従順なる原初の使い魔 第十一節




 今夜は冷えた。

 春とはいえ、冷たい風が北の国から吹いてきて、今日は堯天ではひどい風だったという。

 雲海の上はそれほどではないが、やはりいくばくかの影響は受けるらしい。吐く息がまた白くなっていた。

 陽子は、さすがに綿入れとはいわなかったが、祥瓊や鈴にうながされ、薄い上着を羽織って正寝の庭に出てきていた。

 今宵は、上限の月。

 沈むのは真夜中である。

 陽子は正寝で少し休んだ後、支度をして出てきたのだ。浩瀚は、今日は時刻も遅いので、冢宰府の奥の院で陽子が来るのを待っているという。

 西の空に、半分の月が沈む。

 正寝の奥にある岩肌は、陽子に扉の存在を主張するかのように、月没後、その姿を現した。

 慣れた手つきで、陽子は扉をくぐり、まっすぐに進んでいった。入った感覚がないことにも慣れてしまったようだ。


 陽子は、隧道の途中にある扉を確認すると、その先の扉を開けた。

 今日は浩瀚も、扉の出現するあたりに出て待っていた。

   冢宰府側の扉は、月が沈んでも姿を現さなかった。主上がお入りになる方だけが、開くのだろう、浩瀚はそう思った。さらに待つと、急に扉が浮き上がるように見えた。

「主上、いらっしゃいませ」

 浩瀚は陽子の姿を認めると、丁寧に拱手したのだ。

「ああ、悪いな、何度もつき合わせて」

「いいえ、何しろ私は『景王様の一番の仲良し』でございますから」

 あははは……陽子は、上気してしまう頬をごまかすかのように笑って、浩瀚の手を引くと中に入った。

「浩瀚、やはり月が沈むと扉が現れるようだね」

「左様でございますね。主上がお入りになろうとする側の扉が、まず開くようでございます。こちら側の扉は、月が沈んだ後、すぐには現れては参りませんでしたので」

「へえ、そうなんだ。やはり、二人で調べるとわかることも多いな」

 陽子は、満足げに微笑むと、隧道の中ほどにある扉を開いた。


   その日は、約束どおり、陽子と浩瀚は二人の幼い管理人の舌足らずな物言いで、大昔の景王とその恋人の話を聞くことになった。

 昔話になるので、かいつまんでその物語を述べさせていただく。


 二人は、こんな話をしたのだ。



 昔むかし、そのむかし、慶国はやはり荒廃していた。

 王が不在だったのだ。

 麒麟も蓬山にいたのだが、今まだ成長しきっておらず、昇山者の中からも、王気をみつけることができないでいた。

 その麒麟は、年のころは二十五・六歳になっていた。麒麟としては、ずいぶんと大人になってしまったものだ。

 成長に時間がかかった分だけ、かの麒麟は大きな力を持っていた。特に呪を施す力が強く、妖魔を調伏する力も優れていた。

 かの麒麟は、景麟、雌の麒麟であった。

 流れる金色の鬣は、長く美しく、齢を重ねたその面は、落ち着いた静かな凛としたものであった。

 やがて、王気を探して、蓬山を出る。慶国を隅々まで探してやっとみつけた王気の持ち主は、その年十六歳になる、少年をやっとすぎたばかりの、若者であった。

 若者の家は貧しく、景麟が探し当てたときには、すでに身寄りもなく天涯孤独の身の上であった。

 若者は「貴方が景王だ」といわれ戸惑うが、陽子のように蓬莱の出身ではなかったので、麒麟と王の関係は、知識としては十分にわかっていた。

 ただ、自分が王になるとは信じられなかっただけだ。

 しかし、身寄りも何もなく、明日の食べ物にも困る身分の若者は、美しく優しい景麟の契約に

「許す」

と言う。

 そして、二人の王宮での暮らしが始まるのだ。


 王不在の王宮を良く支えていたのは、冢宰の才覚であった。

 時の冢宰は、四十歳ほどの見かけをした、穏やかな人物であった。

 官吏としての実力もあり、仁道に厚く、多くの民人をはじめ、官吏たちからも一目置かれる優秀な冢宰であったのだ。

 若き国王をよく助け、百官の長として政務を黙々とこなしていた。


 景麟は、思いのほか慶国の復興が早いと感じて、幸せであった。自分の選んだ主上が、真面目に政務をこなし、その成果が国にあふれるのを見るのは、至福であった。

 そんなおり、朝も安定し、国力もついてきたある日のこと、景王は景麟に相談を持ちかける。

 好きな人ができたというのだ。

 景麟は嫉妬などしない。王が幸せであれば良いのだ。相手は誰だろうと思った。

 この若き国王は、野合の経験がなかった。それほど貧しく、何事も思う通りには行かなかったのだ。 その苦労は、政務を執るときには、民人のために大いに役に立っていた。

 しかし、王も元は人の子、恋をする。さらにいえば、初めての恋だった。 景麟はかなえてあげたかった。野合もして当然だと思った。今までしなかったのが不思議なくらいだ。 国王によっては、国中から美姫を集め、民人から集めた税をそのために使うことをよしとする者も多くいたのだから。

 その相手というのは、時の冢宰であったのだ。

 確かに、時の冢宰は美しい人であった。それだけではない。 優しくて、頭が良くて、国王に対しても、変にへりくだるばかりではなく、いけないことをきちんと諌める事のできる、立派な人物だった。

 ちょっと、見た目年齢が合わないかもしれないが、そんなことは仙になった身には、たいした事ではなかった。

 この、若き景王は、幼いころに父と別れ、母とも時を同じくして死別している。

 幼い兄弟をかばって必死で生きていたが、その兄弟も一人、また一人と他界していった。

 親の愛情、他人の愛情、そんなものの存在が信じられないわけではなかったが、実際自分が受けたことは記憶に無かった。

 しかし、王宮で学び、政務をこなし、自分以外の民人を思い、生活してみると、食べることさえ満足にできなかった生活では、 まったく気づかなかった孤独感が襲ってきたのだ。

 誰かを愛したい。そう、無意識のうちに思ったのだろう。

 麒麟は、なぜか景王の愛に対する飢餓感をうずめる対象にはならなかった。

 景王が愛したのは、時の冢宰。はじめは、政務を執り行うための教師として慕い、 やがて母のように、姉のように慕い、その想いは景王の中で、膨れ上がっていったのだ。

 時の冢宰は人物としては申し分ないのだが、その地位には問題が大有りだった。


 冢宰と国王が恋仲では、朝が荒れる……。

 景麟はそれが元で、自分の選んだ国王が、道をはずしてしまうのではないか心配であった。

 しかし、冢宰の方が、おそらく相手にしないであろう。景麟は、そう信じて、あまり真剣に取り合わなかったのだ。

 はじめのうちは、景麟の思ったとおりだった。

 正寝に咲く花を摘んで、冢宰の元へ持っていったり、視察に出た折に、小物を購入して冢宰に下賜されたり。

 それはそれはかわいらしい恋の表現であった。

 冢宰の方も、それを否定することなく、また、深入りすることもなく、このまま静かに過ぎて行くように思えた。

 景麟は思った。初めての恋だからこそ、あのような方をお好きになったのだろう。 もう少し時が経てば、きっと、いま少し見た目の年齢にも合った、お若い方を皇后にお選びになることだろう。

 景麟はそう思っていたのだ。

 しかし、一時、朝が政務のことで二分したときがあったのだ。たいしたことではなかったが、冢宰とその他の官吏の間で、多少のいさかいが生じた。

 優しい冢宰は、心労がたたり、何日か政務を休むことになった。

 そのとき、国王は心配でたまらなくなり、景麟に内緒で見舞いに行く。

 床に伏した妙齢な冢宰を見て、若い国王の欲求が爆発してしまうのだ。

 やり方もわからぬまま、景王は冢宰を組み敷いてしまう。

 そんなことがあってから、景王は景麟に、誰にも見つからずに、冢宰と愛を重ねることのできる場所がほしい、ともらすようになったのだ。

 冢宰の心労は消え、政務も元に戻っても、若き国王の体の欲求は止まらない。

 とうとう、景麟は凌雲山にいくつかある隧道を使って、冢宰と国王の愛の巣を作り上げるのだ。

 そのときに大きな呪力を使い果たし、景麟はその金色の鬣がほとんど白銀のような色に落ちたという。

 景麟は、景王に懇願した。

「どんなに愛におぼれても、けして政務を怠らないように」

そう、何度も約束させた。

 景王のたっての望みで、その愛の巣には、麒麟も使令も入れないつくりになっていた。

 何年かは、その隧道の愛の巣も、月に一度くらいしか、景王と冢宰の二人には、利用されなかった。

 しかし、朝が安定するにつれてその回数が増え、ついにそこにこもったまま、朝議に欠席してしまう事態が起こる。

 国王と、冢宰が二人とも同時に朝議を休んでは、官吏たちの不信を買う。

 そして、朝は、やがて荒れていった。

 景麟は、失道した。

 国王が政務を省みず、冢宰との愛におぼれていたからだ。

 しかし、景麟は後悔しなかった。

 景王が、幸せだったからだ。

   愛する人と、二人きりで、昼も夜も愛を語り、その身を重ね、欲望のままに暮らすことが、政務を執ることよりも、他のどんなことよりも幸せだったのだ。

 主上が幸せならば、私はそれでいい。

 景麟は静かにその生を閉じた。

 やがて、国王もその生涯を終える。国王のなきがらを抱え、冢宰も仙ではなくなって、その生を閉じた。



「悲しい物語でございました」

「景王様、ごめんなさい」

「涙をお拭きになってください」

「景王陽子様」

 二人の管理人は、おどおどしながら、寝台にすわったまま二つの目から涙をこぼしている陽子の世話をしていた。

「昔話でございます」

 浩瀚は、静かに声をかけていた。

 もっと、悪用するために作られたかとかんぐっていたのだが、ことの始まりはそれほどよこしまな物ではないようだ。

 幾分安心していた。

「う……ひくっ……くすん、うう、ごめんね……。一生懸命お話してくれたのに……。こんなに涙が出てきて……止まらないや」

「景王様、悲しいのですね?」

「悲しくて、涙を流されておいでですね」

「こちらで、拭いてください」

「綺麗にぬぐってください」

「もうずっと、大昔のことです」

 渡された手巾は不思議な質感がした。柔らかく張りがあるのに、涙を残らず吸い取ってほてった顔をさますような冷たい肌触りだった。

「ありがとう」

そう言って陽子は幼い管理人に、涙のしみ込んだ手巾を返したのだった。

 

第十二節

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