第四節




 正寝の入り口近くで、二人の男がたたずんでいた。お互いに話をしているようだ。これから、主上の元へ行くのだろうか? 

 片方は麗しき金色の鬣、慶国の神獣、麒麟の景麒。台輔であり、慶国首都州瑛州を治める。

 もう片方は、景麒よりも幾分背が低く、年老いた容姿をしている。

 景王陽子の教育係、太師の遠甫、であった。

 もちろん二人とも、正寝には自由に出入りする権利を景王から賜っていた。 しかし、もう十年以上経つというのに、その権利を行使しようとは思っていないようだ。取り次ぎの下官が戻ってくるのを待っている。

 景麒は、道すがら太師である遠甫に、最近の陽子について相談を持ち掛けていた。

「左様でございましたか。しかし、台輔がお気になさるほどの事もないかと思われますがのう?」

 白いひげを揺らしながら、穏やかに話したのは太師である遠甫だ。

「いえ、主上が際だっておかしいとか、そう言うわけではないのですが、このところ、王気に時々乱れがあるのです」

 答えるのは景麒、慶国の宰輔でもある。

「ほうぉ」

 遠甫が首をかしげた。



「台輔、それはいつ頃からでございますかな?」

「そうですね、昨年の秋頃からかと記憶しています」

「左様でございましたか」

 遠甫は、景麒の紫色の瞳を慈しむように見つめると、穏やかに微笑んだ。



「なにか、台輔には心当たりがございますかな?」

「いえ、特には。しかしながら……」

 遠甫は一度目を伏せ、今度は園林に咲く白い藤の花に目を移した。つと、手を伸ばし、垂れ下がった長い花房に触れる。

「気になることがござったか」

 まるで独り言のように、白藤に向かって声をかけた。

 景麒は、そんな遠甫に黙礼する。

「はい。主上は何か心にお悩みがあるようです」

「ほう、悩みとな」

「太師は何か聞き及びではございませんか?」

「ふむ」

 今度は遠甫が黙った。



 しばらく音のない園林に、虫の羽音が響く。昼間の日差しはかなり暑くなってきていた。 その日差しが少しだけ傾いて、やがて涼風が吹き始める。まだ、夏というわけではないのだ。 この時期は時間帯で随分と温度差がある。遠甫は、ぶるっと一すくみ体を震わせる。



「太師? 何か羽織るものをお持ちですか?」

 景麒が心配そうに尋ねた。

「おお、台輔にご心配いただくとは。もったいない事じゃ。申し訳ない、今日は何も持ってはきておらなんだ」

「では、主上にお会いして、女御殿に何か見繕わせましょう」

「かたじけない」

 身分から言えば景麒の方が上だが、景麒はその容姿も、実質の年齢も上である遠甫に気遣いを見せた。



 そこへ、二人の少女の高い声が聞こえてきた。

「陽子! ようこぉ~」

「ようこったら、もうもどってきたの~?」

 入り口近くに来て、二人の少女は、台輔と太師に気づいたようだ。

「これは、失礼いたしました」

「どうぞこちらへ」

 正寝の中に案内しようとした二人に、景麒は声をかけていた。

「主上が、いらっしゃらないのですか?」

「「はい」」

 鈴と祥瓊は、すまなそうに拱手していた。



 ひとしきり休憩をとった二人は、取次の下官の姿を垣間見て、もう戻っているのではと、再び景王の名を呼びながら入り口のほうへ向かってきたところだった。

 どうやら、取り次ぎの下官も主上を探している最中のようだ。なかなか戻ってこない。



 今度は遠甫が口を開く。

「お二人が主上を探していると言うことは、しばらく姿が見えないということでございますかな?」

 景麒は額に縦のしわを作ったが、遠甫は穏やかなまなざしをしていた。

「はい、主上がいなくなったのは、ちょうど八つ時になる少し前でした」

「実は、主上はこのところ班渠殿といらっしゃる時に、ふらっとどこかへ行ってしまう事が多いようなのでございます」

「そうでしたか」

 景麒はそう答えながらも、その行き先を思案した。



 主上は、それほど遠くへ行かれたわけではない。王気をたどれば明白なのだ。 しかし、王気のある場所へは簡単に行けないようだ。どうも、凌雲山の崖っぷちにいらっしゃるようなのだが? それにしても、また王気が揺らいでいる。



 予王の時は、このようなことはなかった。ただ、段々に王気が弱くなってしまわれたのだ。 あんなにも声を荒らげて、慶の女性をすべて国外追放にすると叫んでいらしたというのに。王気は、弱く、弱くなって行かれたのだ。



 遠甫は、思いにふける景麒を白藤の房の間から、そっと伺っていた。

 台輔、昔のことは、気にせずとも良かろうに。



「あれ? これは台輔、失礼いたしました!」

 桓たいが、跪礼し、浩瀚も拱手した。正寝の入り口に、結果として皆集まってしまったのだ。

「皆様、申し訳ございません。主上は今、正寝にはいらっしゃらないのでございます」

 鈴が申し訳なさそうに拱手する。

 浩瀚は、

「大僕殿はどちらに?」

と二人に尋ねた。

「はい、大僕は確か禁門に行くと伝え聞いております」

 鈴が答える。

「ふむ、どうやら陽子は虎嘯には行き先を告げていったようじゃのう」

 遠甫はふわふわと笑った。

 それを聞いた桓たいは、

「太師、それは行き先というよりは、帰り着く先じゃないですか?」

と、笑いながら聞き返した。

「あら、そのとおりだわ。よう……主上は、大僕に待っているように言って、出て行ったのですわ」

 祥瓊も思い出したように言った。



「台輔?」

 浩瀚が、景麒に向かって改めて拱手すると、

「主上はどちらに行かれたのでしょうか?」

と、問いかけた。景麒は表情を緩ませながら、

「それほど遠くではありません。凌雲山のどこかにいらっしゃるようです」

そう答えた。



「ほっほっほ、ではもうすぐ戻るのではないかの? どれ、たまには皆で出迎えてみるかな」

 遠甫の提案にみな笑顔で答えた。正寝から禁門まではそう遠くない。景麒を先頭に皆ゆっくりと歩いていった。

第五節

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