第六節




 陽子は、桓たいの剣を持った利き手が、スローモーションのように弧を描いて地面に落ちるのをその緑色の瞳で見ていた。

 水禺刀は、久しぶりに人の血を吸って暮れゆく西日を映し、ことさら赤く光っていた。

 陽子は声を出すことを忘れた。自分でも自分がやったことが信じられなかった。

 桓たいの傷口から吹き出す赤い液体。自分の髪のよう。

 ああ、助かるのだろうか。仙は、どれだけ血液を失っても、生きているのだろうか? 

 自分も、蓬莱から流されてきた当時は、随分酷い怪我をしたものだった。

 ひどく、懐かしい……

 あ、みんな桓たいの周りに集まっている。

 大丈夫なのか?

 景麒が倒れた。

 あいつは血に弱いから。

 祥瓊、ごめん。

 貴方の思い人だったんだよね。傷つけてしまった。

 遠甫、治療法を知っているんだ。

 浩瀚、手際いいな。さすがだ。

 鈴、冷静なんだね。桓たいの介抱をしながら、祥瓊を慰めている。

 私は、大変なことをしてしまった。

 私は…… 

 あれ??



   陽子はそのとき、自分が思いの外落ち着いていることに気がついた。

 皆が桓たいの治療を優先するのは当然の優先順位だ。いつもの陽子だったら、真っ先に自分がしていただろう。でも、今日は?

 誰も、陽子のことを見ていなかった。いや、いないように見えたのだ。



 先ほど、景麒の側で冗談のように口にした「禅譲」。

 しかし、陽子の胸の中には冗談ではない部分があったのだろう。

 その部分が、まるで日没後の夕闇が空を覆うように、こころの内側から広がっていく。

 私は、いなくても慶は大丈夫……

 景麒がすぐに次の人を……



 やっぱり、禅譲しよう。



 小さな声で

「班渠?」

と呼ぶ。ささやくように。

「御前に」

 すっと姿を現す使令。慶国の麒麟は今、血に酔って倒れたが、景麒に付いているわけではないので、班渠の力が弱まったりはしていないようだ。

「私を乗せて、飛んで? そっと。桓たいの治療のじゃまをしてはいけない」

「かしこまりました」

 ふわりと、彼に跨って、陽子は静かに禁門を後にした。

 班渠は上昇せずに崖に従って少し下降する。禁門にいた人たちからは見えなくなった。

 ちょうど夕闇が濃くなって、うまい具合に影に紛れた。





「班渠?」

「はい」

「私は、禅譲したい。蓬山へ連れて行ってくれ」

 班渠はしばらく黙っていた。



「どうした? 私の命令が聞けないのか?」

 陽子の声は、か細くいつものような覇気はなかった。



「今、すぐにでございますか?」

 ややあって、班渠が尋ねてきた。

 日はすっかり沈み辺りは真っ暗になった。この場所からは月は見えない。 今日は上弦の月だったか? ここから見える空には、星がいくつか瞬いているだけだ。

 上方に淡い明かりが見える。あれが禁門だろうか?

 陽子は、

「そうだ。今すぐに、頼む」

と、声を震わせて答えた。

「それは、できません」



 陽子は、班渠の背に乗ったまま、目を見開いた。

「そんな……私の言うことが聞けないのか? 私は、不甲斐ない王だ。いや王だった。 だからこそ、禅譲したいと言っているのに。私がお前に頼み事をするのは、これが最後だ。頼む。連れて行ってくれ」

「いや、それは良いのですが……」

 班渠は、困ったような声を出した。それは、主の自殺行為をとがめ立てする、というのとはいささか異なる雰囲気の躊躇だった。



 陽子は、はっとした。

 あまりにも自分のことばかり考えて班渠の都合など頭になかったからだ。

 いや、実は使令の都合など、普通の王が命令を出すときに、考えたりはしない。歴代の王でも「使令の都合」を考えて命令を下すような王は陽子が最初で最後だろう。

 しかし、陽子はそんなことにはお構いなく、考え込んでしまった。



 本当にこの頃、どうかしている。自嘲気味に低く笑うと、陽子はもう一度班渠に尋ねた。

「何か、いけない理由があるのか?」

「はい、今からですと夏至の日に開く令坤門が一番早く黄海に入る事のできる四令門と言うことになりますが、 慶からはちょうど黄海の反対側になるため、私が飛んでもかなりの日数がかかります。 また、うまく黄海に入ることができても、蓬山までたどり着けるかどうかは行ってみないとわかりません」

「一寸待て、班渠」

「はい?」

「上から行けば早いんじゃないか? 泰麒を連れて行ったときのように」

「主上!」

「ん?」

「ここは、雲海の下でございます」

「……」



 陽子は、返す言葉がなかった。



 こんな基本的なことも忘れてしまうなんて。

 私はいったいどうしたんだろう。禅譲する事もできない。

 いっそ、ここから飛び降りてしまおうか? いや、きっと班渠が拾い上げてしまうな。

 海に飛び込んで沈んでしまおうか? だめだ、死ねなかったらどうする。景麒が次の王を捜すこともできない。

 自分で自分の首を切るか? ああ、水禺刀しか持ってこなかった。この刀は、王自身は切ることができないんだ。



「何を、やっているんだ私は……」

 涙が、次から次へとあふれてきた。



「主上……」

「では、先ほどの横穴でよい。あそこに連れて行ってくれ。今日は戻れない」

「わかりました」

 班渠は、ついさっきまで隠れていた崖っぷちの横穴に陽子を連れて行った。

 体には柔らかい、優しい手触りの砂。陽子はそんな砂が敷き詰めてある横穴の奥で腰を下ろし、膝を抱え、額をその膝にあてがった。



「班渠?」

「御前に」

 大きな使令は、場所が狭いので、遁行して顔だけ地面から出していた。

「覚えているか? ここは昔、桓たいと来た場所だ」

 ややあって、使令は答える。

「はい、覚えております」

「そのときは、この横穴の周りの崖が、すべてきれいな赤い花で覆われていたよね」

「忍冬でございますね」

「ああ、そう。浩瀚は、すいかずらの仲間だって言っていたっけ?」

 抱え込んだ頭を少し上げて、陽子は懐かしそうに微笑む。



「去年は、咲いていたよね?」

「是」

「今年は、なんで咲かないのかなあ? 表の白い乾燥した枝は、きっと忍冬の蔓なんだな。みんな、枯れてしまった」

 班渠は、黙っていた。

「あんなにきれいだったのに、枯れてしまったんだ」

「私も、こんな風に枯れてしまったのだろうか?」

 独り言のようにも聞こえる。班渠は慰める言葉がなかった。



 しばらく、暗い横穴の中で、じっと一点を見つめていた陽子は、やがて班渠に向かって命じた。

「今夜は、ここにいる。班渠は景麒に付いてくれ。頼む」

「是」



 使令は王の命を聞くことしかできないのだ。



 本当のことを言えば、今、班渠は陽子のことが心配であった。

 離れたくはなかったのだ。

 仮にこの場所から飛び降りたとしても、神仙となった陽子は、死ぬことはないだろう。酷い怪我を負うことはあっても。

 いや、むしろ死ぬよりも、もっとつらく苦しい思いをすることになるかもしれない。仙であっても酷く傷つけば片腕が腐って無くなったりはするのだ。

 今、私が主上をここにおいて行ったら、主上はどうなってしまうのか? 

 主上がひどく傷つくようなことがあったら? 

 もし、そうなったら自分は……。



 班渠は使令も人間のように「後悔」というものをするのかもしれないと思ったのだ。

 後ろ髪を引かれるようにしながら、班渠は暗い横穴を後にした。

第七節

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