今朝も同じ時刻に朝議が始まる。
慶国は、その民人の気質は比較的気まじめと言われている。
やはり産業の主要な部分を稲作が占めているからだろうか?
こつこつと手をかけ面倒を見ていると稲は豊かに育つものだ。
それは、どう頑張っても作物の生育には適さない季節をもつ極寒の国や、
放っておいても食べるに困らないほど自然に生ったり採れたりする南方の国とは、
ある程度違ってきて当然なのだろう。官吏も国王もそうなのかもしれない。
良くも悪くも融通がきかなかったりするわけだ。
陽子は、そういった中で、極端な変化は避けるように心がけている。
伏礼を廃止したと言うのも、実はそれほど突拍子もないことをやったわけではないのだろう。
それは、罰則を決めたりしなかったことからもうかがえる。
伏礼する官吏を見つけたら、陽子自らが注意する程度だ。
さらに、慶の官吏たちは、伏礼をしないことに慣れると、
お互いに顔を見て話すことができると言う利点を発見した。
本当はこちらの流れが正しかったのではないかと、思ってしまうほど、
伏礼をしないことについては金波宮に浸透していったのである。
もうひとつ陽子が出した勅令に、七日に一度の公休日制度がある。
本来ならば、朝議の議題は七日間で順繰りと各官府が担当し、
最後の七日目に六官と三公からの提案となるのである。
陽子はここに公休日を設けたので、本当なら最後の順番に当たる六官と三公からの提案は
随時行うことにした。そうしておいて、天地春夏秋冬の六官府で六日間をめぐり最後の一日を
公休日としたのである。陽子が登極したばかりである今この時は、六官三公をまとめる冢宰府からの
提案が数としては多く、冢宰府や太師がいつでも提案できるため、
陽子が勅命で決めてしまった公休日は、政がすんなり進むには却って都合が良かったようなのだ。
そんな朝議で、今日は秋官府からの提案日であった。
堯天での治安は進んでいる。大きな犯罪は姿を消し、ひったくりやコソ泥なども数を減らしている。
先にあった国官臨時採用試験で、多くの人数が正式ではないにしても下官として仕事を与えられたので、
その分収入が安定している民人が増えたことになる。
結果として生活が安定し、気持ちに余裕が出てくる民人が増えたということだろう。
そういう民人が、街で買い物をしたりするので、商売を営む者にも、良い影響が出てきている。
そういった意見が交わされた。
税の増収に合わせて、禁軍の兵を増やし、土木工事や治安の徹底を図りたいという細かい法案も提出され、
大筋の所で賛成を得る事ができた。本日の秋官府の提案についての結果は、上々だったと言えるだろう。
陽子は、静かに諸官の意見を聞いていた。
登極したばかりの朝廷が靖共派と反靖共派に分かれていたあのころに比べると、
貧しいながらも前向きな朝議になったものである。ほっとすると共に、昨夜のことを思い出していた。
四十二番の朱で書かれた解答用紙だ。
―― そういえば彩華さんが四十一番だったような気がする。
すると、四十二番は……ああ、そうか! あの妙にきれいな女のひとだ。
なるほど、何も書けなかったんだ。
だから、白紙の状態だったので、燃やされてしまったのか? ――
一人で納得して、苦笑に近い笑みを受かべると、
景麒が不思議そうな顔をして陽子の顔を見つめる。陽子は肩をすくめて、何でもないと目線で示した。
本日の案件はすべて終わり、冢宰である浩瀚が、陽子の方を向いた。そこで陽子は、
「ああ、今日は私からお願いがある」
そう言って、玉座から立ち上がり、景麒の方を向いた。
景麒は渋い顔をするが、軽いため息をつき、少しだが首を縦に動かした。
それを見た陽子も、僅かに苦笑したが、すぐに元の顔に戻し、階段の下へ向かった。
一段ずつゆっくりと下りて行き、官吏たちが座っている所と同じ高さになったところで止まった。
「皆の者、いつも慶のために働いてもらって礼を言う。
新しい官吏や下官が増えて、朝もますます活気が出てきたように思う。
そこで、皆には厄介ごとかもしれないが、また府吏を視察したいと思っている。
地官府、秋官府、夏官府は回ったので、今度は春官府を見学したい。
大宗伯も交替したことだし、次の公休日の後に行ってみたいのだがどうだろう? 迷惑だろうか?」
そう言った。本来なら国王本人が言うのではなく、冢宰の浩瀚あたりが代わりに語るべきところだが、
この辺りは、浩瀚も陽子に任せていた。
「春官長、いかがですか?」
浩瀚は冢宰として、新しい春官長に向かって返答を促した。
春官長は、男ながらあでやかな微笑みを浮かべ、
「主上の御訪問をお受けすることができるとは、何よりの幸せにございます」
そう言って、恭しく跪礼した。
「そうか、では準備もあるだろうから、宜しく頼む。
私は皆が仕事をしている所が見たいのだ。
間違っても平伏するなよ。あれは初勅で禁じたんだからな」
そう、笑顔で伝えた。
「かしこまりまして。どうぞ、御安心ください。
どのような仕事か、主上の御質問にお答えできるように、
皆に言い聞かせてまいりますゆえ」
春官長は、真摯な態度でそう語った。
「ありがとう。そんな風に言ってもらえると私もうれしい、楽しみにしている」
そう言って、陽子はにっこり笑うと、また階段を上って玉座に着いた。
こうしてその日の朝議は粛々と終了していった。
その日の午後、昼餉が終わり陽子たちは執務の準備をしていた。
「陽子、この書類の束がとりあえず緊急に御璽の必要なものらしいわよ」
どさりと置かれた卓の上には、倒れない程度の山ができる。
「うえぇ、祥瓊冗談じゃないのか? こんなにあるの!」
思わず正直な感想を漏らす陽子に、お茶の道具を点検している鈴が苦笑しながら言った。
「あら、昨日はもう少し多かったような気がするけど」
それを聞いた陽子は、
「え? そうかなあ、今度から書簡の数を数えてみるかな」
と言った。
「まあ、やめた方が身のためだわね」
硯と墨を用意しながら祥瓊はつぶやくと陽子の方を向いてにっと笑う。
「どうして?」
鈴が訊ねると、
「これからだんだん増えて行くと思うから」
そういった。肩を落とす陽子だったが、
「でも、祥瓊、今鈴は昨日の方が多かったって言ってたぞ」
と言い返して、少し抵抗をして見せた。
「初めに積んであった量はね。でも今日はこれから持ってくる量が多いかもしれないでしょ」
「わかった、もういい。私のところに来る書簡を数える暇があったら、
中身を読んで御璽を押した方が速そうだ」
「ま、そういうことだわね」
早速、祥瓊は一番上にあった書簡を陽子に渡す。
席に着いた陽子にとっては、今から常世の文章との格闘が始まるのだ。
そう思った時、珍しく下官の取次があった。春官長が主上に謁見を願っていると言うのだ。
この時間帯は、太師か台輔、または冢宰が陽子のもとを訪ねて、
陽子が思っている執務に関する疑問点を説明したりすることが多い。
しかし、緊急の案件以外で、そのほかの官吏が訊ねてくることはまだ少なかった。
つまり、春官長が陽子を直接訪ねる、ということは大変珍しかったのだ。
祥瓊や鈴はもちろん、当の陽子も非常にあわてて、
冢宰である浩瀚が訊ねてきた時よりもずっと緊張することになってしまった。
「失礼があっては軽んじられる」心配なのはその一点であったのだが、
これがなかなか厄介だ。遠甫も景麒も浩瀚も、
陽子が常世に慣れていないことをある程度大目に見ており、
そのことを陽子やその周りの祥瓊や鈴も理解していたが、
それ以外の官吏がどう考えているかはまだほとんど解らない。
本当は王様なのだから、細かいことなど気にせず過ごせばよさそうだったが、
陽子は自分を信じてついてきてくれる人のためにも、醜態をさらすわけにはいかなかったので、
慣れない訪問者は緊張するのだ。
祥瓊や鈴も、いつも以上に執務室がきちんとしているか一通り点検してから、春官長を通した。
――浩瀚や景麒のたち振る舞いも優雅だけど、こいつも綺麗だ――
陽子は、部屋に入って自然に跪礼する新しい春官長をしばし集中して見ていた。
「春官長、ごくろう。執務中なので卓に着いたままで失礼する。直答してかまわない」
「主上、とんでもございません。私ごときのためにお手を煩わせることになりました事、
俄かに反省しております」
「はは、かまわないよ。先を話してほしい」
「はい、実は内殿の庭師をお探しとの事、冢宰より承りました。
私に心当たりがあり、先日天官府とも調整して、本日よりこちらで働いてもらうようにいたしました。
御連絡と共に本人をご確認いただきたく連れてまいりました」
「そうか、御苦労だった。庭師はどこに控えているんだ?」
「はい、そちらの窓から見えると思います」
陽子が執務室の園林に向かって、カーテンのような覆いが大きく開かれた硝子の窓の方に視線を移すと、
そこには一人の男が跪礼していた。
「春官長、お前から私がよろしく頼むと言っていたと伝えてくれ。あなたの縁者なのか?」
「はい。以前春官府に勤めていた者の息子です。腕が良いと評判だそうでございます」
「それは良い。あまり予算がなくて気の毒だが、園林の木々や花のために心を砕いてほしいと伝えてくれ」
「もったいないお言葉、必ず伝えさせていただきます」
「ああ、他にも用はあるか?」
「いいえ、それだけでございます。早速仕事をするように申しつけてよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
春官長は軽く頭を下げると、新しい庭師の方を向き、
「すぐに仕事を始めなさい」
と、声をかけた。すると、その男は、口の動き等で解るのだろうか、
それなりの距離があったにもかかわらず、一度顔を上げ、
陽子に確認してもらうように見せた後、園林の奥に入って行った。
春官長は入ってきた時と同じように、優雅に礼を取り退出していった。
「ふう、なんだか緊張したよ」
両手を上にあげて伸びをする陽子に、こら、とたしなめながらも祥瓊も
「本当ね。いつもこちらにおいでになる方々は大宗伯よりも身分の上の方が多いのだけれど、
気さくな方ばかりだから。今日陽子が緊張したのは無理もないと思うわ」
そう言った。陽子にお茶を出しながら鈴は、
「でも、本当にきれいな人。独身なのかしら?」
というので、陽子が
「そうみたいだよ。というか、官吏はあまり結婚したがらないそうだ」
と答える。
「あら、ほんと?」
「鈴は知らなかった? 芳の官吏も婚姻を結んでいない者がほとんどで、
私のお父様とお母様は珍しかったみたいよ」
「そういえば、祥瓊は家族で仙になったんだっけ」
陽子が確認するかのように、祥瓊に尋ねた。
「そうよ。私も当時はよくわからなかったんだけど、
こうしてみると地仙、つまり官吏は独身が多いのよね」
「でも、大宗伯は綺麗な方だわ。きっとたくさんの女性に好意を持たれて大変でしょうね」
おっとりと鈴が話しながら笑う。
「だろうね。鈴、春官長に関心があるみたいだね。なんだったらサイン貰ってきてあげようか?」
「ん? 陽子、『さいん』て何?」
「しまった、翻訳されなかったか……。最もこっちにはそういった風習は無いかもしれないな」
「はいはい、陽子も鈴も、おしゃべりはおしまい! 執務に戻るわよ!」
「あ、すまない」
あわてて、書類を読み始めた陽子の脇に、鈴は入れたてのお茶を置いた。
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