しばらくの間、陽子は泣き止むまでじっとしていた。手巾の次にはさわやかな香りをしたお茶が管理人達によって立てられ、陽子の元へと運ばれていった。
この場所に初めて来たときに喫したものとは異なる香り、今度は媚薬は入っていないだろうと、浩瀚は踏んでいた。
陽子は、そのお茶を丁寧に飲み干すと、ほっと一息ついていた。
「ジーナ、ヨーコありがとう。では、君達はそのときの景麟の使令だったんだね」
「いいえ、違います」
「違うのです、景王様」
「私たちは、二人で一人」
「二人でひとりの管理人」
「景麟様は……」
「こんな風におっしゃいました」
「「あなた方は、従順なる原初の使い魔。決して誰にも屈してはいけません。
礼儀としての平伏や拱手は結構です。しかし、あなた方はこの隧道の管理人。
一切合財あなた方の思惑一つで、すべての事は進んでいくでしょう。
あなた方は、していただいたこと、もしくはされた仕打ちに対して、それらを贖うだけの事を、この隧道を使うすべての景王に返していくのです。
景王の命令すべてをお聞きなさい。それ以外の者の命令は、決して聞くではない。おわかりですか?」」
陽子は、凛とした気迫がこもった、当時の景麟の声が聞こえたような気がした。その場に、すいっと立ち上がり、二人に言った。
「わかった。ありがとう、ジーナとヨーコ。君達は、ただの使令ではない。その景麟は『使い魔』という言い方をしたんだね」
「「左様でございます」」
二人の声が、不思議にこだまして、急に立ち上がったせいだろうか、陽子は軽いめまいを覚えた。ふらつく肩を、使い魔の二人ではなく、浩瀚が支えた。
「主上、どうかなさいましたか?」
いつになく、優しい浩瀚の腕に支えられ、どきどきする胸を押さえると、陽子は頬を染めて、下を向く。
「ううん、大丈夫だよ。ありがとう浩瀚、なんだか悲しい話を聞いて、少し疲れた。外に出てくるよ」
そう言って、陽子は太鼓橋のかかる池のほとりまで歩いてきた。
遠くに水の流れる音が聞こえる。そして、風が額の上の赤い髪を揺らしていった。使い魔の二人は、その後をあわてて追いかけてくる。浩瀚も、後に続いてきた。
ぴちょん、池の水面で音がする。
魚が跳ねたようだ。
「あれ?鯉でもいるのかな……」
陽子は、太鼓橋の上で、池の中を見下ろしてみた。先ほど出てきた部屋とは反対の方に、綺麗な色の魚影が映る。
陽子は、近くへ行ってみようと思い、太鼓橋を渡りきった。そして、竹林を抜けていこうとした。
ヨーコとジーナが駆けてくる。
「陽子様、そちらへ行ってはいけません」
「そちらには行けない事になっております」
「「その竹林は入れないのでございます!!」」
二人の声が響いたときには、陽子は竹林に足を踏み入れていた。
陽子は、びっくりしていた。
竹林に足を踏み入れたとたん、一本の竹も見えなくなり、そこには隧道の壁が、薄明るく光っていただけだったからだ。
「行ってはいけないことになっている……そう言っていたな」
陽子は、ぽかんとしてつぶやいた。
「景王様」
「景王陽子様?」
「一足遅うございました」
「景王様には誠に申し訳ございません」
「いや、君達のせいではないさ。私が管理人の言葉を聞かず、足を踏み入れてしまったのがいけないんでしょ?」
「いけないわけではございません!」
「はい、ございませんですとも!」
「景王様がやってはいけないことなど」
「あろうはずがございません!」
変にきっぱりという使い魔達であった。
「うん、でもさっきの綺麗な竹林はどこかに消えてしまったね」
「もう一度、ご覧になりたいですか?」
「とってもとってもご覧になりたいですか??」
くるくると、黄色い瞳と黒い瞳が動いて、陽子の顔を捉える。
「うん、そうだね。とても綺麗だったから、もう一度見たいな」
「では、見ることができるかもしれません」
「そうそう、できるかもしれません」
「景王様、しばしお目をおつむりくださいませ」
「そう、目を閉じてじっとしていてくださいませ」
「仲良しの方に支えていただくとよろしゅうございます」
「仲良しの方、支えて差し上げてくださいね」
浩瀚は、笑いながら二人の言うことを聞き入れ、失礼いたします、と断って、陽子の後ろに回りその肩をそっと支えた。
浩瀚の目から見ても、突然竹林が消え果てて、あとには少し広めに隧道が広がっているだけである。
それだけではなく、さきほどの池も、太鼓橋も、なくなっていることに気づいていた。
まやかしの呪を使うのか、それはこの使い魔達の力なのか、彼は考えながら、
「私は、目を閉じなくてもよろしいのですか?」
そう、小さな使い魔達に尋ねた。
「はいはい、大丈夫」
「そのままで結構でございます」
陽子が、
「準備できたよ、これでいいかな」
そういって、浩瀚に支えられながら目を閉じていた。
「景王様、大変お上手です」
「そのまま、目を閉じられてお待ち下さい」
そう言ったかと思うと、二人は器用に宙返りをした、何回も何回も。
やがて、その回転にあわせるかのように、景色が回って行く、目が回りそうになった浩瀚は、思わず自分も目を閉じた。
浩瀚は、その瞬間、二人の使い魔達が、にっ、と笑ったような気がしたのだ。
二人が閉じていた目を開けると、そこは先ほどのように、深い竹林の端であった。
後ろを向くと、太鼓橋の架かった小さめの池もある。ぴちょん、ぴちょん、と、鯉だろうか?池の水面から跳ね上がる音がする。
「ありがとう、なんだか安心した。この先へは行けないんだね」
陽子はそう二人に確認する。
「「はい、申し訳ございません」」
それはそうだと陽子は思う。ここは隧道の中なのだから、そんなに果てが無いほどの広さではないはずだ。
これはきっと、映画のスクリーンみたいなものなんだろう、ひとり解釈して納得していた。
太鼓橋を渡り、元の部屋に戻ってくる。
陽子は二人に、
「素敵な話をどうもありがとう。何かお礼がしたい。君達、何か望みはあるの?」
使い魔たちは、大きく目を見開き、その目を見合わせた。
「「私たちの、望みでございますか?」」
「そうだよ。何かある?ああ、でもここに何か持ち込んではいけないんだよね」
「「はい」」
二人は、何か言いたそうだ。だが、言ってはいけないので我慢している、そんな感じだ。浩瀚は、そんな使い魔と陽子を見てほほえんだ。
「私たちは、従順なる原初の使い魔」
「私たちは、景王様の恋の望みをかなえることがその務め」
「私たちの望みは……」
「望みは……」
語尾が尻切れトンボになる。
「ひょっとして、望みを持ってはいけないとか、そんな条件でも付いていたの?」
「いいえ」
「いいえ、いいえ。そうではございません」
「しかし、私たち使い魔が自分たちの望みをかなえることは……」
「景王様の望みをかなえて差し上げられなくなることになるのです」
「だからどうぞ」
「どうぞこのままで」
「「我々のことなどお構いなく!」」
きっぱりと言い切った使い魔たちは、それは天晴れであったが、陽子の胸には切なさが残った。
「あなた方が、私の恋の望みをかなえてくれるのか?」
「「はい」」
二人は心からうれしそうな顔をした。
「そうだ、君たちの望み、当てて見せようか?」
陽子は、いたずらっぽく笑って二人にそう切り出した。
二人の使い魔は、真面目な顔をしている。
「ジーナ?蓬莱にはね、ジーナによく似た名前の魔物がいるんだよ」
浩瀚が首をかしげると、陽子は、もちろん御伽噺だけど、と彼に断った。安心したように浩瀚の肯くのを見て、陽子はまた、使い魔の二人に向き直る。
「ジーニィ、ていう名前なんだよ。彼も、ご主人様に使える使い魔だったんだ」
二人の小さな使い魔は、かわいい目を丸くして真剣に陽子の話を聞いている。
「彼は、ジーニィはご主人様のどんな望みも、三つまではかなえてくれた。ああ、でもジーニィは恋の望みはかなえられないと言っていたなあ」
陽子は笑って二人の顔を見る。恋の望みをかなえることのできる二人の使い魔は、胸を張った。うふふ、と笑うと陽子は続けた。
「彼は、ご主人様の望みは何でもかなえてあげられたのだけれど、自分の望みはかなえられなかった。その望みはね」
陽子は、一度口を結び、二人の目をかわるがわる見つめる。
「自由だ」
「「自由?」」
浩瀚は三人の様子を見ていてふっとため息を漏らす。
「ねえ、君達の望みって、この隧道から出て、自由になることじゃないの?」
陽子は、今度は真面目に二人に言った。
二人は、もぞもぞしながらうつむいている。浩瀚は、この場所で初めて、冢宰の顔になった。
「使い魔たち、主上の仰せだ。お答えしなさい」
そんな浩瀚を、陽子ははっとして見つめたが、すぐに二人に視線を戻した。
「言いたくなければ、いいんだ。無理強いするのは良くないから」
二人のかわいい子供は、大きな瞳を潤ませて、陽子に言った。
「「景王様の、おっしゃる通りでございます」」
「私たちは、ここから出てみとうございました」
「しかし、その昔、景麟様はおっしゃいました」
「この隧道から出てはいけません」
「ここから出れば、あなた方はどうなるかわかりません」
「この隧道に限り、あなた方は呪に守られ、どんなこともできるでしょう」
「しかし、ここから離れると、どうなってしまうのか私にも分かりません」
「景王のために、ここを守りなさい」
「決して出て行ってはなりません」
「「そう、おっしゃったのです」」
「でも、出てみたいんだね?」
「「はい」」
「それなら、出てみようよ、どうなるか」
陽子は笑って言った。
「景王様、もうこの隧道は使えなくなるかもしれません」
「景王様の恋をお手伝いすることはできないかもしれません」
「「それでもよろしいか?」」
二人は真剣だった。二人の使い魔の長い長い勤めだったからだ。
それでも、陽子はこのかわいい子供たちを、外に出してあげたかった。
こんなところで、妙な手伝いなどすることは無いと思っていた。浩瀚と私は、そんな仲ではないし。
なぜか頬が赤くなる。
浩瀚は、そんな陽子を見守っていた。その瞳に気づいた陽子は、
「浩瀚、私たちには隧道なんか必要ないよね?」
その意味を、どのように捉えようか苦笑しながら、浩瀚は、
「左様でございますとも」
そう答えていた。
使い魔の二人は、浩瀚を見上げた。
不思議な怪しい光を放っているような気がした。
隧道が必要なのはお前なのではないか?
そう、問われているような気がした。
「必要など、ございませんとも」
そうはっきりと陽子に告げ、浩瀚は陽子の前に膝をつく。
「どうぞ、主上の御心のままに」
「そうか」
ほっとした陽子は、二人と目の高さを同じくするために少しかがむと、片手ずつ手をつなぎ、
「さあ、行こう」
と促した。
二人の使い魔は決心したように、差し出された手をぎゅっとつかんだ。
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