「班渠……」
大きな妖魔は、その体を器用に岩壁に寄せ、制止させる。
空中を飛ぶことはすべての妖魔・妖獣にできる技ではない。まして、空中で静止するなどということができる生き物は十二国広といえども、あまり存在するものではなかった。
この技術を持つことで有名な生き物は、「生き物」ではない。
神だ。
神獣と言われる麒麟は、空中でぴたりと静止できることで知られている。
しかし、まれにそんな技術を持っている生き物もいるのだ。ここ、慶の国王を守る定めにある使令のひとり、班渠も、その偉業をやってのけて見せた。
班渠にまたがる緋色の髪を持つ少女は、ここ慶国の王、景王である。
名前を中嶋陽子。胎果の王だ。
その、使令が静止した岩壁には、横穴が開いていた。
この岩壁は、金波宮のある凌雲山の一部、禁門よりもすこし下に位置している。
見上げれば雲海が、ほど近い。
ほぼ垂直の岩壁には、太目の蔦か、あるいは細めの藤、のようなつる草が枯れた状態で覆っていた。
その、枯れた蔓に守られるようにして、横穴が開いていた。
班渠の背から降りた景王は、ふうっと短いため息をつくと、その岩穴の中に入った。
天井は、入り口の大きさと比べるとすこし高くなっており、陽子が立つと、頭と天井の間にいくらかの空間ができる。
その奥は二丈ほど、幅も同じくらいの横穴だ。
丁度陽子の執務室の応接部分を除いたような小さな空間だった。
陽子は、その穴の一番奥まで行くと、膝を抱えて座り込んだ。
穴の床に当たる部分は、細かい砂になっている。
かつてこの場所には、大きな丸みを帯びた岩が挟まっていたのだろう。
それが何かの拍子で、抜け落ちた。
そんな感じのする横穴であった。
砂はもともとあったものか、風の具合でたまったのか?
入り口が狭いのは、植物でふさがれてしまったからなのか?
不思議なくらい居心地の良い場所だったのだ。
陽子は、この場所をずいぶんと昔に見つけた。
今は赤楽十数年になるので、もう十年以上前のことだ。
左将軍である桓たいと二人で、麦州の棚田を見に行ったことがあった。
その帰り道で見つけたのだ。
あの時は、この横穴の回り一面に、濃い緑の葉に赤い色をした花のつる草が生えて、それはそれは美しい景色だったのだ。
その花を摘んで帰ろうとしているときに、たまたま横穴を見つけた。
以来、陽子は一人になりたい時に、たまに、ここに来ていたのだ。
班渠でないと連れてきてはもらえないのが、若干難儀ではあったが。
今は、ちょうどあの赤い花が咲いていた季節なのだが、何か気候の変化があったのか、
他の理由なのかわからないが、あのときのつる草は、その太い幹の部分を残し、白くかさかさになった状態で、横穴を覆っていた。
表は初夏を感じさせる日差しだが、横穴の中は、ひんやりして気持ちよく、静かだった。
陽子は、そっと目を瞑る。
「このごろ、疲れるな。いったいどうしたんだろう? 私は、おかしくなったのか?」
そうつぶやく。
その閉じられた瞳の端から、綺麗な水滴がするりと頬を伝った。
「きれいだったなあ、あの赤い花。景麒や浩瀚は、すいかずらの仲間だって言ってたっけ?」
陽子は、無意識に流れた涙を手の甲で拭う。
「なんで、枯れてしまったんだろう? 私はあの花が大好きだったのに……。
去年は確か、このくらいの時期にはまだ、いくつか花をつけていたはずだ。それが、今年は完全に枯れてしまった。
何か、病気にかかったんだろうか? それとも、最初見たときから、枯れてしまう定めだったのか? 枯れてしまう……定め?」
陽子は、自分を振り返った。
登極から、十数年が経っている。
もう、あの頃のような悲惨さはなくなったが、それはみんなががんばったからだ。いったい私は、何をしたのだろう?
私の前の三代の女王は、皆その玉座に就いていた期間が短かったと言うけれど、私は大丈夫なんだろうか?
景麒がこのごろあまり元気がないような気がするのは、どうしてだろう?
「失道」ではなさそうだけれど……。
「ああ……」
陽子は、ため息をした。そんな自分を振り返り、まるで景麒のようだと気がついて、苦笑する。そして、その瞳からまた、涙が滑り落ちた。
「私は、いったい何だって言うんだ」
陽子は、まだ自分が政務を執っているとは思えなかった。
状況は変わり、案件についての説明は浩瀚や遠甫が丁寧にわかりやすくしてくれるので、初勅以前とは比べものにならないほど、問題なく進んでいた。
しかし、自分の考えというものがなくなっているような気もしていた。
遠甫や浩瀚は大変優秀だった。景麒も決して為政者として能力がないわけではなく、瑛州を良く治めていた。
特に問題が無く、次第に豊かになっていく慶国のさまを、若い陽子は自分の成果だと思うことが難しかった。
「慶には優秀な人が沢山いてよかったな」
寂しそうに笑い、顔を伏せた。
私がいなくたって、何も変わりはしないんじゃないか? と言う疑いが心の隅にあることを、わざと考えないふりをした。
さらに、最近、陽子の心の中で大きくなっている一人の男の顔を、陽子はいっさい考えないようにした。
「私は、慶の女王だ! 私は……」
涙があふれて、横穴の入り口から見える空がにじむ。
そのまま、陽子は自分の膝に突っ伏して泣いた。
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