「俺は、結構我慢強い方なんですけど!」
穏やかで卒の無いいつもの桓たいとは少し違った雰囲気をまとわせている。
慶国の左将軍はご立腹だ。
「どうした、桓たい? 珍しいな、そんな怖い顔をしているなんて。祥瓊殿に嫌われるぞ?」
「慶国冢宰ともあろうお方がですね、そんな、たかが一軍人の私生活なんぞに首をつっこまなくてもいいんですよ! まったく……」
ふん、と鼻を鳴らしながらどたどたと回廊を渡っていく。桓たいと話をしながら歩いているのは冢宰の浩瀚だ。
「噂好きな官吏どもが、主上は政務を怠っていると言うんです! 俺はそんなことがあるもんかと食って掛かりたかったのをじっとこらえたんですよ」
「たかが噂だろう? いったいどうした」
「浩瀚様。主上がこのところ朝議の席でもぼうっとしているって言うのは本当ですか?」
「いや、私は気づかんが、いつ頃からの話だ?」
「うちの配下の若いやつらに噂の出所や、中味を探らせたんですが、どうやら昨年の秋ぐらいからだって言うんですよ」
「そうか……」
浩瀚は、何食わぬ顔で思案するふりをしていたが、心当たりが大いにあった。
誰にも話してはいなかったが。
ちょうど昨年秋、公休日に陽子と二人で瑛州にある村へ視察に出た浩瀚は、陽子と二人きりになって、口づけを交わした。
その直後に、陽子の口から発せられた、ごめんね、という切ない響きがしばらく耳について離れなかった。
主上は、何を謝られたのだろう。慶の女王に恋は不吉という民人たちの言葉を鵜呑みにしているわけではないと思うが、
確かに国王と冢宰が恋仲というのは、あまり政を行う上には都合の良いことではないな。
そんな風に思い、浩瀚は、そのころからずっと常とは変わらないように努めたが、あえて近くには寄らないように気をつけていた。
陽子も、微妙な距離を保っているように見えたのだ。
確かに、主上は、あんな口づけをする前は、もっと無邪気に笑い、自分の側にも必要があれば近づいてきた。
自然に服がかすったり、手が触れたりしたことは何度もあったのだ。
そのたびに、頬を染められたり、ふくれられたりしたが、今のように距離を取られることはなかった。
あのときは確かに主上も、いや、主上の方が欲されていると思えたのだが……
「だから!! 浩瀚様! もう、俺の話を聞いてくださいよ。ったくしょうがないな」
「すまぬ、桓たい。私はどうかしていたようだ」
「ほんとですよ、浩瀚様。仕事のやり過ぎじゃないんですか?」
「いや、そう言うわけではないんだが、申しわけない」
「で、官吏の間には浩瀚様がいれば、主上が何をしていたって大丈夫だっていう話が出ているらしいんです。みんな、うちの主上の覇気を忘れてしまったんですかねぇ?」
「それは、無理無いかもしれないよ、桓たい。私も、拓峰の乱を治めた主上の姿を見ていないので、随分と誤解していた部分があったくらいだからな。
拓峰の乱を共に戦ったものとそうでないものには自然と主上に対する思いも違うものがあるのだろう」
「そうですかね?」
「禁軍はどうだ?」
浩瀚は気持ちを切り替えるように桓たいに訊ねた。
「いや、禁軍の方は大丈夫ですよ。一昨日も主上は稽古場の方に見えて、一手お相手いたしました」
「本当か?」
「はい、すとれす発散もあそこまで行けば上出来です。私でも一本取るのはなかなか大変になりました」
「嘘をつけ!」
「本当ですってば! 木刀でもそうなんだから、主上が水禺刀を持って戦ったらその辺の兵士じゃ歯が立ちませんよ」
そんな話を聞いて、浩瀚は、まるで自分がほめられているかのような、明るい気分になった。もちろん、いささかおてんばな女王ではあったが。
「で、左将軍殿としては、主上の様子を確かめたくて、正寝へ行こうとしていると言う訳か?」
「はいはい、その通りですよ。私は主上が大好きですからね!」
浩瀚は、わざと自分の前で戯れ言を言う桓たいを一睨みすると、肩をすくめて笑って見せた。
「ちっ、これだから浩瀚様は、からかい甲斐が無いって言うんですよ!」
「お前の目的は祥瓊殿ではないのか?」
「あ、ちょっと、待ってください! それは、っつ、ちょっと……」
「しどろもどろというんだ、今のおまえのような態度を!」
そんなたわいのない話をしながら、二人は回廊を歩いていた。
正寝も近くなってきた。
今日は珍しく行き交う下官の数も少なかったので、ふたりの話は弾んでいた。
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