第十六節




 陽子の後ろに跨った浩瀚は、手綱をとると、陽子を守るようにしながら吉量を翔けさせる。

 ぐいん、と崖に沿って、翔け始めの吉量は高度が下がる。怪我が治ってすぐでもあるし、勢いをつけるほどの空き地がなかったのだから、しかたのないことだ。

「大丈夫か?」

 陽子が優しく、吉量に問いかける。

「二人乗りましたので、幾分負担が大きいかもしれません」

 浩瀚は、無理に上昇せずに、吉量が安定した飛び方をするまで、高度の下がるままにさせていた。



    やがて、谷底が見えてくると、吉量はうまく上昇気流を捕まえたようだ。ふわりと、空を駆け上る。

「よくやった! お前えらいぞ」

 陽子が騎獣を手放しでほめる。満面の笑みで振り返り、陽子は浩瀚の顔を見た。彼は前を向いて真剣に手綱を操っていたが、そんな陽子の様子に気づき、その顔をほころばせる。



 先ほどまで二人ですごした洞が見えた。

「浩瀚?」

「はい、なんでございますか? 主上」

「実は、このうろの周りにある、白い枯れた蔓は、以前、お前と景麒に下賜した、赤い花の蔓だったんだ」

「はい。こちらで手折られたのでございますね。さすがは班渠殿、このような険しいところでも自由に止まることができるとは」

「ああ、班渠は優秀だよ。それで、実は昨年までは真っ赤な花が咲いていたんだが、今年は枯れてしまった。そんなこともあって、余計気分が沈んでしまったらしい」

「これは…… 左様でございましたか。突抜忍冬という花は、日当たりと水はけの良い場所を好むと言われております。主上、この少し上をご覧下さい」

「ん、あれ?」

「木が茂っておりますが、あの木が昨年はもう少し小さかったのでは?」

「うん、確かにそうだ。あんな大きな木はなかったぞ」

「あの木が大きく育ったために、日当たりや水はけが変わってしまったのでしょう」

「そういえば、昨年も、その前の年から比べると、花の数が少なかったんだ。そうか、この、上に生えてきた木と交代だったんだな」

「左様でございますね」

「もしかしたら、突抜忍冬が枯れたことが、上の木を活かすことになっているのかもしれないな」

「はい、命は巡っていると思われます」

「本当だな。でも、惜しいことをした。とても綺麗だったんだ、この場所の突抜忍冬。真っ赤な花が、濃い緑の葉に映えて、赤と緑の滝のような景色で」

 浩瀚は、少し考えて、

「まるで主上のようでございますね」

そう言った。



「え? 私??」

「はい、赤と緑で美しいと言えば、主上のことではございませんか?」



「ばか」

 陽子の返す声は小さかったが、うれしそうだった。まん前を向いてしまった陽子のうなじが少しばかり赤くなっている。



 やがて、禁門が見えてきた。

 まだ早いのか、誰もいなかった。二人が降り立つと、あわてて兵がかけてくる。二人は吉量を兵に預けると、禁門を通って中に入っていった。



 正寝では、桓たいがもう床を払っていた。さすがに、傷ついた利き腕の方は、肩からつるしていたが、顔色は元に戻り、陽子が部屋に入ったときは、椅子に腰掛けていた。

 陽子は、本当はそれこそ伏礼でもしたいところだったのだ。しかし、桓たいの方が先に膝をつき、跪礼していた。



「誠に申し訳ございません」

「なぜだ!」

 陽子は、むしろ怒ったような、そんな口調になっていた。自分が謝らなくてはと思っていたからだ。

「禅譲」等という言葉を不用意に使ってしまったことも、そして、桓たいの利き腕を落としてしまったことも。



 だが、陽子は王だった。それは、したくてもできないのだ。

 いや、もっと軽いことだったら、逆にできたかもしれない。 しかし、近しいものだけしか知られていないとは言え、充分大事件を起こしたのだから、あやまるにしても、それ相応の態度を取らないとかえってみんなを困らせてしまう。 それで気後れしてしまった。



 一方、桓たいは、陽子が浩瀚と共に正寝の、自分が休んでいる部屋に入ってくるのを見て、その様子の変化に目を見張った。

 何か、あったとしか思えない。それほど、昨日の陽子とは、雰囲気がまるで違っていた。

 いつもの、いや、半年ほど前の天真爛漫な主上とも、少し違っている、それでも、何か、そう、幸せそうなお顔でいらっしゃる。

 そんな風に思ったのだ。

 よかった、主上は元に戻られた、いや、さらにその先に進まれたか? 大人におなりになったような?



「主上、それは、左将軍である私が、油断していたとはいえ、主上に剣で後れをとったことでございます。左将軍としてそれは誠に申し訳なく……」

「良い。昨日のことは、私が悪かった。魔が差したのかもしれない。こんなことはもう二度と無いようにする。私の方こそ、許せ」

「もったいないお言葉。で、主上?」

「ん、なんだ?」

「何か、ございましたか?」

「なぜだ?」

「見たこともないほどお美しい」

「???」

 なぜか、後ろにひかえている冢宰が笑ったような気がした。

 桓たいはそれに気づいて何となく悟った。

 彼は、それ以上追求してはまずい気がしたので、今一度跪礼をする。



「桓たい、まだ休んでいろ。しばらくは手を動かせないんだろう?」

「は、ありがたき幸せ」

「祥瓊?」

 陽子は、官職名でなく、本人の名を呼ぶ。

「主上、お帰りなさいませ」

「有難う、桓たいを。そして、すまない」



 祥瓊は、少しだけ陽子を見て首を横に二回振ると、優雅に跪礼した。



 祥瓊は、桓たいが休んでいたこの部屋に二人が入ってきたときに、すべてがわかったような気がした。

 陽子と冢宰が、静かな幸せを抱えているように見えたからだ。

 二人とも、昨晩と同じ服を着ていたので、やや着崩れているのだが、艶やかな香りがまとわりついている。陽子の髪、冢宰の襟足、ほんのり染まる少女の頬。

 夜に、何があったかはもちろん、昨日の騒ぎがなぜ起こったのかも、祥瓊は理解できたような気がした。



 陽子と、彼女の思い人のことは、鈴と二人で随分心配したのだ。

 しかし、十分に陽子の相談に乗るには、時間的に余裕がなかった。昨年の秋から次第に元気がなくなっていく陽子を見て、二人は気をもんでいた。



 その矢先に起こった事件。

 桓たいは、傷を負ったが、それはどうやらたいしたことにはならないらしい。

 いや、遠甫の的確な治療と桓たいの日頃の鍛錬が功を奏したのだろうが、それでも、峠を越した桓たいの傷は、祥瓊の心配事ではなくなっていた。

 むしろ、その反動で、祥瓊は陽子のことがどうなったか、心配で気が気ではなかったのだ。

 だが、この二人を見て、祥瓊は十分に納得した。



「二人とも、しばらく正寝にいてもかまわないけど、もう動けるようだったら兵舎の方に戻ってもいいよ。女史殿には、本日は左将軍の看護をやってもらいたい」

「「かしこまりました」」

そう言って、左将軍と紺青の髪をした有能な女史は、正寝を退出していった。



「主上! お帰りなさいませ」

 今度は鈴が部屋に入ってきた。そのあとから虎嘯が黙って跪礼する。

「二人とも、心配をかけた。もう大丈夫だよ。昨日のような事は、この先はないと思う」

 陽子は、多少恥ずかしそうにしながらも、二人にはっきりと伝えた。



「まだ、朝議までは時間がある。景麒を見舞ってこようと思うんだ。虎嘯、ついてきてくれるか?」

「もちろんでございます」

 虎嘯は跪礼したまま答えた。



 陽子の奴、なんかあったな? こんなに急に、元に戻れる状態だったとは思えなかったんだが。

 虎嘯は、陽子の後ろで静かに微笑む冢宰を見て、ひょっとしたら? と思ったが、黙っていた。



「浩瀚は、朝議の準備があるんだろ?」

「はい。できましたら、冢宰府にて昨日整えました書状を確認し、外殿の方へお持ちしたいのですが」

 いつもの日常が戻る。

 何よりも幸せな、いつもの日々。

「ああ、よろしく頼む。今日は特に私がしなくてはならないことはあるのかな?」

「いえ、本日の提案は春官府からでございます。二三、細かい案件も協議する予定でございます」

「うん、それでいい。ありがとう」



 そこで虎嘯は気がついた。

 この二人が、こんな風に、流れるように言葉のやりとりをしているのは、実は久しぶりだったと言うことに。

 昨年の秋頃から、あまり陽子と冢宰は直接話をしていなかったような気がした。 虎嘯は、自分がいないところで、二人きりで話をしているんだろうと、勝手に思っていたが、そうではなかったらしい。

 そのことに、今更ながら気がついたのだ。

 鈴や祥瓊が心配するはずだ。俺は、桓たいから冢宰が陽子をどんな風に思っていらっしゃるか聞いていたから、心配することはないと思っていたんだが。

 そうか、やっぱり想いはそれぞれにあるもんだな。





「虎嘯、仁重殿に行く。ついてこい」

 にっこり笑って、虎嘯は黙って跪礼した。

第十七節

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