吏が黙っていないだろう」

「では、浩瀚様はご自分が主上と恋人同士であると、朝議か何かで公表なさるおつもりで?」

「桓たい、お前は私を怒らせたいのか?まるで酔っ払いだぞ、このくらいの酒量で酔うほどのやわな体ではないだろう」

「もちろんでございますとも。浩瀚様、主上と恋仲になられましても、黙っていらっしゃればよいではないですか」

「私はともかく、黙っていることをを主上に押し付けることはできないだろう」


 なぜか二人の会話には、陽子の気持ちについての検討は無い。


「では、浩瀚様は、主上が浩瀚様と恋仲になったと、金波宮中にお勤めの官吏にそのことを吹聴するとでも」

「桓たい!」

 くくくく、桓たいは腹を抱えて笑い出した。

 浩瀚も杯を持ち直し、そこに残った酒を飲み干すと、酒壷を抱えている桓たいに向かって、その杯を差し出した。

 そう、そんなことはわかっている。

 国王を相手に恋などできるものではない。

 気心知れた友との間でかわす軽口以外のなんでもないのだ。

 陽子の気持ちを検討するなどということ以前の問題だ。

 しかし、浩瀚は臣下としての忠節とは異なる感情を陽子に対して抱いていないとはいえない。

 桓たいもその辺のところは感じている。

 浩瀚が冢宰を拝命しながら二人が恋仲になってしまっては、まだ、この朝はもたないだろう。

 それこそ、陽子から直接「夜伽をせよ」とのご下命でもあれば、この二人のことだ。なんとかするかもしれないが。

 何より、陽子はそんなことは言いそうも無いのだ。

 戯言でも言って、宇佐晴らしするしかない。

「それで、浩瀚様は、明日夕刻、奥の院へお出ましになるわけで?」

「主上が扉を見つけることができれば、こちらにおいでになるというのだから、いないわけには行くまい」

「左様でございますね。では、蓬莱風に我々も休日出勤と行きますか」

「せっかくの休みに、悪いな」

「いいえ。ついでといっては何ですが、台輔にも連絡しておきますよ。ちょうど、堯天の警備のことでお耳に入れておきたいことがあるので」

「ああ、このところ、大きな商家が良く襲われているという事件のことか?」

「はい。先日、台輔がご心配遊ばされておりましたので」

「何か、つかんだな?」

 桓たいはその問いには答えず、にこりとした。

「ふむ、わかった。後のことは任せるさ」

「おおせのままに。ではこの辺で、本日はお開きにいたしましょうか」

「酒が無くなったんだろう?来るときは前もって言っておけ。酒ぐらい用意させるのに」

 浩瀚は笑うと、自分に長いこと仕えている半獣の左将軍に視線を送る。

「そのような秋波は主上にお送り下さい。俺は帰って寝ますよ」

「私もだ、ではともに回廊を渡ろうか」

「男同士で申し訳ございませんね」

「なんの、左将軍が護衛とあれば、怖いものなど無いからな」

 二人は笑い、冢宰府の灯りを消して、回廊を渡っていったのだ。


 そんなことを思い出しながら、浩瀚は月が沈み、星星が輝き始めるのを、たどり着いた奥の院にて、その格子を空けて眺めていた。

 庭のあちこちには、禁軍の兵が、遁行こそできないものの、その姿と気配を消して、休日出勤の護衛業務に当たっていた。

 一人でいたのはほんのしばらくの間であった。

 誰かがこちらへ駆けてくる。それが誰かは容易に想像できた。星明りの中、かの人が満面の笑みで駆けてくるのがはっきりとわかった。

「そのようにあわてられますと、転んでお怪我をなさいます」

 そういっても、まだ声が届く距離ではない。

 しかし、かの人は大きな声で叫んでいる。

 やがて、紅の髪と翠の瞳が院から漏れる光できらきらと輝く距離にまで近づくと、それがはっきりと聞こえてきた。



「浩瀚!こーーかーーーん!わかった!!わかったよ〜〜〜」

第六節

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