それから、一刻ほど時が経っていたが、陽子は依然として帰って来なかった。
いつもならそれほど心配はしない。
陽子は、誰にも何も告げずにふらりとどこかに行く事が、今までも何度かあったからだ。
しかし、今回は寄りによって桓たいの腕を切っている。しかも、『禅譲』などという不穏な言葉を口から発していた。
浩瀚は気が気ではなかった。
自分の責任もあるような気がしていたからだ。
いや、そんなことよりも、本当に主上が禅譲してしまったら、自分はどうすればいいのかわからなかった。
愛おしいというよりはむしろ、狂おしい気持ちがこみ上げる。
振り切るように、桓たいが一時休んでいる正寝の執務室へ足を運んだ。
浩瀚は、陽子がいなくても緊急の案件には目を通し、冢宰としての権を使って、執行しなくてはならない。
たとえ、浩瀚の心の中に大きな位置を占めている少女が不穏なことを言って姿をくらましていたとしてもだ。
政務は、止まることはない。
待ってもくれない。
慶は、生きて発展している途中だから。
大きな事件の後も、浩瀚は、主上出奔の事実を伏せた後、普段どおりの顔をして、ほとんどの官吏が帰った後の冢宰府で、緊急な案件だけは、けりをつけてきた。
そのあと、正寝にある小さな部屋で、祥瓊の看護を受けながら、医者に治療を施されている桓たいを訪ねたのだ。
桓たいは、意識を取り戻していた。
まだ、戸板に乗ったままだったが、祥瓊が柔らかな夜具を探してきて、うまく板の上に床を作ったので、それほど窮屈では無さそうだった。
金波宮付きの医師は、
「太師の処置が大変良かった。どうやら神経も繋がっているようでございます。左将軍殿?利き手の感覚がございますか?」
冢宰が傍らにいることを十分に意識して、医師は桓たいに問うていた。
「ああ、酷く熱いな。まだ、動かせるような気はしないが」
うなされるような、苦しそうな声だったが、桓たいはしっかりと医師に答えていた。
「よろしゅうございます。熱を持つのは体が元に戻ろうとしている証拠でございます。祥瓊殿? とおっしゃいましたか」
「は、はい」
祥瓊はずっと桓たいに付き添っていた。
「引き続き左将軍に付いていただけますか? 今夜が峠になるでしょう。
おそらく、大丈夫とは思いますが、縫っておきましたので動かさないように。
水分を求められるようでしたら、少し塩か茶葉を入れて充分差し上げてください。
私は回復に役立つ薬を調合して参りますので、それまでよろしくお願いいたします」
「はい。かしこまりました」
医者は、誰に切られたのかは問わずに、そう祥瓊に告げると、退出していった。
「主上が、見つからないのだ」
そう二人に声をかけると、浩瀚は、桓たいの寝ている側にがっくりと膝をつく。
「浩瀚様……」
桓たいは、浩瀚の胸の内を察して、彼の方に向けていた視線をあえて外した。
浩瀚が暗い表情のまま、祥瓊に尋ねる。
「祥瓊、主上のことは?」
「もちろん、誰にも言ってはおりません。かんた……いえ、左将軍の腕のことも、今正寝にいらっしゃらないことも」
祥瓊は、自分の親友でもあり、仕えている主でもある陽子が、自分の思い人である桓たいの腕を切り落としたことについて、考えるのをやめていた。
考え始めると、自分の心にあった暗い泥沼にはまりそうだったからだ。
「浩瀚さま」
生気のない声で桓たいが呼ぶ。
「なんだ?」
「主上は、おひとりで出て行かれたんですか?」
桓たいの息づかいは荒い。
「あまり、しゃべるな。いや、禁門から主上お一人で外へ行くことはおそらく不可能だ。
あの切り立った崖を登るか、もしくは降りるかするには、相当の鍛錬が必要だからな。司令殿がお付きだったのだろう」
「班渠殿……ですね?」
「たぶんな。台輔が今少し回復されれば、お話を伺うことができるだろう」
「台輔はまだ?」
「ああ、お前の方が息を吹き返すのは早かったな」
「ふふ、私はこれでも軍人ですからね」
「ほう、軽口が聞けるようになったとは、良い傾向だな。祥瓊殿?」
「はい?」
口数の増えた桓たいをほっとした表情で見つめていた祥瓊は、突然話を振られて、少し驚いた。
「申し訳ないが先ほどの医師が戻ってくるまで、ここにいてくれないか?」
「もちろんでございます。私にこの任を与えてくださり感謝しております」
いつになく、礼を尽くす祥瓊の顔を、浩瀚は、改めて見た。
「主上をお願いいたします」
そう言って、祥瓊は浩瀚の目を一瞬見つめ、平伏した。
通常だったなら不敬な言い方かもしれないが、今の慶には、そんなことを気にする重臣はいない。
浩瀚は、一度きつく目をつむると、息をふっと吐き、穏やかな表情を作った。
「もちろんでございますとも」
そう言って、桓たいの方を向く。
「私はこれから仁重殿に参る」
そう言うと、浩瀚は正寝から出て行った。
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