浩瀚は、かつて自分の直属の部下であった桓たいの片手が、その得物ごと空を舞うのを見た。
なぜあんな風に思ってしまったのか、後からいくら考えてもわからなかったが、そのときは、ああ、切れ味が素晴らしい、と思ったのだ。
流石は主上、見事なお手並み。水禺刀も今の主上に出会うことができて、喜んでいることだろう。
しかし、そんな残酷な鑑賞をした浩瀚の頭の中は、やがて周りにいた人々が騒ぐ声にかき混ぜられて、我に返る。
「桓たい!」
と一声大きな声で呼んだ。
桓たいの側に駆け寄り、今度は小さいが良く通る声で、
「桓たい?」
と声をかける。傍らでは先に駆けつけた祥瓊が、震えながら
「桓たい……桓たい……」
とその名を呼び続けている。
桓たいは意識を飛ばしていた。自分の受けた傷よりも、誰に切られたかということが、彼の意識を飛ばしたのだ。
もし、これが戦場であったなら、桓たいはもちろん気絶することはなく、残った片方の手で自分の切り落とされた手を拾い、不敵な笑みを見せたかもしれない。
しかし、妙に感の鋭いところがあるこの左将軍は、自分を切った陽子の心に宿る不気味な暗闇に気づいてしまったようだ。
はじめ、桓たいは陽子が冗談で「禅譲」などと言う言葉を使う、そんな周りへの思いやりを無視した、ふざけた態度に腹を立てたはずだった。
だから、『謀反を起こす』と半ば本気で太刀を抜き諫めようとした。
しかし、その腕を切った陽子の瞳を覗いたとき、不安に揺らぐ真実を見たような気がしたのだ。
「冗談ではないのかも?」
そう思った瞬間、桓たいは、自分の心がまるで鉛のかたまりのように重くなるのを感じた。
遠甫は拾ってきた手を、桓たいの腕の方向に合わせて押しつけた。ものすごい痛みが桓たいを襲う。大声を上げ、意識を手放した。
出血は多い。気を失った方が回復は返って早いだろう。失う意識の手前、男は愛しい紺青の髪を視界に入れる。
ああ、祥瓊を泣かせてしまった。申し訳ない、というように目を伏せ虎嘯の腕の中に収まった。
浩瀚は、鈴に禁門に詰めているはずの兵と文官を呼んでくるように指示を出す。
鈴が声をかけると、彼らはすぐに向かってきた。兵は麦州の出身なのか、『青将軍!』と声をかけるものもいる。
「すぐに一番近いところから戸板を運んできてください。台輔と左将軍を運びます。
もう少し、人数をそろえたい。貴方は先に詰め所にいる下官を呼んできてください。
それから鈴、申し訳ないが医師の手配を。ああ、祥瓊。大丈夫ですか? 今は泣かないで!
貴方は桓たいの腕を縛るさらしのようなものを探してきてください。大僕殿は台輔に付いて!
桓たいは私が抱えましょう。太師、申し訳ないが祥瓊が来るまでそのままでお待ちを……」
次々と指示を出す浩瀚。あっという間に禁門は救護所に早変わりしていた。
もう、日は暮れて暗い。ほんのり山の端が赤くなっている程度だ。暗い夜の空に星が見えてきた。
「やれやれ」
虎嘯が一息入れる。祥瓊は桓たいに、鈴は台輔に付き添っていってしまった。
ばたばたとした騒動は、蓬莱時間にしてほんの五分程度だった。
後には、大僕と太師と浩瀚が残った。
三人がほとんど同時に目を見張り声を上げた。
「主上!」
浩瀚は、真っ青になった。そこに陽子の姿はなかったのだ。
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