従順なる原初の使い魔 第一節




 赤楽○年を少し過ぎたころ、何とか朝も安定し、民人の暮らしも極貧からいくらか上向いてきたのだが、景王陽子は、少し疲れていた。

 体力や気力はそれなりにあったのだが、がむしゃらに走り続けてきて、このところ彼女はふと気がぬけることがある。

「ふうむ、やはり陽子は政務とは直接関係の無い趣味など持った方がよいのではないか?」

 太師にそう諭されて、まじめな陽子は「何をやろう?」と考え込んでしまったくらいだ。


 冬から春に向かう今、金波宮では日を追うごとに、その日差しが暖かくなっていた。

 正寝の庭にも、水仙の花が揺れる。たくさんの球根花が、芽を出している。

 季節がら、ときおり雲海の下では、強い風が吹いて、上空をほこりが舞い、雲海の底を黄色く染めていた。


 立春も過ぎて、太陽も高くなったと感じるある日、いつものように陽子は自分の執務室で、諸官府からの書状に目を通し、御璽を押していた。

「ふうん、新しい関税をかけることにしたのか。一度税を無くしてからずいぶんたつからなあ。 へえ、もうけの大小で税率を変えるのね。小さな商売には有利に働くと言うわけか。今現在の慶国では、そのほうが良いかもしれないな」

 陽子は、ひとり肯きながら丁寧に御璽を押していく。

 そういえば、書もだいぶ上手になっていた。文読も、もう、執務に関するものは、よほど専門的なものでなければ読みこなすことができる。 相変わらず仕事は減らないが、読めなくてできない仕事はほとんど無かった。

「はい、陽子。午後のお茶よ」

 鈴が香りのよいお茶が入った、外側が青く染めてあり中は真っ白な陶器を、小さな丸いお盆の上にのせて、持ってきた。

「どうもありがとう。そこに置いておいてくれる?」

「だめよ」

「え〜〜〜なんで!?」

 口をとんがらかせていう陽子は、昔のままの陽子である。鈴は、この少しばかり覇気の抜けた、少女のような、いやむしろ少年のような陽子が大好きであった。

「太師がおっしゃっていたわよ。陽子には少し休憩が必要だって」

「ああ、そういえば、言われていたような気がする。何というのかな、そんなに疲れているような気はしないのだけど……」

 陽子は、窓の外に眼をやり、まだ芽吹く前の、日差しを直接部屋の中に呼び込む、一枚も葉をつけていない、枝ばかりになった木々を眺めながらいった。


 さくさくと別の衣擦れの音がする。

「陽子は、このごろ何かやりたいって言わないじゃない? ちょっと前までは、よく堯天にも降りたし、十二国のほかの国にも行ってみたいなんて言ってたのに」

そう言って、書簡の巻物をいくつも抱えている祥瓊が執務室に入ってきた。

「祥瓊、そういうことは仕事を持ってきたときに言っても、説得力が無いぞ」

 陽子は苦笑して、追加の書状を受け取った。

「しかたないわ。台輔がどうしても今日中にとおっしゃって、持ってこられたのだから」

「自分でか?」

「そうよ、ご自分でいらしていたわ」

「何でこっちに入ってこないんだ、あいつは!」

吐き出すように陽子が言うと、

「そんな言い方は良くないわよ陽子。台輔も陽子が疲れているんじゃないかって御心配なのよ」

そう、祥瓊にたしなめられてしまった。

「わかった。あいつは、なんだかんだといっても、慶国の麒麟だからね。私も、もう少し仕事をするかな」

「はい、陽子。おやつよ」

「鈴、今日は何?」

「あら、陽子ったらうれしそうね。これはね、お庭に植わっている文旦の実なの。なっていた大きな実をもいで、皮を砂糖で煮たものよ」

「へぇ〜〜〜。そんなもの、金波宮にあったんだ」

 陽子は感心して小さな皿に載せられた、まっ黄色の細長い砂糖菓子をつまんで見た。

 口に入れると、ほろ苦い。オレンジママレードに近い味だと思った。


 午後の休憩は、穏やかに過ぎ、また陽子はひとり、執務に取り掛かる。いつもの日課が流れていく。 夕刻になると、調理場からは煙が立ち昇り、良い香りがしてくる。あたりがすっかり暗くなってしまったことに、ようやく陽子は気がついた。

 鈴も祥瓊も、夕餉の支度に出て行ったようだった。

 いま少し、決済していない書状が残っている。

「これは残業だな……」

とつぶやいてから、陽子は暖かさに誘われて内殿の庭に下りて見た。

 サンダルのような靴を突っかけると、陽子は少し歩き出した。

 さくさくと乾いた音がする。

「確か、ついこの間までは霜柱が立っていたのに。すっかり暖かくなったんだなあ」

そう言って、園林を歩く。

 いつのまにか、寝所を通り越して、庭の端まで来てしまった。

 そこには小さな岩山がある。

 金波宮を支える凌雲山の一部を加工したものだろう。冬枯れた芝草はきれいに刈り取られ、植え込まれた低木には、梅や椿がほっこりと咲いている。

 早春の黄昏は、すぐに暗闇に変わる。しかし、今夜は暖かな風が吹いていた。

「今日は新月か…。ああ、だから明日は公休日なんだな」

 陽子はくすりと笑ってそんなことをつぶやいた。

 初勅後、半年ほど経ったとき、陽子は七日に一度公休日をもうけたのだ。

 四週間ごとに月の満ち欠けが繰り返されるのは、常世も蓬莱とよく似ていた。 季節や月日を合わせるために、ときどき冬官府からうるう年の提案があるが、ほぼ、公休日は新月、半月、満月の次の日にまわってくるものだ。

「明日の休みは何をしよう…?」

 自分が勅命で決めてしまった公休日制度に、自ら背いて仕事をするのはまずいだろうなあ、などと考えていると……


 岩山にきらりと冷たい光が見えたのだ。

 陽子は、ずいぶん前に似たような体験をしたことを思い出した。

 その岩山に近づき、その光を確かめようと、椿や梅の枝を少しずつ折らないようにかき分けて中へ進んで言った。 そこには小さな扉があり、先ほどの光はその取っ手が、王宮にともる夕刻のあかりを反射したのか、きらきらと輝いていた。

「これは、王専用の隧道への扉では無いか!」

 未だに陽子は、どうしたらこの扉を見つけることができるのかわからないでいた。

 この日は、使令はつけていなかった。もう、正寝の中では、よほどのことが無い限り使令をつけずに済んでいた。国が安定したのだ。

 もちろんそれだけではなく、陽子自身が強くなった。

 毎日のように、剣の鍛錬を続けた陽子は、水禺刀を持っている限りでは、その辺のごろつきや一介の兵士では、 束になってかかってきても相手にならないくらい強くなっていた。

 命のやり取りこそ、する機会は無かったが、練習試合であれば、互角に戦える者はそうたくさんはいなかったのだ。

 もちろん、水禺刀が景王のためだけの宝剣であることも、その理由の一つではあるが。

 だから、宝刀も持たず、使令もつけずに出歩いても、正寝の庭であればうるさく言われることも無かった。

「この中に入ると、確か、冢宰府まですぐにいけるんだよね」

 陽子は、初勅を出した年の夏に、寝巻きのままこの隧道に入って、ものすごく恥ずかしい思いをしたのだ。

 あれ以来、数回この場所を確認したのだが、その後は一度も見つからなかった。

 そのうち、政務も忙しくなり、それどころではなくなった。

 その扉が、今こうして自分の前にまた姿を現したのだ。

「もう、夕餉の時間だ。一度もどったら、また、この扉は無くなってしまうのだろうか?」

 そう思いながらも、やはり、大事な日常を捨てる訳には行かない。

 陽子は、鈴や祥瓊とともに食事を取ろうと、多少扉のことが気になりながらも、自分の部屋へともどっていったのだ。

第二節

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