仁重殿の奥に、景麒の寝台が置いてある。華美をそれほど好まない景麒でも、慶国の麒麟が休む場所は、それなりに整えられているものだ。
陽子は、天蓋から覆い布がかかる寝台の脇に座った。景麒が下官に用意させた椅子らしい。
陽子を迎えて体を起こそうとする麒麟を、そのままで、と伝え、陽子の方から切り出した。
「景麒、すまない」
「主上、何をおっしゃいますか。もう私は大丈夫です」
「血に酔ったのか?」
「はい。流血に出会ったのは久しぶりでした。我が業とはいえ、申し訳ありませんでした」
「そんなことはない。みんな私が悪いんだ。と、いうか、悪かった」
「では、何か悟られましたか?」
「ああ、大切なことを学んだというか、そうだな、気が付いたんだ」
「お聞きしても?」
陽子は、緑色に光る大きな瞳をくるりと動かすと、天井を向く。そして、恥ずかしそうに頬を赤く染めた。
「私は、何も知らなかったんだ、と言うことが、わかった。それが一つ」
「まだ、何かあるのですね?」
「ああ、景麒。私は、わたしには大切な人がいた。確信したんだ」
景麒は、ふわりと微笑み、そのままでとさっき言われた自分の体を寝台の上に起こした。
「主上、王気が強く明るく輝いておいでだ。お心のまま、お進み下さい。私は、貴方の半身です」
そう言った景麒の片手を、陽子は自分の両手でつかみ、握りしめた。
「ありがとう、景麒。うれしい、お前にそう言われて、ものすごくうれしい」
景麒は苦笑する。
「ああ、そうだ。今日はどうだ? 朝議には出られそうか?」
「医師の言葉によると、もう一日休んでいた方が良いそうです。朝議は明日から出席いたします」
「わかった。今日は私が一人で出るよ。景麒は休んでいて! また、来る」
「いってらっしゃいませ」
陽子は、景麒の側を離れ、虎嘯を従えて外殿へと急いだ。
この日は、朝議も滞りなく済んだ。
左将軍が怪我をしたことと、その怪我の際に側にいた景麒が血に酔って倒れた事の報告はあったが、どちらも大事ないと言うことで、話が終わっていた。
内殿に戻って昼餉を取る陽子の元に、冢宰が面会を求めにきた。
跪礼する浩瀚に、陽子は立つように勧め、何事かを尋ねた。
「本日は、政のことではなく、主上のお心をお慰めしたく参りました」
珍しいことだった。仕事以外でわざわざ冢宰が内殿まで来ることは全くないと言っていいだろう。
昨夜のことを考えると、陽子は顔から火が出るような思いだったが、鈴も祥瓊も側にいたので、あまりうろたえるのもみっともない。必死に平静を装っていた。
「ご休憩の間に、私の官邸の裏に来ていただきたいのです。今がもっとも見頃でございます」
「何が、見頃なの?」
陽子は、その一言でさっきまでの心の動揺はどこかに吹き飛んだようだ。浩瀚に向かって興味津々に尋ねていた。
「それは、ご覧になるまでの内緒にいたしたく」
そう言って、にっこりと笑った。
浩瀚、お前笑った方がいい。浩瀚の笑顔が、私は好きだ。
そんなことを想い、陽子はまた顔を赤くする。
「わかった、すぐ行く。ちょっと、反則だけど班渠に連れて行ってもらうよ」
「では、台輔も体調が戻られたのですね?」
「うん、そうみたいだけど。なぜ?」
「やはり、主上もご存じなかったようですね。使令殿は、台輔の気に左右されやすいそうでございますよ」
「それって、景麒が病に倒れると、使令も元気がなくなるって事?」
「ご明察でございます」
陽子は十年以上昔、常世に流されてきたばかりの頃を思い出した。
あの時景麒は麒麟としての能力を封じられ、自分に就いた使令を動かすことができなかったんだ。
そうか、昨夜はそう言う状態だったのか。そんなところに班渠を帰してしまったんだ。班渠には悪いことをした。
「班渠?」
「御前に」
「昨日はごめん」
使令がくすりと笑ったような気がする。
「もう動けるのか?」
「はい」
「私と浩瀚を乗せて、冢宰官邸まで行けるか?」
「是」
班渠は遁行を解き、園林にそのしなやかで大きな体を陽子に見えるように現した。
「浩瀚、後ろに乗って! では行こう。班渠、頼む」
すいっと、空中に浮かぶ使令。陽子は、留守番をする鈴と祥瓊に軽く手を振る。その姿はたちまち見えなくなった。
「陽子、幸せそう」
鈴がつぶやく。
「ほんとね」
祥瓊が相づちを打つ。
穏やかな初夏の午後であった。
|