第十五節




 いつの間にか、二人とも洞の中で眠ってしまったらしい。

 時は巡り朝になる。もう、日は昇ったようだ。

 入り口の外は、明るくなっていた。

 陽子は、両目を開けた。

「おはようございます、主上」

 落ち着いた声がすぐ側から聞こえる。陽子はしばらく、自分がどこにいるのかがわからなかった。

 どうやら眠っていたらしい自分が、目を開けて見ている物は、岩のようだ。

 やさしい男の声が聞こえた。それは、こちらの方から?

 ゆっくり首をまわしてみた。

 浩瀚だ。

 彼は、もう慶では滅多に見かけない伏礼をしていた。

 陽子は、両手で交互に自分の体重を支えながら、その場に上半身を起こした。



 陽子は、ここが十年ほど昔、桓たいと共に麦州の棚田を見に行った時にみつけた洞であることを思い出した。

「桓たい?!」

 小さな声で不安そうに、慶の禁軍左将軍の名をつぶやく。

「そう言えば私は……」

 昨日の夕方、自分が禁門でしたことを思い出した。そして、禅譲を決意して蓬山に行くつもりだった。 そこには行けないことがわかって、班渠を景麒の元へ送って、この洞で一人になって、そうして……

 陽子は、自分の前で伏礼している男をもう一度見た。

 そこで、初めて陽子は顔を赤くした。

 そうだった。私は昨夜初めて男を、「野合」という物を知ったのだ。



「禅譲」するだなんて、それこそ、自分は立派な王だとうぬぼれていたのではないか。 陽子はそう思った。常世には、私の知らない肝心なことが、きっとまだまだあるに違いない。 そんなこともわからなかったから、なにもかも嫌になってしまったんだ。

 陽子は、そんな風に思った。

 何より、こんな素晴らしい感覚や、こんな満ち足りた関係があったなんて、自分は知らなかったと思った。



「浩瀚?」

「主上、私に相応の罰をお与え下さい」

「え? 何の罪だ??」

 伏礼はそのためだったのか? 陽子は思った。



 浩瀚は、陽子が思っていることを陽子が思った以上に構築して実行する男だった。初勅で伏礼を廃した意味を、他の誰よりもよくわかっていた。

 だが、その浩瀚は、このとき、陽子が禅譲するものと思いこんでいた。

 陽子のいない慶で、自分はどうやって生きてゆくか、不安が高じて思案が行き届かなかった。

 それが、陽子と一つになったことで、静かな幸いが浩瀚にも訪れていたのだ。

 自分も主上と共に生を終わらせたい。しかし、このままでは主上はお許しにならないだろう。 昨夜、使令殿がいないのを知っていて、玉体を辱めたと、そうすればその罪で、静かに裁きを受けることができる。

 浩瀚は、簡単にそう考えた。



「恐れ多くも、玉体に手をかけてしまいました」

「あれは、野合だったんだね?」

 浩瀚の告白に答えることをせず、陽子は、取りようによってはかなりちぐはぐな事を言い出した。

 しかしながら、恥ずかしそうな声色の中に、生き生きとした響きが混じっていることに気づき、浩瀚は、伏せていた顔を上げる。

 くくった髪は幾分乱れていたが、その長い髪の先は赤く波打って背に掛かり、頬を染めながらも、緑の瞳は好奇心にあふれ輝いていた。



 浩瀚の大好きな少女が、一番愛らしい顔をしてそこに座っていた。



「はい、申し訳ございません」

「ん? ああ、そうか。禅譲すると言った人間が、のんきに野合なんかしていたら、ふざけていると思われるかもしれないな」

 くすくすと陽子は笑う。



「禅譲は、もうやめた!」

 浩瀚は、びっくりして目を見開いた。

 大声で、「いや、しかし……」と言おうとして、やめた。

 禅譲しないというなら、こんな喜ばしいことはないではないか。

 あわてて思い直したのだ。



 ただ、浩瀚としては、もう自分の人生はこれで終わりだと思ったから、陽子と体を合わせたのだった。 禅譲するというなら、それはもう王ではない、唯の少女なのだから。だから己が愛しても良いと。

 なんと自分に都合の良い解釈だったことか。



「浩瀚?」

「はい」

「私は、慶国の法にはまだそれほど詳しくないので、国王と冢宰が野合をすると、どちらがどのような罪に問われるのか、また、両方なのか、よく知らない。 だから、お前に今罰を与えることはできないよ。金波宮に帰ったらその筋に詳しい秋官にでも尋ねないと」

「いえ、これは罪に問うというよりは……」

「うん、それはわかっているつもり。ほめられたことではないと思うよ。 でも、私は何か、浩瀚とこうなったことで、今少し、この世の中の何かがつかめそうな気がするんだ。 禅譲なんかしている場合じゃないんだ。そんな気がするんだよ」

 すごく良かったなどと、恥ずかしくて簡単には言えない。

 陽子は、陽子なりに、昨夜の出来事をすばらしかったと浩瀚に伝えたかった。

 顔を赤くしながらも必死で、前にいる罪を与えよと言う男に訴えた。

 男の方は、陽子が禅譲すると共に、自分も陽子の体に手をかけた罪で死ぬことができるとそう思いこんでしまっていたから、うまく思考がまわらない。

「しかし……」

 浩瀚がそう言ったとき、どこか、穴の外で、「ブヒン、ブルルル、ブシュ」というような音が聞こえてきた。

 動物の声のような気がする。



 二人は耳をすました。

 ブルン、という鼻息のような音が、穴の下の方から聞こえてくる。

 陽子は、浩瀚の方に体を向けると、

「ひょっとして、いや、しなくても、浩瀚は、ここまでどうやってきたんだ?」

 そう問いかけた。

 こんな時、いやこんな時だからこそ、陽子の頭はするする回転し始めた。



「はい、吉量に乗って参りました」

「うそだろう? うちの空行師に空中で止まれる吉量がいたか?」

 主上はそう言ったことにはなぜか非常にお詳しい。浩瀚は、そう感心しながらも、彼女に答えた。

「いえ、主上のおっしゃるとおりです。空中で止まることのできる吉量は、今の慶にはおりません」

「では、見つけることができても、ここには入れないはずなんだが?」

 小首をかしげる少女は、いつもの陽子だった。

「いえ、ですからこの入り口近くで、こちらの洞に飛び込んだのです」

「そんなことができるのか?」

 陽子は、感心して両腕を胸の前で組むと、浩瀚の顔を見た。昨夜のことを思いだし、また、顔が赤くなる。あわてて、視線を下に落とした。

「はい、うまくいきましたので、良うございました」

 浩瀚は、にっこり微笑みながら、何事もなかったような日常が、また戻ってきた事を確認した。

「まったくだ。しかし、よく吉量が我慢していたな。この穴に飛び込むなんて、普通の乗り方をしていたら、絶対無理だろう?」

「はい、いえ、それほどのことは」

 主上のためならば、何でもいたしますとは、この場では言わなかった。

「で、その吉量はどうしたんだ?」

「そのまま、騎獣舎に帰ったのではないかと思われます」



 ブルン。



 また、妙な鼻息が穴の外から聞こえてくる。

 二人は、話をやめて顔を見合わすと、穴の入り口まで移動して、落ちないように気をつけながら、崖の下をのぞき込んだ。



 この穴の周りには、まっ白で乾いた蔓が全面にはびこっていた。

 枯れてしまっていたので、はびこった跡、と言ってもいいだろう。

 上にも、下にもそこから見える崖を埋めるかのように、もとは突抜忍冬であったと思われる植物が枯れた跡の蔓で覆われていた。

 その直下、落差が四丈ほどか? 少し突き出た、棚状の岩があったのだ。

 そこも白い蔓で覆われていたので、棚があることはちょっと見ただけではわからないだろうと思われるところだった。

 そこに、浩瀚が乗ってきたと思われる吉量が、引っかかっていたのだ。

 怪我をしているのか、そこから動けない。

 頭が少し動いているのが見える。



 まさか?!

 浩瀚が、自分の口に片手を当てた。

「どうした?」

「はい、ひょっとしたら、自分が乗ってきた吉量は、私をこの中に飛び込ませるために、自らを犠牲にして、崖にぶつかったのかもしれません」

「え?!」

 陽子はびっくりして声をあげた。

 二人は、また、顔を見合わせる。

「そうだ!」

 陽子は、穴の奥に戻り、水禺刀を確認する。

「あった!」

 うれしそうな声をあげた。



 慶国の麒麟である景麒は、陽子が水禺刀を持っているときにはいつも、碧双珠を一緒にしておくように勧めていた。 この二つがあれば、大概のことは陽子なら切り抜けられると、景麒は考えていたからだ。

 実際には、この二つが同時に必要なことは、あの登極前の時期を除いては、幸いにして起こってはいない。

 そんなわけで、今回も、水禺刀には碧双珠がくくりつけられていたのだ。

「浩瀚、きっとあの吉量は怪我をしている。様子を見に行きたい。そこで待っていてくれ」

「主上! こんなあぶない崖に貴方を下ろすわけには参りません。私が行きましょう」

「何言っているんだ、浩瀚。碧双珠は私でないと使えないよ」

に、と笑うと、陽子はもう穴の外に出て行こうとしている。

「……」

 本当に、いつもの主上が帰っていらした。

 浩瀚は、うれしくてたまらなかった。

「わかりました。お止めしませんので、お気をつけて」

「うん、そこで待っていて!」



 陽子は、いつの間にか水禺刀から碧双珠を外していたようだ。

 その小袋の端を口にくわえ、彼女は切り立った崖を少しずつ降りて行った。

 よく見ると、切り立ってはいるが足場になるような出っ張りがある。 また、突抜忍冬の枯れた蔓が、軽い支えになってくれた。陽子の体重を全部支えるような、丈夫な蔓ではないが、彼女が崖を降りるには随分と役に立ったのだ。

 少し突き出た棚のうえで、突抜忍冬の蔓に絡まり、一頭の吉量が倒れていた。

 首に沿って酷いひっかき傷があり、左肩から出血していたが、どうやら命に別状は無さそうだ。

 この大量の枯れた蔓が、衝撃を和らげたのかもしれない。

 陽子はそっと、しかし気持ちを込めて、吉量の傷に碧双珠を押し当てた。みるみるうちに、かき傷は治っていく。

 やがて出血も止まり、一声いななくと、その場にしっかりと立ち上がった。



「私を乗せられるか?」

 陽子には吉量が頷いたように見えた。

 このちいさな岩棚は、陽子と吉量がゆったり立っていられるほど、広くはなかった。陽子は吉量に跨ると、上に向かって叫んだ。

「おおい、浩瀚! 聞こえるか?」

「はい、良く聞こえます」

「吉量は大丈夫だ! お前も降りてこい。帰ろう、金波宮に!」

「かしこまりました!」

 浩瀚が、崖を伝って降りてくる。枯れた蔓が、ぱらぱらと陽子の頭に降りかかる。そんな、何でもないことが、陽子はとてもうれしかった。

第十六節

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