第五節




注意書き

この部分は、多少暴力的なシーンがございます。

お気をつけてご覧下さい。



 鈴や祥瓊の話によれば、陽子はふらりと出て行ってから一刻(二時間)ほど経っている。 何も言わずに出て行った時は四半時もすれば必ず戻ってくる陽子だったが、今日は少し違ったようだ。 日は傾き、冷気が降りてくる。禁門は雲海の下なのだ。温度の変化は、上とは随分違ってくる。

 すぐに帰ってくると思っていたのだ。虎嘯は何も言わずに、禁門で待ち続けていた。 そこに、景麒、浩瀚、桓たい、遠甫、鈴に祥瓊まできたものだから、姿勢を正しながら、心の中で苦笑していた。



 全く陽子のやつはこれだけの人間に心配されて幸せな奴だよなあ。

 そう思った。



「大僕?」

「これは台輔、何か私にご用でしょうか?」

「主上はいつ頃お帰りになるか知っていますか?」

「いいえ、ここで待てと言われただけです」

「そうですか、では私たちも待つことにしましょう」

 涼しい目をした麒麟にそう言われた虎嘯は頭をかいた。他の面々は、陽子が来るであろう方向に目を向けつつ、軽いおしゃべりをして、その場にとどまる。



 しかしその頃、

 陽子は、泣き疲れて凌雲山の横穴でいつの間にか寝てしまっていた。

 日が落ちて、穴の入り口から西日が差し込んでくる。

 空気は冷えてきていた。

 陽子は、軽く膝を抱えながら、横になって寝ていたのだ。

 自然に抱え込んでいた自分の足元が、日の光を受けて、むしろ段々暖かくなっていくのを感じた。

「ううん……」

 一つ大きな伸びをする。寝ている間に顔をこすったのだろうか?自分の頬を伝った涙の後には、横穴の下面にたまっている白い砂が付いていた。

 穴の入り口が急に暗くなる。班渠が姿を現したのだ。

「主上……」

「ああ、わかっているよ」

 抱え込んでいた膝を開放し、立ち上がると陽子は大きな伸びをした。 官服のままここに来てしまったので、白い砂が真っ黒な生地に張り付いてしまっている。 陽子はゆるゆるとした動作で、それを払った。まるで、早く帰りたくない気持ちが手先に乗り移ったようだ。

 陽子は苦笑するとそんな自分の心も振り払うかのように、顔を左右に振った。

「よし、帰るぞ!」

 大きな声でそういったのだ。

 にっこり笑う陽子の顔を見たものの、班渠は主上が何か悲しそうにしていると思った。



 陽子はこの穴から班渠の背に飛び移ろうとした。

 こんなとき、陽子にはいつも感じることがある。

 それは、垂直な岩壁を削り取ったような横穴は、足でも滑らそうものなら、いかに神仙といえども、酷いことになるだろう、ということだ。 いつもながら一瞬どきりとするのだが、班渠のふわりとした毛並みの良さに、今日もすぐにそんなことは忘れた。

「班渠、禁門へ頼む。虎嘯が待っている」

「かしこまりました」



 班渠の背の上で、陽子はつぶやく。

「予王も、一人で涙を流したのだろうか? 私のように」

 班渠の耳には聞こえていたが、あえてこの犬型の使令は黙っていた。



 白茶けた崖を、白くひからびた蔓状の植物が覆う。そこを外れるとまた緑が増し、とびとびにある岩棚には、灌木が茂っている。

「予王はなぜ禅譲できたのだろう?」

 すべての責務を投げ出すには、国を潰すか自分をつぶすか、どちらかしかないのだ。陽子はまた一筋の涙を流し、薄く笑った。



 やがて陽子はふわりと禁門のあるひらけた岩棚に着いた。班渠は陽子が降りるのを確認するとすぐに遁行する。

 跪礼して、顔を上げた虎嘯は、陽子と二人だけの時よりもさらに大僕らしい顔を作って、

「主上、お帰りなさいませ」

と言って、そっと片目をつぶってみせた。

 陽子は、その虎嘯の表情にはっとして周りを見れば、いつもの顔ぶれがすべてそろっているのに驚いた。

「遅くなって、悪かったな」

 多少ふくれて、つぶやいた。

 唯でさえ弱気になっていた陽子は、そんな自分をごまかそうとしていたのかもしれない。殊更悪びれた口調になってしまった。



「主上!」

 今日の景麒は幾分きつい目をしている。

「なんだ!」

 言い返す陽子も、何を言われるかを予想して身構える格好になった。



「主上は、慶国の国主ですから、どこへ行って何をしようとご自由でございます。唯、もう少し、周りにいる者に慈悲をかけていただきたい」

「悪かったな! 何時に帰るかも告げず、黙って出て行ったのはあやまる。みんな、ごめん! これでいいか!!」

 不機嫌そうな陽子の物言いに、景麒はいつものように諫めようと試みる。



「そんな言い方をされると、皆萎縮いたします。少し言い方をお考えになるのがよろしかろう」

「わかった! もう執務に戻る。申し訳ない、心配をかけた!」

 まだ何か言いたそうな景麒を、遠甫が自分の手を軽く麒麟の背に触れ制止させていた。

 心配そうな目をして見ている皆の視線、その皆の揺らいだ心に陽子は気がついてしまった。自分に自信がなくなっているときのそんな視線は、心に痛かった。



「不甲斐ない」

 登極してからずっと思っていたあの感情がぶくぶくあぶくのように沸き立ってくる。



 少しずつ、足を進めながら、陽子は自然に首を垂れていた。周りの皆は見守っていたが動けなかった。陽子の姿が痛々しいと思ったからだ。



 景麒の前を通り過ぎるとき、自然に口をついて出た言葉、

「禅譲……しちゃおうかな……」

 その呟きを聞いて、景麒は胸がきりきりと痛むのを感じた。思わず「主上!」と声をかけようとした。

 だが、それより早く、桓たいの大声が響いた。

「なんですって!!」

 あまりに大きな声だったので、その場が凍り付いた。

「冗談じゃない!! いや、冗談でも俺は許せない!!」

その声を聞いた陽子はきっとなって桓たいを見つめる。

「では、どうしろと言うんだ!?」

「俺たちは、主上を見て、主上と巡り会えて、それで主上のために命をかけた!  それを、軽い気持ちで禅譲だなんて、そんな言い方は無いじゃないですか!  そんなことを言うんだったら俺は、そんな事を言われるくらいだったら俺はっ!!」

「どうだと言うんだ! 私が禅譲したからって、桓たいがどうなるって言うんだ!」



 桓たいも、どうかしていたのだろう。いつになくいらついていた。

 一昨日の禁軍での手合わせでも、陽子の上達ぶりに驚くと同時に、不安を感じていた。

 こんなことで俺は主上を守れるのか?そう思ったのだ。



 俺も焼きが回ったのか?



 今日は正寝に来ているのだからもちろん自慢の槍は持っていない。 桓たいは、気がつくと腰に差してあった一降りの剣を抜き、手合わせの時のように、陽子に全速力で向かっていった。



「俺は主上に刃向かう! お覚悟!!」

 大声を上げて斬りかかった桓たい。

 西日を受けてきらりと光った桓たいの持つ剣。

 それは練習用の木刀ではない。

 それは冬器、真剣だったのだ。



 陽子は、とっさのことで、何も考える暇がなかった。今日は冗祐はつけていなかったが、この頃の陽子は、向かってくる剣には体で反応できるくらいに上達していた。

 しかし、それはあくまでもからだのこと、運動神経では対応できるようになったと言うことだ。

 桓たいの心のひだまで、瞬時に読み取ることはできなかった。



 桓たいの得物に反応していつものように体が動く。彼女の武器は一降りの剣。それは水禺刀と呼ばれる。慶国の宝重であった。

 正面から襲う桓たいの刃を器用にくぐり、陽子は水禺刀をふるって、仇為す得物をなぎ払う。



 あっ、と思ったときは、すでに遅かった。

 桓たいの利き腕は、その剣を持ったまま、手首と肘の間の少し上のあたりから離れ、弧を描いて落ちた。



 陽子も桓たいも、事が起こってからお互いの顔を見つめた。お互いその目は大きく見開かれ、信じられない光景をその目に焼き付けていた。



 その瞬間は、痛みもなく出血もない。

 一拍おいて、桓たいは膝を崩した。陽子に切られた、いや切らせてしまったという衝撃が、彼の心を苛んだ。



 陽子は、自分のやっとことが信じられず、その動きが止まった。



「桓たい!」

 浩瀚は大声でかつての部下を呼んだ。

 真っ赤な血が、たちまち流れ出る。景麒は真っ青になってその場に倒れた。

 祥瓊が悲鳴を上げて、桓たいに駆け寄る。

 虎嘯が桓たいを抱き起こす。

 遠甫は、いつの間にか桓たいの切られた利き手を持っていた。

「これなら、つくかもしれん。桓たい、少し辛抱しなさい」

 手と腕の位置を確かめ切り口をそろえ、押しつける。桓たいはその時初めて大声を上げてうめいた。あまりにも痛かったからだ。

「虎嘯、しっかり押さえて! 桓たい! 我慢しなさい!」

 遠甫の真剣な声が響く。瞬時にあまりに色々なことが起きたせいか、桓たいは気を失った。

 浩瀚は景王の二人の友人に、

「鈴、何人か呼んできて台輔を寝台に! 祥瓊、今は泣くな。それより包帯になるような布を探しなさい!」

と、指示を出す。鈴が走る。

「う、ぅぅ……」

 涙を拭い祥瓊が走る。

 禁門を守っていた兵士や文官が、景麒を戸板に乗せ運ぼうとしていた。もう一つ、戸板を用意する。桓たいも医師に診せなくてはならない。



 時間にして、ほんの少しだった。蓬莱で言うところの五分ぐらいのことだろう。 皆が一息ついて、加害者となった景王に事情を尋ねようと見回したとき、陽子はどこにもいなかったのだ。

 

第六節

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