陽子の周りでは、何事もなく政が進んで行くように見えた。
もちろん陽子の仕事量はうなぎ上りであったが。
それについては、景麒が、浩瀚が、実によく働いていた。
自分が執務をしなければいけない時間を割いて、陽子のために尽くしていた。
変わったことと言えば、太師が雁国へ出かけたことだろうか?
朝方突然、冢宰が目通りを願い出てきた。
早起きの陽子はまだ官服こそ来ていなかったが、これから朝餉を取ろうとしていたところだった。
「どうしたの浩瀚、今日はずいぶん速いんだね」
「はい、申し訳なく思っております」
「いや、大丈夫だよ。それでどうした?急ぎの案件か?」
「ご明察。実は太師が雁国へ政を学びたいとかねがね要望を出していらっしゃいまして」
「あはは、何かどこかで聞いたような話だね。何かあったのかな?」
「今朝がた、桂桂殿と祥瓊殿を伴って出奔されました」
「へええ、さすが慶国の太師! 国主のまねをするなんて大胆だね」
「では、お許しいただけるので」
「もちろんだよ、今は詳しいことは聞かないほうがよさそうだね」
「ありがとうございます」
「事がなった暁には必ず教えてくれよ」
「肝に命じまして」
「うん、その書類に署名して御璽を押せばよいのだね」
「はい、こちらに墨と硯はございます」
要領よく陽子の前に道具を出すので、厚い書面に名前を書いた。
「少し失礼するよ」
さすがに朝餉の席には御璽は置いていない。
執務室へ行って、よいしょ、などと掛け声とともに押している。
浩瀚はそれを聞いて穏やかに笑った。
――大変おかわいらしい方だ――
このように、珍しく遠甫の方から陽子へ要望が出され、
若干の事後承諾ではあったが、陽子の判断ですぐに勅命と言う形で実施に至った。
経済的な関わりを尚一層深めると共に、雁国の管理体制を遠甫が学ぶという形式だった。
しかし遠甫の訪問は雁にとっても好都合であるらしく、
のちほど延王に問い合わせたところ、雁国側でも体裁はまたたく間に整い
賓客として迎えられたようであった。
それに付き添って祥瓊が楽俊との約束を果たす、という名目で出かけて行った。
たびたび出歩くことのかなわない陽子に変わって、
楽俊の現状を見聞きしてくるという友情のかけ橋になるようだ。
遠甫の傍仕えに桂桂が着いて行った。初めての雁国行きに桂桂ははしゃいでいた。
今回は、蘭玉とのあてのない逃避行では無く、れっきとした自分の仕事を持ちながらの、
しかも見聞を広めると言うなかなかに平和な目的と一緒だからである。
無くなった姉の分まで頑張ろうというけなげな桂桂を誰もが支えようとしていた。
しかしながら、陽子の周辺は急に寂しくなってしまった。桓たいあたりは
「今の方が護衛するには条件が良いのですがねえ」
などと、軽口をたたいていたが、
「大丈夫よ!私がここに泊るから」
太師邸の周りで虎嘯と二人になってしまう鈴は、
虎嘯と共に、警備の軽減も含めて陽子の命で太師が帰ってくるまで、
それぞれが内殿の空き部屋で寝泊まりできるという許可が出ていた。
これも陽子の勅命と言ってよいだろう。
きわめて自然に事は成って行ったのだが、天官府あたりは、異論を唱えたかったようだ。
というのも、今度こそ自分たちが主上のおそばで勤務できると期待していたからだろう。
半ば本気でがっかりしていた官吏も多かったと言う。
たとえ周りが寂しくなっても、午後の執務は無くならない。
「浩瀚、今日は午後も早いね、どうしたんだ? それと、今日は景麒が来てくれるはずなんだけど?」
昼餉も早々に、陽子の執務室に浩瀚が訪ねてきた。
「急ぎの案件にございます。こちらに置かせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「うむ、いつもありがとう」
「ついでと申しては大変失礼ですが、私に墨をご用意させていただけますでしょうか?」
「本当か! 助かる。墨をするのは嫌いでは無いんだけれど、
いつもは祥瓊がやってくれていて助かっていたんだ。冢宰にこんなことさせてしまって申し訳ないな」
「何をおっしゃいますか。主上の御ために何かと雑務をさせていただくのは冢宰の職分でございます」
「墨すりは違うだろ」
「いいえ、重要でございますよ」
「重要なのは、案件の中身で、それは私か書記官やることだと思うぞ」
等と言っている間に、真っ黒で豊かな墨が良い香りを立てて大きな硯の中にすりあがっていた。
「おお、妙な問答は不要だったな。ありがとう浩瀚」
陽子は満面の笑みで微笑みかける。浩瀚はこの一瞬が幸せで仕方が無かった。
鈴が二人分のお茶を入れてくる。
――今日ばかりは陽子が正しいわよ。どこの国に冢宰に墨をすらせる国王がいるもんですか。
だいたい冢宰は墨なんかすらないでしょうに――
「ああ、おいしい!鈴、ありがとう!!」
陽子の声を受けて、鈴は内心にっこりする。
――まあ、陽子が嬉しいならそれでいいけど――
鈴は黙って執務室を退出した。
景麒も取り次ぎを経て執務室にやってきた。
「主上、よろしいか?」
「あ、景麒。ありがとう、来てくれたんだね。これからだ、ちょうど良かった」
浩瀚はさりげなく茶器を片付けると、後方に下がって丁寧な拱手をしていた。
「冢宰、よろしいのです。どうか、気付かいなく」
「ありがたき幸せ」
男二人がいつもの挨拶を交わすと、陽子が
「そうだ!」
と大きな声を上げた。
「主上! はしたない声を出さないでいただきたい」
「あ、すまん。景麒、ところでお前砂糖は大丈夫か?」
「食しても問題はございませんが」
「では、景麒、浩瀚、二人にこれを下賜する」
太い竹をうまい具合に加工した物入れだった。
二人の重臣は、そっと中を開けてみた。
真っ黒でちょうど親指と人差し指にはさめるくらいの黒砂糖が、たくさん詰まって、
甘苦いこくのある香りを放っている。
「昨日、大宗伯が持ってきたらしい。表で下官が受け取っていたようだった。お礼を言い忘れたよ」
「主上は味見をされたのですか?」
「何だ景麒?してないけど??」
「ではお毒見は?どなたかが?」
「してない……かな。鈴?」
「はい」
「毒見もしてもらえたのかな?」
「はい、大丈夫かと思います」
「だそうだよ、二人とも」
そう言って、陽子はにっこり笑った。
「では、遠慮なくいただきます」
「うん、浩瀚も」
「ありがたき幸せ。こちらの砂糖菓子、
我冢宰府の官吏にも私から配らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんだとも。あ、まずかったらはっきり言ってくれ。改善するように伝えておくよ」
浩瀚はふわりと微笑んだ。
――主上らしい――
浩瀚はそう思って丁寧に挨拶をして退出して行った。
「でございますが主上、私は瑛州にそのような税制を敷いた覚えはございません!」
「もちろんだとも、景麒」
今日の午後からの執務は、景麒が陽子の傍に就いていた。
陽子が特大のため息をついたので、景麒は思わず目を丸くする。
「ああ、お前の専売特許を取ってしまって悪かったな」
「センバイトッキョとは何でございますか?」
「ああ、それも悪い。こちらには無い風習だったか」
「風習なのですか?」
「うん、違うな。経済に関する法律とでも呼べばよいのか。
国営にしていて一般の店では売っていないと言うことだ」
「はあ、それで専売特許と言うことですか」
「そうそう、前に一度説明しなかったけ?」
「いえ、しかしですね」
「ちょっと待て! お前が仁の生き物だと言うことはよくわかっている。
しかし、これを急に浸透させるのは、今の私たちには無理だと思わないか?」
「はあ、面目もなく……」
今度は、景麒が十八番のため息をつく。
事は瑛州の税制のことである。
陽子が発布した税の軽減は、あまねく慶国に行きわたった、はずであった。
しかしながら、その実態はその土地を与えられた官吏の胸先三寸に収まっていた。
固継の管理者などはまだ良い方だったのであろう。五割から三割になったのだから。
このことについては、異論もあるが、当時呀峰から換え地になって固継を納めた官吏は、
五割とはひどすぎると思ってはいたもののしばらくは放っておいたらしい。
どうやら返すべき借金があったらしいのだ。
それが完済したころ、陽子と言う新王が起ってほどなく減税の法を発布した。
そこで改めて三割にしたと言うのだ。
もちろん直轄地であるから、景麒は陽子の減税法案を順守する。
つまり、その瑛州州官の懐に入る税収は、結局あまり変わらなかったと言うことなのだ。
誰もが自分を可愛いのだ。それは、陽子が登極するにあたって大変悩んだ事柄でもあった。
それ自体を悪いとは言えない。ただ、それだけでよいのだろうか?
人の幸せとはなんだ、良い国とはどういうものだ?
陽子にとっては永遠の課題であるのだろう。
だが、この課題に悩んでいる限り、陽子が玉座から転げ落ちると言うことはなさそうだった。
「では、公休日開けには春官府を視察なさると言うことでよろしいでしょうか」
「うむ、わかった」
「ぜひ、女王としておいで下さいとの言伝を受けております」
「誰からだ?」
「大宗伯でございます」
「うううむ、仕方ない。善処する」
「それがよろしいかと」
こうして午後の執務は滞りなく終わって行った。
「鈴!」
「なあに、陽子」
「すまないが、公休日開けの春官府の視察、衣装をそろえておいてくれるかなあ。
相変わらずで悪いんだけど、何にすればよいか自分では判断がつかないんだ」
「何を言っているのよ、陽子。あなたのはいつも決まっているじゃない?
軽くて、動きやすいものって」
「まあ、そうなんだけどね。こちらに来てからすぐ短い袍衫しか着てこなかったから、
いまだに襦裙は慣れないんだ」
「蓬莱にも振り袖っていう物があったはずだけど」
「ああ、着たことはあるけど。そうだね、あれに比べればまだましかな。
たのむから頭の飾りは軽くて最低限のにしてくれ」
「はいはい、注文の多い女王様ね」
「多くは無いよ、普通と違うだけだろ」
「わ、か、り、ま、し、た!!!」
「「うふふふふふ」」
いつでも冗談を言い合える友がそばにいると言うことは頼もしいことだった。
昨年には願うことすらなかったことだ。
今現在、女御は鈴一人しかいない。
そんな人数で大丈夫かと思われるかもしれないが、
鈴は、才国で徹底的に着つけを仕込まれている、いわば百年の歴史を持つ女官なのだ。
本人はその気は無いかもしれないが、そこいらの女御が束になってもかなわない実力者である。
陽子は実は最強の女御を召し抱えたのかもしれない。
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