従順なる原初の使い魔 第三節




  「浩瀚様」

「ああ、桓たいか」

 明日は公休日、それを見込んで、桓たいは酒を持って冢宰府を訪れた。初勅後から変わらない、二人の男の習慣だ。

 執務室では、浩瀚はまだ仕事をしていた。

 朝が落ち着けば落ち着いたで、冢宰の仕事は減るどころかさらに増えていた。

 諸官は、善悪色々な人間がいたが、おおむね仕事はできる者が多く、真面目だった。 影で悪いことをするやからは、根絶することは無理かもしれないが、少なくても、みな表向きは真面目な官吏の顔を貫いていた。

「まだ仕事ですか?」

「ああ、これは仕方がないことだ」

「明日は公休日ですよ。明日はゆっくり休むために、今がんばっていらっしゃるんですよね」

「ん?桓たい、それはどういう意味だ?」

「せっかく、主上が公休日をもうけたというのに、その公休日に一人で仕事をしている上司がいると、とある府吏の下官から愚痴をこぼされましてね」

「ほほう?そういえば、公休日ができてから、もうずいぶん経つな。まるで、慶国の朝には昔から公休日があったような気がするよ」

「浩瀚様、そうやって話をそらすのはおやめ下さい。浩瀚様はひとり出仕して、公休日も仕事をしていると、もっぱらの噂ですよ」

 もちろん、桓たいは、浩瀚が公休日に何をしているかぐらいは把握している。今、彼が問題にしているのは、それが下官たちの噂になっているということだ。

「だいたい、この制度だって、どなたかが仕事のやりすぎで倒れたからできた制度ではなかったんですか?」

「ほう、そうだったか。近頃年のせいか物忘れが激しくてね」

「そういうつまらないご冗談はよしてください」

「ふふ、まあ許せ」

そういって、浩瀚は書いていた手を止め、しばし書簡を見直すと、筆をすずりの上にそっと置いた。

 慶国では、仕事のやりすぎがたたって過労で倒れてしまった浩瀚を見て、陽子が勅命で公休日をもうけてしまったのだ。

 浩瀚は、改めて桓たいのほうに向き直ると、その瞳を和ませて言った。

「みな、公休日は実に良く守って仕事を休んでいるようだ。ひょっとすると、この法令は慶国で一番守られている法令かもしれないぞ」

そう言って、また笑むと、先ほどの書状に冢宰の印を押す。

「この休みができてから、各府吏の仕事ぶりに節目ができるようになったのだよ」

 わかるか?という眼を桓たいにむけ、次の書簡を手にした。

「だから、この公休日を境に各府吏の案件が出来上がってくる。それらを休み中にさらっておけば、次の週に余裕を持って政務を取れるのだよ」

 何も、自分の体のことを軽んじているわけではないといいながら、また書面には署名され印が押されていく。

「もちろん、仕事を休んで官邸に戻ることもある。そんなときはゆっくりと書を読むことができるのさ。 おかげで、私も、冢宰になってからの方が書物を読むことのできる時間が増えたよ」

「明日は読書に励むために、今、仕事をしていると?」

「うむ、そういう考えも、もちろんあるな」

「そういう事であれば、お手伝いをいたしましょうか」

「そうか?いつも、悪いな」

「いいえ。はやく、浩瀚様とうまい酒が飲みたいだけですよ」

 浩瀚は、にこりと笑い、半獣の左将軍に小さめの予備のすずりを渡した。

「では、墨をすってくれないか。もう少しでなくなりそうなんだ」

「お安い御用で」

「あまり、力を入れすぎるなよ」

「はいはい」

 桓たいは苦笑しながら、その硯に少し水を入れると、墨をすり始めた。

 静かな新月の夜に、墨をする音。

   さらさらと筆が紙の上を滑っていく音。

 音があることが返って静寂を際立たせるようだった。

 下官は、明日が公休日であることもあって、とっくに家路についていた。

 冢宰府には、浩瀚と桓たいだけが、ひっそりと仕事をしていたのだ。


 しばらくして、入り口とは反対の方向から、カタンという音がした。

 桓たいは耳をそばだてる。浩瀚も気がついた。

   どちらも、曲者とは思わなかった。

 あまりにも聞きなれた物音だったからだ。

 そのあとに、ひたひたという足音がする。

 二人の男は顔を見合わせて微笑んだ。

「浩瀚、まだ仕事をしているのか?」

と、すぐにかわいい声がした。

 それは、冢宰府の最奥にある院のほうへ向かう回廊がある出口、そちらの方から聞こえてきたのだ。

 このところは、あまり無かったが、以前はよくそちらの方から声をかけられた。

 もちろん、声の主は慶国の国主、景王赤子。中島陽子その人である。 彼女はわかりづらい案件があったりすると、台輔に叱られるのを知りつつ、使令に乗って冢宰府の奥まで来ては、浩瀚に教えてもらい、帰っていったのだ。

 浩瀚は、左将軍に目配せすると、出口の方の扉を開けた。

「ああ、桓たいもいたんだね。邪魔をして申し訳ないな」

「めっそうもございません」

 陽子は、そういって墨をするのをやめて、たたずまいを直す桓たいに、

「いいんだ、すぐにもどる。そのまま磨っていてくれ。浩瀚の手伝いなんだろ?ところで、浩瀚。この書状のことなんだけど」

 浩瀚は、陽子の手をとり上座へ案内すると、椅子に腰をかけるように勧め、陽子の持ってきた書状を受け取り、中身を確認する。

 いつもと同じ、冢宰の執務室の風景だった。


 しかし、浩瀚も桓たいも、今夜の陽子は何時にも増してその顔色が輝いて見えたのだ。

 案件の説明が終わると、浩瀚は陽子に尋ねた。

「主上、何か良いことがおありですか?」

「あれ、わかるか?」

「はい」

 微笑みながら、浩瀚は返事をする。桓たいも、

「なんだか、今夜の主上は楽しそうですよ。このところ、主上は元気がないって、祥瓊が心配していましたから」

明るい声で気さくに話しかけてくる。

 おおむね、陽子に近い官の間では、内容にもよるが、わざわざ発言の許可を取らなくても良いことになっている。

 他国、もしくは別の時代の慶国では、宮殿の中で、しかも国主に対して、普通なら不敬罪でみな死罪にも当たろうという発言の仕方だったが、 陽子の治世では、その辺は程よく簡略化されていた。

「ああ、悪いな。祥瓊や鈴は心配していたらしい。 正直に言うと、このところ半年ぐらいかなあ、なんだかやる気がおきなくてさ。 困っていたんだ。こんなとりとめも無い不安、誰かに言っても仕方ないと思ってね。お前達には言わなかった。すまない」

「「いえ」」

 男二人、肯いてそっと陽子を見守る。

「太師と景麒にはそれとなく話していたんだけどね」

そう言って、陽子はにこっと笑う。

 浩瀚も桓たいも、もちろんそういった情報はいち早く受け取っていて、遠甫や景麒とも相談していたが、 国王としてひたすら走ってきた陽子のちょっとした倦怠期のようなものだろうと仮定して、しばらく様子を見守ろうと決めていたところだった。

「それでさ、浩瀚。桓たいも、聞いてくれる?」

「なんなりと」

「お続け下さい」

「うん、ありがとう。ついさっきね、初勅すぐのことをたまたま思い出していたんだ。あのころのことが思い出されて、なんだか胸が熱くなった」

言葉を切って、二人の男の顔へと、陽子は微笑みながら視線を移していた。

「あの年の夏の終わりに、王専用の妙な呪がかかった隧道を見つけたよね」

 浩瀚の眉が少し動いた。

「あの入り口が、今日また表れたんだ。 夕方にみつけて、さっきまだあるかな、と思ってもう一度見にきたら、まだ無くなっていなかったから、こうして、入ってまた、ここまで来てみた」

「へえ。俺なんかはお話を伺っただけですから、まだ見ていないんです。後々のためにもぜひ見せていただきたいですね」

 浩瀚が困ったような顔をしているのに気づき、桓たいは、冢宰は珍しいお顔をなさると感じたが、いったい彼が何に困っているかは、まったく想像できなかった。

「ああ、いいとも。だから、浩瀚。今から少し仕事の手を休めて、一緒に見に行ってほしいんだ」

 そう、陽子に頼まれたときは、浩瀚は案じていた通り来るものが来た、と思った。

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