注意書き
この節には恋愛表現がございます。お嫌いな方はお気をつけてお読みください。
陽子の頭は、混乱していた。
口づけは確かに初めてではなかった。
そう、確かこの前、やはり浩瀚と。
雨の降る中。そうだ、この人は「村時雨」という通り雨だって言っていた。
陽子は、思い出していた。
あの時は、私が、「してもいいのかな?」って。
「してほしいな」って思っていた。
これまでも、陽子は、浩瀚との関係を自分なりに考えていた。王と臣下、生徒と師、そして女と男。
「王と臣下」の関係は、今だに不十分な所もあるとはいえ、だいぶ慣れた。浩瀚以外の人間も、立場としては皆臣下なのだから。
「生徒と師」の関係は一番良好だ。陽子は浩瀚の話すことや常世の理について、遠甫同様、良く吸収していった。
「女と男」の関係だけが未知数だった。年齢の多い友人がそばにいても、このての話の情報交換は十分にできているとは言えなかった。
景王の私的な時間は、このころはまだそれほど無かったのだ。
いや、陽子はそれほど、政務に忠実だったと言うことだろう。
そして、そんな事情は男の方、浩瀚も同じだった。陽子よりももっと、執務に専念していたのだろう。
お互いが、お互いに思い合っていたから、かえってすれ違ってしまったのかもしれない。
男女の仲は、触れ合うことで、深まりゆく場合もあるのだけれど、そういったことを二人で確認したり、誰かに相談したりはしていなかった。
陽子は、それがよくわからずに、空しい感覚だけを引きずっていたのではないのか?
ほんの些細な心のほころびが、王としての足場を崩していた。
心にぽっかりと空いた穴が、何もかもやめて禅譲しようという言葉に繋がったのだろうか?
浩瀚は、陽子の口を自分の唇でふさいだ後、それを離し、頬を合わせ、静かに陽子の首筋に沿って、自分の顔を埋めていた。
片手は陽子の頭の後ろにそのまま置き、彼女の頭部が岩壁に当たらないようにしていた。
もう片方の手は、陽子の腰に当て、自分に引き寄せ、覆い被さるように、体を合わせていた。
「浩瀚、私は……」
かすれた声で、何かを訴えようとした陽子の耳元に、浩瀚は、
「もう、よろしいのです」
そう、言った。
冷たかった陽子の体は、本来の体温を取り戻してきていた。
「いや、浩瀚? よろしいって?」
「何も、おっしゃらずともよろしいのです」
浩瀚は、陽子の体をかき抱くと、話すのをやめた。
強く抱きしめられた陽子は、本能的に逃れようとした。しかし、それは拒絶ではない。
今まで体験したことのない、熱い男の体に触れて、未知なる物におびえるような、でも、恐怖だけではない、期待もあるようなそんな感覚だった。
浩瀚は、初めての男にうろたえた様子を見せる陽子を改めて自分の方へ引き寄せると、岩壁から離し、柔らかい砂が敷き詰められた、洞の中央へと体ごと誘(いざな)う。
お互いの姿は、ほとんど見ることができなかった。淡い光を洞の中にしみこませるように注いでいた上弦の月も、西の彼方へ沈んだ。
星明かりでは、何も確認できない。
陽子は、緊張して、何もする事ができなかった。力ずくで拒むことは可能だったろう。しかし、陽子の心の奥底は、それをしたくなかったのだ。
浩瀚は、黙って、真っ暗な中で、陽子の体を確認していた。
禅譲されれば、二度と触れることはできないだろう、陽子の暖かくなった体に、今、自分のすべてを賭けなくてどうするのだと、自分に都合の良い理由を作り上げる。
いや、浩瀚はただ、陽子のいない常世を想像したくなかっただけなのかもしれない。
陽子のいない慶で、自分が冢宰として政務を執るなど、この時点では考えられなかったのだ。
陽子と共に、自分の一生はあると、そんな風にも思えた。
抑えきれない自分の欲望を、ただ満足させるためだけではないのかと、今のこうした自分の行為を責めるようにささやく声は、
自分の「良心」というよりはむしろ、「悪魔の声」のような気がした。
どこかで何かが流れ出した。
これが自然の理だと、そう二人は感じた。
浩瀚は、陽子を愛していた。
陽子は、初めて浩瀚に触れられ、自分がどのようになるのかを確認していた。
やめて欲しいと大きな声で叫びたくなるほど、自分がおかしくなってしまうような、激しい感覚に襲われた。
しかし、声にはならず、息づかいだけが洞の中にこだました。
そして、しっかりと二人が結ばれたとき、陽子の意識は遠のいた。
ちょうどこの時、仁重殿では、景麒がその無表情だった顔をほころばせていた。
「ああ、王気が戻られた。明るい、いつもの、いやそれ以上の輝かしい王気だ」
満足そうに微笑むと、慶国の麒麟は、安心して眠りに落ちていった。
陽子は、遠のいていく意識の中で浩瀚の方に向かって、思うことを言葉に乗せようとした。
浩瀚、これが「野合」なのか?
陽子は、声に出して尋ねることができなかった。
自分は、今まで何をやっていたんだろうと、かすかに残る意識の中で思った。
何も知らなかったのではないのか?
世界中の、ほんの少ししか知らずに、事もあろうに、一国の王などと呼ばれ、慶を納めていたつもりになっていた。
この突き抜けるような感覚は何?
みんな、男と女は、みんなこんなことをしているの?
愛し合うって、こういう事?
陽子は体中がぐったりした。
駆け抜けた感覚。電撃のような、それでいて酷く甘い……
これが、快感というもの?
そんな風に感じながら、男の腕の中で、意識を飛ばした。
男の方は、黙って、愛した少女を自分の腕から外し、そっと寝かせる。
ふう
真っ暗な中で、ため息を一つ、つくと、浩瀚は、手探りで自分の衣服を改めた。
夢中で愛していた少女の衣服も、そっと元のように合わせると、その幾分汗ばんだ額に唇を落とし、傍らで彼女を守るようにして、もう一度横になると、目をつむった。
もう、浩瀚は、先のことはどうでも良くなっていた。
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