従順なる原初の使い魔 第四節




 陽子は未だに恋をしていない。いないはずであった。

 もともと真面目な性格であった陽子は、執務に対しても前向きで一生懸命だった。

 そして、陽子のすぐそばにいるものたちも、そんな陽子に恋を勧める暇も無く、すごしてきた。

 まだ、朝が完全に落ち着いたわけではない。いや、「完全に落ち着く」などということは、永遠に無いかもしれないが。

 浩瀚は、そんな陽子を上手に導き育てていたつもりだった。

 実際、陽子は多くの人に守られ教えられて、国王としてゆるぎない道を歩み始めている。

 今の陽子に、かつての隧道を説明するのは、浩瀚にとってあまり気の進むことではなかった。


   むろん浩瀚も、あの隧道のすべてを知っているわけではない。

 金波宮にある古い書簡を片っ端から調べれば、詳しいことがわかるかもしれないが、陽子がそれっきりその隧道の事を言い出さなくなったので、自分でも忘れていたくらいだ。

 浩瀚が見た限りでは、あの隧道は、慶国の国王が恋人である冢宰を訪れるために利用する隧道で、 どこかに、二人の愛を育む部屋もあるらしいということぐらいが、推測できることのすべてだった。

 さらに、景麒の語ったことなどから判断すると、遁行していた使令も入ることができないし、麒麟からも王気を隠すらしいのである。

 使令はともかく、麒麟から王気を隠すことなどできるのだろうかと、当時の浩瀚は訝しく思ったが、 本国の生真面目な台輔のおっしゃることだから、間違いは無いだろうがと、思いなおしていたことなども、心によみがえってきた。


   実は、あの、隧道の壁にそって立てかけてあったついたてには、無垢な少女が目を通すには、あまりにもきつい表現があったのだ。

「野合」という行為が常世にはある。

 浩瀚は思う。これは主上もおそらく「ある」ということぐらいはご存知だろうが、実際はおそらくほとんどご存じないだろうな、と。

 私が、教えて差し上げなくてはならないのか?

 これから冢宰としての執務何年か分と比べても、結構厄介な問題であった。


 そんな浩瀚の思いなど、何一つ知らずに、陽子は自分が見つけた扉がまだあるのだろうかと心配になっていた。

 桓たいにもついてくるように言うと、綿入れと水禺刀を小脇に抱え、浩瀚の手を取って夢中で回廊を渡った。

 奥の院は今日もとても静かだった。

 忘れられたように建っている、この冢宰府の最奥にある院は、未だにめったに使われることは無い。 それこそ、陽子が園林伝いに冢宰府に来るときの入り口がわりのようなものであった。

 下官の数を大幅に減らしたこともあって、浩瀚はこの奥の院の手入れまでは、几帳面に行うことを言明してはいなかった。 しかし、この冢宰府も主の性格を反映してか、奥の院を含む隅々まで、過不足なく整えられていた。

 浩瀚は、いつだったか、この奥の院で、満月の夜に酒宴を開いたこともあった。 隧道のことはそのときも話題に上がって、みんなで岩山を見に行ったが、何も見つけることができなかったのだ。 浩瀚はほっとしたが、陽子はしばらく不思議に思い、みつけようとしていたらしい。

 その後、国を復興させるという事業が忙しく、誰しもそんなことは忘れてしまった。

 どうにか慶国も国が安定してきたと思っていたら、主上の元気がない。

 それは、浩瀚も気にはなっていたのだ。

 主上ももう少女ではあらせられない。このあたりで、ある程度大人の世界も知っておいていただくのも良いかもしれない。

 国王を支えていくということは、もちろん簡単なことではない。それが、胎果の少女ともなれば、さらに色々な要素が加わる。その一つだと思って、精進させていただこう。

 浩瀚は、あれこれと思いをめぐらせて、やっと自分を納得させた。


 奥の院は、広々とした露台が出ており、そこで舞を舞ったり、演奏を披露したりすることができるのだ。 陽子は、何年か前、浩瀚と桓たいが、とても美しく力強い舞を、陽子のために練習して見せてくれたことを、よく覚えていた。

 同じように舞ってみたくて、桓たいにずいぶん教えてもらったのだが、それも執務が忙しくなり、中途半端で止まっている。 そんなことまで思い出し、苦笑しながら表に出ようと自分がはいてきた靴を探そうとすると、浩瀚は笑顔でそれを軽くとどめ、自ら庭に下りて、陽子の前に靴をそろえた。

「ありがとう」

にっこりと笑う陽子に、浩瀚は、

「主上、失礼ですが、外は冷えてきております。その綿入れを私に」

そういって、陽子の手から綿入れを受け取ると、それを丁寧に開き、陽子の後ろに回って袖を通させた。

 いつもの黒い官服に、生成りの綿入れは、少し大きめに作ってあり、ゆったりと暖かそうであった。

 浩瀚は陽子の後ろから、周囲に気を配りながらついていく。桓たいもその後に付き従った。

 やがて、岩山の近くに来ると、陽子は浩瀚に、

「ここなんだ」

といって、指差して見せた。

 後ろから付いてきた、浩瀚と桓たいは、その扉を認めることができた。

「ほら、入って」

 そういって、陽子が扉を開けて、浩瀚の手をとる。桓たいも続けて入ろうとして、不審な者が付いてこないか、一度後ろを振り返り確認した後、扉をくぐろうとした。


 そこには、扉は見えなくなっていた。

 扉どころか、陽子も浩瀚も、その姿を忽然と消してしまったのだ。


   隧道の中に入った浩瀚は、またあの不思議な感覚にとらわれたが、自分を取り戻し、そばに陽子が立っているのを認めると、ほっとした。

「ね、浩瀚。やっぱりあったよね」

 陽子は、また少し興奮している。うれしかったのだろう。 頭のどこかで気になっていたのだから、もう一度入ることができたことは、ちょっとした倦怠期の陽子には、気分を変える絶好の出来事だった。

「左様でございますね」

 浩瀚は、ゆったりと微笑んで見せた。

「それにしても、桓たいはどうしたんだろう?あいつも入りたそうな事を言っていたのに」

「主上?」

「ん?なんだ??」

「桓たいは、入ることができなかったのかもしれません」

「なぜ?では、浩瀚が入れるのはなぜなんだ?」

 陽子は首をひねって、しばし思案していた。

「そういえば、私の影に遁行していた重朔も入れなかったんだ。入れるものと、入れないものがいるのか?ひょっとして、王と冢宰だけが入れるのか?」

「そうかもしれません。なんともいえませんが」

「以前ここに入ったとき、この隧道にはたくさん書簡が貼り付けてあった。 確か、浩瀚は読めないと言っていたけれど、いくつか貼り付けてあったから、どれか読めるものもあるかもしれないよ。 きっと、ここの使い方が書いてあるんだと思う。探して、調べてみようよ」

「どうぞ、御心のままに」

 浩瀚は、もう腹をくくっていた。たずねられたらお答えするしかないだろう、そう思っていた。

 水禺刀を下げ、綿入れを羽織った陽子は、ぼうっと光る隧道の廊下を先に進んでいく。少し歩いたところで、最初の衝立が現れた。

 陽子は以前には気づかなかったが、実は、これらの書簡はずいぶんと高価な紙を使用して書かれてあったのだ。

 厚みがあり、表面は平らで、金色の縁取りがあった。

 本文を書くところは、だいぶ茶色く変色してはいたが、花びらが漉き込んであるような模様があり、その凹凸を避けるようにして、流麗な文字が綴られていた。

「え〜〜と、私は貴方のことを、う〜〜ん、こ・こ・こ・・・。心かな?心から押した、押した??お・し・た・・お慕い、あ、お慕いだ」

 楷書ではなく、蓬莱で言うところの草書体で書かれてあった。

 陽子は、ずいぶんと常世の文字については学習が進んだ。執務に関する文章は、ほとんどを読みこなすことができる。 しかし、私信などは、書いている暇が無かった。大切な友人である楽俊にはいつも鸞を使って、手紙代わりにしていた。 流麗な文字の書き方を習っても、使う場所が無いので、まだ文字を崩す書き方は教えてもらっていない。

 そんな、陽子を見ていくらか安心した浩瀚は、陽子よりも頭一つ高い背を利用して、ついたての上の方にかけてある書簡を、声を出さずにひっそりと読んでいた。


ふむ、ひとつ、この隧道は国王以外のものが使ってはならない。
   ふたつ、この隧道内にあるものを勝手に持ち出してはならない。
   みっつ、この隧道内に外部のものを勝手に持ちこんではならない。
   よっつ、この隧道内にある部屋は、国王とその恋人だけが使うことができる。
   いつつ、この隧道を初めて使用する国王は、その管理人に挨拶をしてから使うこと。 そのさいは、国王であることを自分自身で証明することができなければならない。


ここまで読んで、浩瀚はふと首をかしげた。

「管理人がいたのか」

 ついぞ聞いたことが無い話であった。 王宮の正寝と冢宰府を結ぶ隧道に、たとえ不思議な呪がかかっているとしても、冢宰としての自分が知らないところで、管理人という身分のものが存在しているとは?

 いったい何時から続いている話なのか、訝しく思った。


 考え事をしていた浩瀚は、気がつかなかった。

「……かん。こーかん? 浩瀚!」

「おお、申し訳ございませんでした。すっかり、こちらの書簡に気を取られて、主上のお声を聞き逃すとは。大変な失態でございます」

「ああ、いいんだ。誰しも書を夢中になって読んでいると、周りのことが見えなくなるものだよ。まして、浩瀚は書物が大好きなんだから」

 好きなことがあってうらやましいよ。といって笑う陽子の緑色の瞳をまぶしそうに見つめながら、浩瀚は優雅にしなやかに跪礼を取る。

 上目遣いになった浩瀚は、陽子にたずねた。

「主上、何かおわかりでございますか?」

「うん。昔と違って、常世の文字もだいたい読めるようになったから。これは、ひょっとして恋文だね」

「そのようでございますね」

「もしかして、以前、浩瀚はここの書簡が読めないといっていたけど、それは私に余計な気を使わせたく無かったからか?」

「誠に申し訳ございません。ご明察でございます」

「そうだね。あの時も、少しだけおかしいと思ったよ。書物の大好きな浩瀚が、読めない文があるなんてね。 あのときは、浩瀚の実力が良くわかっていなかったから、そのままにしてしまったけれど、今なら絶対嘘だってわかるよ」

 うふふふ、と笑う陽子は、別に浩瀚の嘘を咎める気は無いらしい。

 いや、浩瀚はむしろそちらに気持ちを向けて咎めていただいた方が良かったのだが、陽子の関心は、書簡の内容であった。

「このね、ここのところ。う〜〜んと、私の中に貴男の……ここが読めなくて、一刻でも長く……ここも読めないんだ。」

 浩瀚なら読める?と彼の瞳をまっすぐに見つめてくる、若き国王に、浩瀚は少しばかり意地悪をしてみたくなった。

「はい、読むことはできますが、私が読んで差し上げてもよろしいのですね」

 嫣然と微笑む浩瀚は、いつもの冢宰の顔とは異なる顔をしていた。そんな様子に気がついた陽子は、思わず彼との距離を一歩分増やしていた。

 陽子の無意識の後ずさりに苦笑すると、浩瀚は二人の距離はそのままにして、もう一度陽子にたずねた。

「この場で、読んでもよろしいというご下命でございますね」

 浩瀚は、めったなことでは陽子の前で「男」にはならない。はっきり言って、そんな暇は無いのだ。しかし、今は違う。

 浩瀚は、王と冢宰が恋を育む隧道だということを知っていたためか、それとも隧道には、 人の心を惑わせる呪でもかけてあるのか、自分と陽子が恋仲であったらどうだろうと、思わず不敬なことを思い描いていた。

 罪なことだ……。どこかに自分をあざけるもう一人の自分を感じながら、陽子の答えを待っていた。

「ひょっとして、私が読んではまずいことが書いてあるんだね」

 少し、陽子の声が上ずっていることを認めながら、浩瀚は答えた。

「そのようなことはございません。特別なことが書かれているわけではないようですから」

「ああ、でも浩瀚は、私に必要だと思うことであれば、私に許可なんか求めずに、いつも教えてくれるだろう?」

 主上は鋭いところを突いてこられる、そう思いながらも、浩瀚は、

「左様でございましたか?」

と、白を切った。

「わかった。浩瀚、今日は桓たいも表に待たせたままだし、もう遅い時間だし、これでやめるよ。 でも、明日の公休日、この扉が、またあるかどうか私は確かめたい。浩瀚にも付き合ってほしい。 浩瀚とここの隧道へ入る扉は縁があるのか、お前と一緒のときに入れることが多いから。どうだろう?」

 説明をするのが一日伸びるというわけか。浩瀚は、陽子の申し出を聞きながら、自分の胸に湧き上がった、不遜な思いに苦笑した。

 何を考えているのか私は。今、慶国で王と冢宰が恋仲になるということは、みすみす主上を失道させるようなものだ。

「わかりました。では、明日、冢宰府の奥の院で、お待ち申し上げます」

「ありがとう。明日の昼間は、久しぶりに堯天へ降りてみようと思ってる。 昼はたぶん扉は現れないんだ。もう何度も色々な時期や時間に見に行っているから。 扉が開くのは、きっと夜だけだと思う。それはわかるんだけど、眠たくていつもはすぐに寝てしまうから。だから、夜はあまり調べることができなかったんだ」

 やっぱり、眠いと政務に差し支えるからね、と笑顔で明るく語る陽子を見上げながら、跪礼のままでいた浩瀚は、彼女の無垢な心と生々しい書簡との落差を感じていた。

「左様でございますか。それは良いお考えでございます。民人の生活をその眼でご覧になられるのは大変よいことでございます。みなも安心されるのではないでしょうか」

「うん。なんだか心配をかけてしまっていたらしい。面目ないよ」

そうですか?と浩瀚は軽く微笑む。もう、いつもの冢宰の顔に戻っていた。

「では、そろそろもどりましょう。主上はいかがいたしますか?冢宰府のほうへお戻りになられますか?」

「いや、今日も自分で正寝へもどる。これから、仕事が終わったら、浩瀚は桓たいと飲むんだろう?邪魔なんかしないよ」

 屈託なく臣下の楽しみに思いを向ける陽子に、浩瀚はこの隧道が愛欲におぼれた者も利用していた事実を、どうやって伝えるか今一度考えをめぐらせていた。

「じゃあ、運がよければまた明日の夜、ここで会おう。おやすみ!」

「お休みなさいませ」

 立ち上がって深く拱手する自国の冢宰に向かって、陽子は、

「仕事のやりすぎはよくないぞ」

と、声をかけて正寝の方へ歩き出した。その後姿が隧道のほのかな明かりでも見えなくなってしまうまで、浩瀚は静かに見送っていた。

第五節

隧道三部作ページに戻る