第三節




注意書き

この節には、たいしたことはございませんが、恋愛表現が書かれています。お嫌いな方は、ご注意ください。







 里の中には、一軒だけだが、食堂も兼ねた小さな舎監があった。

 陽子が視察に来るときは、この舎監を利用して、騎獣を置いたり、食事を手配してもらったりしていたのだ。



「頼もう!」

浩瀚が声をかけると、奥から

「いらっしゃいませ」

という穏やかながらもよく通る声が聞こえた。

「おお、これはこれは。今日の雨は、一段ときつうございましたから。さあ、どうぞ中へ入って下さいまし」

 初老の夫婦が営んでいる舎監である。旦那の方が、二頭の吉量を、裏の獣舎へ連れて行く。

 また、ひどく降りはじめた。さっき、小降りになったかと思ったのに、冷たい雨が小さな舎監の屋根に水しぶきを上げる。

 吉量を置いた浩瀚と陽子は、中に入れてもらって一息ついた。

 二人は、身分を明かしてはいなかったが、舎監の老夫婦は、何となく金波宮の高官だろうと思っていた。

 女将の方に向かって、浩瀚は

「すまんが、すっかり雨に濡れてしまった。なんでも良いから着替えを貸してはもらえないか?」

そう頼んでみた。その女将は、

「はいはい、お二人にはちょっと粗末に過ぎるかもしれませんが、奥へ入って着替えて下さいませ」

そう言った。さらに、

「お二人でいらっしゃるのは、久方ぶりですねえ?」

と、つけ加えた。1年ぶりぐらいでしょうかねえ? などとつぶやいている。

「さあさ、殿方はこちらをどうぞ。お一人で大丈夫ですか?」

「お気遣い無く。大丈夫だ。それより、主(あるじ)をよろしく頼む」

「わかっておりますとも、こちらへどうぞ」

 陽子は、言われるままにさらに奥の部屋にはいると、濡れてしまった服をすべて脱いで、舎監の女将が用意してくれた服に着替えた。

 髪も柔らかい布で丁寧に拭いてもらい、濡れた髪が服につかないように、軽く結い上げてもらった。

 オレンジ色のかわいい襦裙だったが、型や模様がだいぶ古いように思われた。

「私が若い頃に着ていた物でございますよ。まあ、良くお似合いで!」

 芯まで冷えてしまった体が、さっぱりとした着物でいくらか暖かくなった。

 そのまま、二階の部屋へ案内されると、そこには一人の男が背中を向けて立っていた。

「今、お茶をお持ちしましょう」

そういって、女将は階下へ降りていった。



「浩瀚?」

 陽子は、不思議な気がした。

 その男は浩瀚なのだろう。やはりこちらの亭主の着物を借りたのか、普通の青年の格好をしていた。

 もちろん冠もつけず、長い髪は後ろに緩くまとめられていた。

 浩瀚の髪は、その半分ぐらいがきっちりと冠の中に入っていたので、陽子ほど髪の毛は濡れなかったのかもしれない。

 思いの外長い髪が、着流したように見える袍衫に良く似合っている。

 丈が合わなかったのだろう。きっちりと着こなすのではなく、ゆったりとくつろいだ風に装っていた。

 陽子は、彼の官服を見慣れていたので、初めはどこの泊まり客だろうと思ってしまったようだ。 しかし、よく見ると、琥珀色の瞳は変わらない。穏やかな、優しい目はそのままだ。

 部屋には裏庭に向かって窓があり、その窓は少し開けてあった。

 表は、まだ強い雨が降っている。



「主上、良くお似合いですよ」

「ほんと?!」

「おかわいらしい」

「はは、浩瀚やめてくれ。恥ずかしいよ」

「なにをおっしゃいますか。それより、視察をどういたしましょうか?」

「うん、この格好をほめてもらえてうれしいけど、やはり官服の方が動きやすいよ。重朔に取ってきてもらおうかなあ。重朔?」

「御前に」

床から顔を半分出して、妖魔が返事をした。

「申し訳ないが、金波宮から私と冢宰の官服をひとそろいずつ、取ってきてくれないか?祥瓊に頼めばわかると思う」

「かしこまりました」

 すっと、使令の遁行する気配がした。



 行きは遁行でも、帰りは服を持っているから少し遅くなるかな。ひょっとしたら、足の速い班渠が来るかな?

 そんなことを考えていると、外の雨の音が一段と強くなる。

 陽子は、窓に寄って今少し開き、表を眺めた。



「すごい雨だね」

「はい、もうすぐやむと思うのですが」

「へ? そうなの??」

「はい、これは村時雨と言って、この時期に降る雨の一種でございます。凌雲山の北側から吹き込んでくる冷たい風によってできた雨雲が一時的に降らせる通り雨でございますよ」

「へえ、村時雨かぁ。素敵な名前だね」

「左様でございますね……」

 二人はそのまま黙って、舎監の窓から、冷たい雨を眺めていた。



 沈黙が破られる。

「失礼しますよ。お茶をお持ちしました」

 舎監の女将であった。

「未だ降っていますかねえ。昨日は良いお天気でしたけど。では、私はこれで。何かあったら階下へ向かって声をかけてくださいませ」

「あ、どうもありがとう。ごちそうさま」

陽子が声をかけると、にっこり笑って軽く拱手した女将は、気を利かせたつもりか、部屋の扉をぴったりと閉めていった。





 静寂が戻る。



 いいや、さーーっという雨の音は、相変わらず続いていたので、音が無くなったわけではないのだが、 陽子と浩瀚のふたりは、まるでこの部屋に取り残されてしまったかのように、黙って外を見ていた。



 一丈ほど離れていた二人の距離は、雨を眺めるために開けられた窓から外を見るために、少し手を伸ばせば、触れることができる距離に、いつしか縮まっている。



 陽子は、雨を見ているふりをしながら、隣の男の顔をそっと見た。

 浩瀚は、少し上を見上げていて気づかないなと思った。

 使令が官服を持ってくるはずの方向を眺めているのだろうか。



 陽子は、自分の手の先が冷たくなっているのにはっとした。

 私は寒いのだろうか?

 それとも、緊張している? なぜ、私が緊張するんだ??

 涼しい顔をしているように見える、隣の男が、少しうらやましくなった。



 一方、浩瀚は、二人きりになったことを改めて認識していた。

 もともと、二人で来ることにしていた視察である。

 それが特にどうという訳ではない。

 当然、姿こそ見せていないが、要所要所に禁軍が配置されているはずだ。

 主上と私が到着したことも、村時雨に降られてずぶぬれになっていることも、あと四半時もすれば、金波宮に報告されるだろう。



 過去、主上とこのように二人だけになったことが無かったわけでもない。

 折に触れ、たまたまであったり、主上が私にお気遣いくださり、人払いされたりと、そんなことは何度もあったことだ。



 今更、いまさら何を……





 陽子は、隣からとても暖かい空気が漂ってくることを感じた。

 一般に男女を比べた場合、男性の方が体温が高いのは、蓬莱も常世も同じらしい。

 不思議なことだ。子供ができるわけでもないのに。

 まして、神仙となったこの身に、体温があること自体不思議な気がする。

 陽子はそんなことを思った。





 ああ、でも浩瀚のそばによると暖かそうだ。



   そうだった。何度かその胸に顔を埋めたことがある。

 こいつはいつも、困ったような顔をして、それでもじっとされるままになっていてくれたっけ。

 本当に、片手で充分間に合う程度の数しかないけどね。





 今日も、ちょっとだけ、いいかな?



 陽子は、無意識にゆるく結い上げてあった髪を、ほどいて下ろした。

 まだ生乾きの髪が、重そうに肩に落ちる。





「こうかん……」

なぜか、陽子の声はかすれた。

「はい、主上。いかがなされました?」

「ちょっと、いいかな?」

「はい、もちろんなんなりと……」



 お申しつけくださいと言おうとしたのだが、陽子はそれを待たずに、浩瀚が自分の要求を受けてくれたと勝手に思い込んだ。

「要求」など一言も告げてはいないのだが。



 外に開いた窓に向かって立っていた浩瀚の胸の中に、陽子はすっぽりと収まっていた。



「あたたかい……な」

 陽子はそっとつぶやく。





 浩瀚は、意外なくらい自分が冷静でいることに気がついた。

 外は、ざーーっという音と共に、まだ村時雨が降っている。

 雨以外は、何も見えなかった。

 冷たい空気が小さな舎監の部屋にどんどん入り込んでいく。

 浩瀚は、片手を陽子の背に回し、もう片方の手で、その窓をそっと閉めていた。



「主上、誰かが見ているかもしれないですから、誤解を招くような事は……」

 ささやくように、諫めようと試みた。



「暖かい、本当にあったかいね。浩瀚は」

そう言って、ぎゅっとしがみつく陽子を、浩瀚はわかっていても引き離すことができなかった。





「主上……」

 静かな時が流れる。村時雨の音以外は、何も聞こえない。





 ああ、主上はつめたくなってしまわれたのだ。

 暖めなくては。

 火の気も無い部屋だ。まだ、それほど寒いわけではないから、舎監のせいにはできないな。

 私の衣を握っていらっしゃる手も、冷たくなってしまわれた。



 暖めなくては……

 あたためるだけなのだから……





 浩瀚は私のことをどう思っているのだろう? 

 王として、胎果の王として、若輩の女王として、慶のために導いてきてくれたのはわかっている。

 でも、それだけなんだろうか。

 それ以上のことは、求めてはいけないのだろうか。



 ずいぶん前、あれはまだ王になったばかりの時に、固継の里家で遠甫から教えてもらったことがある。

 王は婚姻して子供をもうけることはできないが、野合や伴侶に大公の地位を与えることはできるって。



 浩瀚を冢宰から外す事はできない。

 大公は無理だ。

 でも……





 主上、貴方を優しく包んでいるふりをするのは、私にとってはつらいことでもあるのですが、そんなことはご理解いただけないでしょう。

 困ったものです。

 貴方の方から、離れていただかなければ……



 私は……





 ……離したくはございません。





 浩瀚は、私のことをどんなふうに感じているのだろう?

 こんな風に暖かい胸に包んでくれるのは、私が王だから? 

 私が子供だから?

 浩瀚が冢宰だから?



 では、「女」としての私のことはどう思っているのだろう?



 陽子は背伸びして、浩瀚の肩の上に自分のあごを乗せた。



 浩瀚は体の向きを少し変えて、窓の枠に頼る。



 寄りかかるように自分の背中をその枠に預けると、少し姿勢を低くして、陽子が無理に背伸びをしなくても、自分と背の高さが合うように調節する。



 頬と、頬が、触れ合った。





「ああ……こうかん……お前って……本当に 

   あたたかいね……」



そう言った陽子の声は、かすれて、聞こえるか聞こえないかのほんの小さなささやきになる。



「さようで……ござい……ますか?」



 浩瀚の声は、陽子の耳のすぐ後ろで聞こえた。

その声は、ふるえて、陽子のうなじをくすぐる。



 陽子の胸がどきっとした。

 浩瀚の唇がすぐ近くにある。





 くちづけ、しても、いいのかな?





 陽子の頭の中は、そう考えただけで、真っ白になってしまった。





   自然に、肩の上に乗った陽子の顔が、頬と頬を触れ合わせながら、ゆっくりと回る。





 主上の頬は、なんと冷たいのだろう。





 浩瀚は自分にむかって陽子の顔が動いてくることを感じていた。

 何も、考えまい。





 浩瀚は強く心に念じると、自分の方から陽子のほうへ顔を回した。





 軽く、かすった、ふたりのくちびる。

陽子は、体中が熱くなることを理解した。







 浩瀚は、触れ合っても陽子が拒んだりしないことを確認した。

 軽く触れ合ってずれていったくちびるを、もう一度反対に動かして、確実に触れる。





 陽子は、浩瀚の胸にしがみつかせていた手を、さらに力強く握りしめる。





 浩瀚は、片方の手で陽子の背を支え、片方の手を頭の後ろに回して、ゆっくりとくちびるを押しつけていった。





 お互いに、自然に閉じていた目。





 そして、少女に初めて口付けした男は、ややあって、閉じていた唇を少し開いて感触を確かめるかのように、舌でなぞった。

 思いの外ぬめりとした男の舌に、少女は驚いて目を見開き、顔をのけぞらせた。





 そのときだった。

「主上?」

 窓の外で、聞き慣れた太い声がする。

はっとして、陽子は、浩瀚の顔を見た。





彼はいつになく優しい、そして困ったような顔をしていた。





「浩瀚、ごめんね」

そう言うと、陽子は浩瀚から離れ、窓を開けた。



 村時雨は、いつの間にかやんでいた。冷たい空気がまた、入ってくる。その向こうに、班渠の姿があった。

「ああ、やっぱり班渠が来てくれたんだ。ありがとう」

 大きな犬型の使令は、口にくわえた包みを、差し出された浩瀚の手に渡すと、

「祥瓊殿からの預かりものです。台輔のご命令で参りました」

と、報告した。

「うん、では視察には班渠に付いていってもらおう。いつものように、私の影に入ってくれるかな」

「御意」

 使令が姿をくらませると、あたりが明るくなってきた。

 雲が切れてきたらしい。

「よかった。晴れてきたから、視察も楽だよ。官服も持ってきてもらったことだし、二人で予定通り、この里をまた見てみよう」

「かしこまりまして」

 いつもの、王と冢宰であった。





 でも、あの感触が、二人とも、忘れられない。

 村時雨の、冷たい空気と、あの音が、忘れられない。

「ごめんね」と思わず言った陽子。

「ごめんね」と言われた浩瀚。



 いったい、何に対しての「ごめんね」なのか?

 おもいがからまる



 はじめての、二人の、くちづけ。

別話

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