第十三節




注意書き

この節は、作者としてはたいしたことはないと思っておりますが恋愛表現がございます。

お嫌いな方は、十分ご注意ください。







 浩瀚は、かつてこんな気持ちにはなったことがないと思った。それほど高揚していた。

 主上がそこにいらっしゃる。見つけることができた。

そう思ったからだ。



 しかし、浩瀚は声をかけることができなかった。

 陽子があまりに小さく見えたのだ。

 浩瀚は、景麒の言ったことを思い出す。

 王気は揺らいでいる、のだった。



 もし、主上が禅譲なさると言い出して、それが朝議で通ったら?



 慶は、未だに主上のお力を信じない者もいる。

 国を動かすのは、そう容易なことではない。一方が良ければ他方はうまくいかないこともある。 うまくいかない事柄ばかりを集めて、それが主上の責任だと訴えれば、それをすべて否定するわけにはいかない。

 今の主上は、良きにつけ悪しきにつけ、ご自分の至らない部分には敏感なお方だ。

 もし、このまま禅譲されたら、私は。



「浩瀚……?」

 陽子の声は震えていた。

 本当は誰よりも会いたかったはずなのに、今は近くに寄りたくない。陽子はそう思っていた。

 浩瀚に、いきなり諫められるのではないかと身構えていたところもある。



   浩瀚は勢いよくこの横穴に飛び込んで来たので、受け身をとったとはいえ、しばらく動けなかったのだ。

 陽子は、おそらくそれを心配して、思わず声をかけたのだろう。

 そんな、陽子の声に支えられて、浩瀚は、ぐずぐずとどうするのか考えることをやめた。

 地面について体を支えていた自分の手を、陽子の方へほんの少し伸ばした。



 しかし、陽子の方は、浩瀚がどこも怪我をした様子が無く、そのまま自分のそばに近づこうとているのを見て、

「来るな!」

と、叫んだのだ。



 浩瀚は、その場からぴくりとも動けなくなってしまった。

 真っ暗な中に、上弦の月がわずかな光を注ぎ込む。

 陽子の瞳が緑にきらりと輝く。月を背にしている浩瀚の表情は、陽子の所からはよく見えなかった。



「主上?」

「うるさい! 寄るな! 私は禅譲する。もう決めた」



 しばらく、二人は沈黙する。



 やがて、浩瀚は、一度近づくのをやめた自分の手を、もう一度陽子の方へ一歩分近づけた。

「やめろ、来るな」

 否定する言葉は、段々小さな声になる。

 今度は、浩瀚は、反対の手を伸ばした。一歩一歩、歩いて近づくように、体は起こさず、四つ這いのままで、陽子の方へ近づく。

 陽子は、自分の手足をぎゅっと縮めて後ろの岩壁に背中を押し当てた。両手は自分の肩を抱きかかえ、両足は膝から折り曲げて、その膝を胸にぴったりとつけていた。

 本当に小さくなっていたのだ。

 その顔ばかりが、浩瀚の方を向き、じっと見つめていたようだ。なにしろ、真っ暗で、明かりと言えば、穴の入り口からわずかに入ってくる、上弦の月の光だけ。

 浩瀚は、どうやら、陽子の足下まで近づくことができたと感じた。

 その指が、陽子の履いている簡素な靴に触れる。

「やめろ……」

 陽子の弱々しい声がした。

「私は、帰らない」

 そうも、言った。

 そのうち陽子は、自分の足に浩瀚の指先以外のものが触れるのを感じて、体を震わせた。

「何をしている!」

 いくらか怒気を含んだ、この洞の中で聞いた声では一番はっきりとした声だった。

 浩瀚は、その声を聞いて少しばかりほっとした。

「今、改めて永久(とわ)の誓いを主上の足下に」

 浩瀚が静かに、しかしはっきりと伝えたので、陽子は浩瀚が自分の靴先にその額をつけたのだと理解した。

 まるで、麒麟の誓約のように。



「浩瀚、私は禅譲する。申しわけない。だから、もう、そんな忠義はいらない」

 寂しそうな声だったが、興奮しているわけでは無さそうだ。

 浩瀚は、その額を上げ、陽子の前に片膝を付いて座り直した。

「しゅ……」

「もう何も言うな」

「……」



 浩瀚は、はっきり見えるわけではなかった陽子の姿を、頭の中に自分で描き出しながら、その影を見ていた。声だけが聞こえる。静かな洞だった。



―― 言わなければよいのか?



 浩瀚は、開き直った。

 何か、張り詰めていた心の糸が切れたようだった。

 跪礼を解き、さらに衣が触れるほど近づくと、浩瀚は、陽子の腕を取り、彼としてはかなり乱暴に陽子の体をひきよせた。

 陽子は逃れようともがいたが、背中には岩壁があり、うまく移動できない。

 陽子が彼を避けるよりも早く、浩瀚は、陽子の脇から利き腕を差し入れ、引き寄せる。

 丸くなっていた陽子の体は、自然に浩瀚の体に沿う形になった。

 すかさず、浩瀚は、もう片方の手を陽子の頭の後ろに回して、安全を確保すると共に、自分の胸に少女の頭をおさめた。

 陽子は浩瀚に抱きしめられたのだ。

 陽子の方こそ、びっくりして声も出なかった。

 彼の方から陽子を引き寄せ抱きしめたのは、これが初めてだったような気がした。

 陽子はうれしくて溶けてしまいそうになった。

 禅譲すると言った事も忘れかけた。



 一方、浩瀚の方は、陽子の体があまりに冷たくなっているのに、気がついた。やはり、とも思った。

 心も体も冷たくなってしまわれたのだ。

 この方はいつも、心配事があったり、悩んでいらっしゃるときは、こうして冷たくなってしまわれるようだ。

 そんな風に思っていると、浩瀚の胸の中で陽子が身じろぐ。

 これは、息がお苦しいのか? 少し抱いている腕をゆるめると、ほっとしたように、少女の体から、緊張が抜けた。



   男は自然に少女と頬を合わせた。やはり冷たい。瞳のある辺りが、濡れているような気がした。

 涙を流されたのか?

 愛おしさが、すべての感情の先に立つ。

 そのまま、男の唇が少女のそれを覆った。

 

第十四節

浩陽三部作ページに戻る