第九節




 浩瀚は、仁重殿までの回廊を急いでいた。

 長年官吏生活をしてきた浩瀚は、穏やかな表情を作る事が生活に一部になっていたので、 主上がいないという重大な事件を隠していても、そんなことを他の官吏に気取られるようなことは無かった。

 しかし、その実、浩瀚は陽子が図らずも口から出した「禅譲」という言葉に過度に反応していた。

 陽子が発した不穏な言葉に心を揺さぶられたのは、桓たいだけではなかったのだ。



 浩瀚には、今の慶国がそれほど問題を抱えているとは思えなかった。

 もちろん、豊かとはいえない現状がある。

 しかし、米は毎年良く実り、少なくても、真面目に働いているものは、食べることに困らなくなっている。

 国庫も、主上の理想である「タイシカン」のような制度を作るほどの余裕はないが、 登極当時のように、禁軍に払う給料が無かったり、氾濫する川の整備をする予算と都市部を整備する予算の両方が取れないと言ったことはなくなった。

 それに、不正をはたらく官吏はまだまだはびこっていたが、以前のような悪質なものは次第にいなくなってきている。

 他国との関係も緩やかに続いている。

 そんな中で、主上が為政者としてこの国の頂点に立つことに苦痛を覚えるとしたら……

 浩瀚は、その原因が自分ではないかと自問自答していた。

 彼は自分の心を振り返りながら、回廊を渡っていたのだ。



   昨年秋、降りしきる雨の音を聞きながら、私は主上と口づけをかわした。

 そのときの、「ごめんね」という主上の言葉が忘れられない。

 私は単純に、ほめられた関係ではないから、と言う意味の謝罪だと思っていた。

 だから、自然に距離を置くようにしたつもりだった。



 主上も一人の女性であるから、男に興味を持たれて当然だ。

 その初めての相手が私だというなら、こんなに光栄なことはない。それはそれでよいと思った。 かえって主上を守りやすいなどと、不遜にもそんな風に思ったのだ。

 私を慕って下さるならそれも良い。

 政務に支障が出るようなら、お諫めすればよい。

 長きにわたって同じ男を求めるなど、考えにくい。

 いつかは飽きられるときが来よう。

 いや、それほど長く国主として君臨していただきたいのだ。

 私が側にいられるかどうかなどと言うことは、どうでも良いことだ。

 主上が私のことを疎ましく思われるなら、それでも良い。

 それでも良いのだと……





「主上は、何をお悩みなのか?」

 自然に口をついて出た自分の言葉に、浩瀚は、はっとさせられる。

 主上をあきらめることができるのだろうか? この私に。

 私はそんなに諦めの良い男だったのだろうか? 

 もし、飽きられ、疎まれ、冢宰の任も解かれ、主上からずっと離れたところで生きていかなければならなかったとして、それでも私は、穏やかなふりができるだろうか? 

 ふりだって? 

 そう言う表現をした事がすでに、そんなことをするのは無理だと告白しているようなものだ。





   陽子と浩瀚は、ほんの少し唇を合わせただけの、ただそれだけの関係で、特に恋人同士思い合っている二人によくある艶っぽい話をしたことなど無かった。

 もともと、そんな深い関係ではないのに、思い合っていることが前提のように、浩瀚は考えていた。 だからこそ、浩瀚は、自分の頭の中の記憶が塗り替えられるように、不安定な近未来を夢想していた。



 やっと仁重殿まで来ると、浩瀚は、下官に取り次ぎを願った。

 下官によれば、台輔は先ほど意識を取り戻したとのこと。 動くことは難しいだろうが、お話しをされる程度であれば大丈夫だろうと医師が言っていたとのこと。 浩瀚は、案内されながら知ることができた。

 中にはいり奥まで通されると、景麒は寝台の上で横になっていた体を起こそうとしていた。

「冢宰、主上は?」

「ああ、台輔。どうかお楽に。主上はまだ戻っていらっしゃいません」

「そうですか」

 青白い顔の景麒は、その肩をまた寝台に沈ませる。

「台輔、お加減はいかがですか?」

「ええ、だいぶ楽になりました。恨みのある血というわけではなかったので、それほど酷くはないようです」

「それは、不幸中の幸いでした」

「主上が、心配です」

「台輔、そのことでお願いがあって参りました」

「冢宰、わかっています。主上のいらっしゃる場所の見当でしょう?」

「はい、お恥ずかしいことです」

 景麒は具合の悪そうな顔にいくらか微笑みを浮かべた。

「そんなことはありません、冢宰。主上はまだ遠くには行っていらっしゃいません。すぐ近くにいらっしゃる。ただ……」

「ただ?」

「王気が揺らいでいるのです」

 浩瀚は、自分の感情を殺して問いかけてみる、

「それは、何か大変な事が起こるような、そのような揺らぎでしょうか?」

 浩瀚は、「禅譲」という陽子の言葉が気になっていた。

 景麒は黙った。静かに目を閉じる。王気を確認しているようだ。

と、突然目を見開いた。

「台輔?」

「いえ、大丈夫です。主上に付いていた班渠が戻りました。班渠に尋ねた方がはっきりします。班渠?」

「御前に」

 大きな犬型の妖魔が現れたが、なんだか弱っているようだ。

「班渠、主上の元を離れたのですか?」

 景麒の顔色はさらに悪くなった。

「是」

 幾分苦しそうな答えだった。

「良い、話しなさい。主上の様子、主上がお前に話したこと。話せるだけ、話してみなさい」

 景麒に問われ、班渠は

「是」

と短く答えると、大きく息を吐いた。

「主上は、台輔が心配だから台輔に付くようにとおっしゃいました」

「それは!?」

 弱いが、はっきり動揺している様子がわかる、景麒はそんな声をあげた。

「台輔、どうなさいました?」

 浩瀚が心配して声をかけると、景麒は

「いえ、冢宰。たいしたことではありませんが、使令というものは、私たち麒麟の気にその力が左右されるのです」

「ということは、台輔が病に倒れられれば……」

「使令も病に倒れます。麒麟ほど酷くはないようですが、その持てる力は発揮することができなくなります」

「それを主上はご存じなのでしょうか?」

「いえ、たぶんご存じではないのでしょう。 もう十年以上も前、主上を蓬莱からお連れしたときに、当時の巧国の王に奸計を掛けられ、私に付いた使令はすべて封じられてしまったのです。 しかし、そのとき主上につけた冗祐だけは、私の力が封じられた後も、主上のお役に立ったようでした」

 そこまで一気に話すと、景麒は大きく肩を上下させていた。

「台輔、お苦しいようであれば……」

「いえ、冢宰。良いのです。ですから、此度も主上に付いてさえいれば、班渠は主上のお役に立てたのに。 主上の命では仕方ないですが、私に付けば、私の状態に左右されてしまう。王をお守りするという使令の役目を果たすことができなくなります」

「よく、わかりました。それで、班渠殿は主上のいらっしゃるところをご存じなのでしょうか?」

「班渠?」

「はい」

 大きな使令は、その頭を床から覗かせる。

「私の問いに答えることはできますか?」

「是」

「では、今主上がどこにいらっしゃるか、教えなさい」

「主上は、禁門から少し崖を降りた横穴にいらっしゃいます」

「崖の途中にある横穴にいらっしゃるのですね」

「是」

「何かおっしゃいましたか?」

「禅譲したいと」

 その言葉を聞いて、景麒と浩瀚は、くらい表情をしてお互いに顔を見あわせ不安そうに頷いた。

「それで、他には?」

「蓬山に連れて行って欲しいとおっしゃいました」

「うむ、それから?」

「雲海の下なので、すぐには行けないと」

「ああ、本当ですね。それで、説明したら、主上は?」

「途方に暮れておいででした」

 そこまで、班渠の話を聞いて、その場にいた二人はとりあえずほっと胸をなでおろす。淡い明かりがともる景麒の部屋は、その後、物音一つする気配が無くなった。

第十節

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