陽子は、42番という朱の番号が振ってある巻紙が、どうも心の隅に引っかかるので、
祥瓊と鈴には、その巻紙を覚書用に切るのはやめてもらうことにして、床に就いた。
次の日は、だいぶ寒さが増し、キンと空気が音をたてているような、そんな秋の朝を迎えた。
いつものように、景麒が誘いに来る。朝議にともに出るためだ。
すでに陽子は朝餉を済ませ、官服を着終わったところだった。
「おはよう」
「おはようございます、主上」
正寝から出て回廊を渡り、二人は外殿へ向かう。
「今朝は、なんだか体が沁みるような気がする。お前はどう思う?」
「はい、秋も深まり、北国から冷たい風が吹き込むようになりました。
主上は、園林がこの風に追われるようにさみしい様を見せているとは思われませんか?
もっとも庭師をはじめ多くの者が手入れをしているのであまりお感じにならないかもしれませんが」
珍しくよく喋る景麒を見て、陽子は少し不思議そうな顔をする。
「それ、どういうこと?」
そう尋ねた陽子に向って、景麒は、優しく微笑みその美しい緑の瞳に目を向けた。
「木々の葉が落ちて、枝の間から日の光がまぶしくさしてまいりますので」
陽子は回廊を歩いていた足を留め、周りを見渡した。
「本当だ。そうか、この木の葉がだんだん落ちているんだ。手入れをしていなかったら、
園林が皆枯葉だらけになってしまうはずだからね」
そういいながら、辞めさせられてしまった庭師のことを思い出した。
手が足りているのだろうか? 陽子は少しだが心配になる。
現在金波宮は経済的に余裕がない。国を動かすだけで精いっぱいの数しか
官吏を雇うことができないのだ。まして、下官やそれ以下の雑用をこなす下男下女は、
少ない人数で済めばそれに越したことはない。実際、陽子のそばでさえ、
ほとんど下働きの者はいないのだから。こんな余裕のない体制の中で、
長いこと務め熟練庭師であったあの者の代わりを探すのは大変だろう。
人数が減った分、同じように庭を整えるのは、容易なことではないと、陽子はそんな風に感じた。
外殿迄はさほど遠いわけでは無い。ぼうっと過ごしていれば、
何も気づくことなく毎日が過ぎて行ってしまうだろう。しかし、
今日のように陽子は景麒とこのほんの少しの時間を大切にしていた。
また、いつもであれば、もう少し先のところで、浩瀚が待っているのだ。
あ、いた!
陽子は心の中でつぶやくと、回廊のわきに幾分寄って、拱手している浩瀚に声をかけた。
「おはよう、浩瀚」
「冢宰、いつも出迎えかたじけない」
「主上、台輔、おはようございます。本日もご機嫌麗しくいらっしゃるようでなによりでございます」
「ああ、そうだね。では、行こう」
「「はい」」
唱和する返事に陽子は、ほんのりほほ笑んだ。
「浩瀚?」
「はい、何でございましょう?」
「ちょっと、話をしてもいいか? 政務には直接関係ない事だが」
「もちろんでございますとも」
「さっき、景麒と話していたのだけど、今この季節、園林は落ち葉が多いだろ?」
「左様でございますね」
「この間、私のせいで一人庭師が辞めさせられてしまったんだ」
「存じておりますとも」
「ああ、そうだったね」
陽子は、冢宰である浩瀚が、庭師とその家族が路頭に迷わないように、
住まいやその他のもろもろのことを整えてやったらしいと、鈴や祥瓊に教えてもらったことを思い出した。
「やはり、ひとりやめると残った者たちの仕事は、大変になるだろうな」
「はい」
短く答えて、浩瀚は陽子の思いを推し量り、胸の内でつぶやく。
主上付きの下官の数は、おそらく十二国中でうちが一番少ないだろう。
今の主上は、減らせるところは、徹底的に減らせと予算を組む上でおっしゃったが、
ご自分がそれを一番に実行していらっしゃる。そのかわり、と言っては失礼かもしれないが、
主上は何でもご自分でなさり、衣服も官服をお召しだ。下々の生活にもこのようにお気を回される。
このような主上は、慶では久方ぶりだろう。この無垢なお気持ちを、政務に反映させるのは、
実は簡単なことでは無いな。胎果というお立場もあり、前の冢宰、靖共殿の影響もあるのか、
侮られることが多いように見受けられる。
注意せねば。
「浩瀚、何を考えているんだ?」
いつも姿勢正しく、きりっとしている浩瀚が、今日は伏せ目がちな、
そんな感じを受けたので、陽子はそっと声をかけた。
「いえ、そう言えば、天官府から新しい庭師を推薦するという案件が
私のところに届いていたのを思い出しましたものですから」
「え、それは本当か?」
「はい、昨日の夕刻でしたか。冢宰府に届きましたので、確認させていただきました」
「冢宰府?」
「いいえ、主上。天官府で既に確認済みの書状でございますよ」
浩瀚は、穏やかにほほ笑んだ。
「そうか、では新しい庭師が来るかもしれないね。楽しみだな」
「主上、先だってのことをお忘れ無きよう、お願いいたします」
「景麒、わかったよ。大丈夫、もうやたらに下働きのものと話をしたりしないから」
「それは、よろしゅうございます」
「お前、そんな言い方をすると厭味だぞ」
「主上にも責任がございます」
「ああ、わかったから。おとなしくするよ。これでいいか?」
「はい」
浩瀚は、あまりにも微笑ましいやり取りに、小さくくすりと声を出して笑った。
「あ、浩瀚に笑われた……」
「主上、申し訳ございません」
「冢宰、良いのです。少しは主上のためを思って、厳しく接していただきたい」
「景麒、浩瀚にそんなことを言うなよ。私が悪いのだから。浩瀚、ごめんね。
笑われても当然なのに、つい愚痴をこぼしてしまったよ」
「いいえ、主上。少しは愚痴でもおっしゃってください。
主上にいかに心地よくお過ごしいただくかは、かえって我々官吏の腕の見せどころでございますよ」
「うん、ありがとう。浩瀚はやさしいな」
景麒も、口で言うほど陽子に対して厳しくするつもりはないようだ。
ただ黙って二人のやり取りを聞きながら、回廊を進んでいた。
にっこりと笑う陽子の赤い髪を、さらりと秋の冷たい風が吹き抜けた。三人は外殿に到着した。
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