第十節




「冢宰、左将軍の具合は如何ですか?」

 しんと静まりかえってしまった仁重殿の寝所で、最初に口を開いたのはやはりこの屋敷の主人、麒麟の景麒であった。

 景麒は、主上の水禺刀によって利き腕を切られた桓たいの心配をしていた。

「はい、今現在は太師や王宮専属の医師が付いております。幸い太師の判断が良く、神経も繋がったようでございます。 医師の手によって、手首も縫いつけられ、固定されているので、左将軍の回復力を持ってすれば、数日後には元に戻るのではないかと、医師が申しておりました」

「そうでしたか。それは良かった」

 それなら主上が気に病むことはない。左将軍は仙であるから、回復も早かろう。

 景麒はそう思った。



「台輔、主上がもし真剣に禅譲なさるとおっしゃったら、私たちにできることはあるのでしょうか?」

「冢宰、それを私にお尋ねになるか……」

「失礼いたしました」

「いえ、良いのです。予王はもうこの世にはいないのだから。今、私の主上はあの方一人だけです」

 浩瀚は、半身としての麒麟の胸の内が、果たしてどのような物なのかを想像する事は難しかった。 しかし、自分の心には主従関係だけでない感情がふつふつとわいてくるのを感じていた。

「お諫めはいたしますが、主上の願いが本当に禅譲であったなら、私は従わざるをえないでしょう。 冢宰、もしそうなったら当面の慶国のことを貴方にお願いすることになる」

「いえ、私は……」

「任は重いですが、貴方の役職からすると、それはしかたのないことです」

「しかし、台輔。私は主上がいなくなった慶国など想像することができません」

「冢宰、私も同じです。しかし、そこは『仕事は仕事』として、割り切らなくてはならないでしょう。 失礼ながら浩瀚殿は、そう言うことはお得意なのではないかと思っていましたが」

「確かに、冢宰の仕事でございます」

 悪気のない麒麟の言葉は、浩瀚の胸にくさびを打った。



 私は、主上と共にこの世の生を終わらせることはできないのか?

 主上のいない中で、慶国の法、富、兵、すべてを民のために取り仕切るのか? それを私が……、私が頂点に立ってやるのか……。



 景麒は大きくあえぎながらも、話を続けていた。

「しかし、主上が心配です。まだ王気が揺らいでいる。今夜お一人にしない方が良いのだが、班渠?」

「御前に」

「そこは、主上がいらっしゃる横穴は、誰にでもすぐにわかる場所ですか?」

「いいえ、台輔。このように日が暮れて真っ暗では、なかなかみつけることはできないかと。 また、垂直に切り立った崖に空いている穴なので、台輔のなさるように空中で止まっていることのできるような、 騎獣であるとすればそのような能力の者でないと、中にはいることは難しいかと……」

 班渠はそう話ながら、苦しそうに息をする。その様子を見て、景麒は、こんな様子では班渠を行かせるわけにはいかないと考えた。 いや、使令たちは皆無理だ。自分の血の病に影響されている。

「誰か、その場所がわかるものはいないのか? 冢宰はご存じですか?」

「いいえ、残念ながら私は存じ上げません」

「そうですか」

 景麒は一つため息をつく。話疲れたのか、しばらくの間じっと目をつむっていた。浩瀚は、次に自分は何をするべきか迷っていた。



 ふっと景麒が目を開け、班渠を呼んだ。

「班渠、主上がいらっしゃる場所を、誰かお前以外のもので知っている者はいないのか?」

 景麒に尋ねられて、班渠は少しの間思案しているようだった。

「そういえば、今主上がいらっしゃる横穴は、十年ほど前、主上が左将軍とお二人で、麦州の棚田をご見聞なさったおりに、みつけられた洞(うろ)でございました」

 景麒と浩瀚は、ああ、あの時、と班渠の話を聞いて思い出していた。



 あの頃の主上は、まだご自分で政務をおとりになることは少なかったが、闊達で明るく、お元気であった。

 台輔と、この私にも、赤いすいかずらの花、あれは確か突抜忍冬という花だったが、土産だ、などとおっしゃって、下賜されたのだ。

 あの頃の主上は、天真爛漫な幼子のような所もあったように思われるが……

 今の主上は、悩みを抱えていらっしゃる。



 浩瀚は、その原因が自分ではないかと先ほどからずっと思い詰めていた。 まるでその思いが、心に突き刺さったとげのように深く重く、心のひだを割ってその中心を浸していくのを感じていたのだ。



「台輔……」

「冢宰、王気はまだ揺らいでいます。どうか、主上を……」

 景麒は、そう言いかけてはっとした、浩瀚のほうもなんだか様子がおかしいような気がしたからだ。





 浩瀚は、昨年秋のことを含めて、主上に対する自分の思いについては、この麒麟にすべてを話さなくてはと思っていた。

 しかし、ずっと言えないままだった。

 それが、こんな事態を引き起こしてしまったというなら、すべては私の、冢宰としての責任だ、と思った。



 主上がこの慶国の王だと言うことが、何か幻のような気がしてきたのだ。

 もちろん、国主の相方であるべき麒麟が、何かあったときには王の傍らに立つべきだろう。 しかし、今回のように、その台輔が床に伏せっているならば、まわりの臣が王を連れ戻すべきなのだ。

 今の班渠殿の話からすれば、桓たいが行くのが最適だろう。桓たいならその禁門から下った崖の途中にあるという横穴、洞(うろ)の場所を覚えているだろうから。

 しかし、桓たいも今、床に伏せっている。あの腕では、今夜騎獣に乗るのは無理だろう。 虎嘯は確か、まだ騎獣には乗った経験がないはずだ。祥瓊は? しかし、彼女は桓たいの怪我に付き添っている。 主上に対して複雑な思いを持っていなければよいが。



 やはり、私が行くべきなのか?

 行って主上をお諫めして、連れ戻し……? どうするのだ?

 たとえば、堂々と禅譲すると言われて、蓬山へ雲海の上からお渡りになってしまったら?

 しかし、「禅譲したい」というお心が、もし主上の本当のお望みだったとしたら、いったい誰が止められるのだろう?

 主上のいない慶国。

 私はきっと耐えられない。

 私は、私は……





 浩瀚は、自分の思考にはまりこんでいたことに気がついた。

 しかし、その中から出なくてはならないとは思っていなかったのだ。

 浩瀚は、主上が禅譲した後のことなど、考えるのはやめていた。考えても仕方ない。自分には無理だ。そう思った。

 もうそのときは、浩瀚は、仁重殿を辞して兵舎に向かっていた。





 空行師の騎獣舎に着くと、彼は下官に命じていつもの吉量を連れてこさせた。

「お気をつけてくだせぇ。こいつは仲間内でも夜目の利く方だが、夜中の空は危険です。くれぐれも、無茶しないようにお願いしやす」

「ああ、承知した」

 いつも明晰な冢宰が、今日はぼうっとしていると、騎獣担当の兵は心配したが、主上をお探しするという目的なら、お任せしようと手綱を渡す。

 もちろん、あんな事件があったことは伏せてある。主上がいつものようにどこかに出かけられたのだと、この兵は思っていた。

 吉量を受け取り、浩瀚は、兵をねぎらうと、禁門へ向かった。

 足取りは、大変重かったのだ。



 浩瀚は、先ほどの事件があって全員が交代してしまった顔なじみのいない禁門の兵に見送られながら、暗い空へと吉量を翔させた。

 

第十一節

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