覚え書きにする巻紙



 雲海の上にも、冷気が降りてくる。どこかで金木犀が咲いているらしい。甘い香りが、その地面までたどり着こうとしている冷たい空気に混じって、陽子の顔をかすめていく。

 陽子は、今までこの麻袋を置いていったことをすっかり忘れていた。

「今日は、この間よりもずっと量が多いな」

 ふと、仕事を辞めさせられた庭師のおじいさんのことを思い出した。

「この、何とも言えない香りのする金木犀も、あのおじいさんが丁寧に選定していたっけ」

 ついうっかりしていたとは言え、自分の浅慮があの庭師の晩年を狂わせてしまったことは否めない。どうやら浩瀚が生活に困らないようにしていてくれたらしいけれど、それにしても、今まですんでいた所からは、離れなければならなかったようだから、随分と苦労しているに違いない。

 そんな風に思って、陽子はひとつため息をつく。

「さて、お茶でも点てようかな。今度はこんなに書き付けの紙があるんだから、きちんと茶葉の巻紙も使う分だけ破くようにしなくちゃね」

 よいしょ、と一声かけ声をかけて、巻紙がたくさん入っていると思われた例の麻袋を担ぐと、自室への入り口を開けた。

 ここは陽子個人の部屋である。この場所には、鈴や祥瓊が片付けにはいるほかは、ほとんど誰も訪れることはない。大僕である虎嘯でさえ入り口までしかついては来なかった。もちろん、彼が男で陽子が女だからということもあったのだが、ここまではほとんどの人間が入れないから、警護は入り口までで充分というのが本当だろう。
 陽子の部屋は大きく分けて二つ。手前の部屋が、陽子が個人的なことをしてくつろぐ部屋だ。裁縫の好きな陽子は、ここで簡単な刺繍をしたり、縫い物をして、気分転換することもある。ちょっと前には、ここで彩華から報酬としてもらった手巾に刺繍をして、浩瀚に下賜したことがあるのだが、その刺繍もこの部屋で誰にも見つかることなく刺していたのだ。
 簡単な卓と椅子、それに陽子自身でも入れることのできるような、茶器が置いてある。湯は、毎日朝昼晩と陽子が休みに来る時間に合わせて、取り替えられている。もちろん、時間が経つとさめてしまうのだが、今時分の季節ではまるっきり水になってしまうまでには、結構時間がかかるので、夕餉の後ぐらいであれば、お茶ぐらいは入れることができるのである。
 これは、簡単なようだが、今の慶国では、かなりの贅沢だといって間違いない。

 そして、その奥が寝所になっているのだ。寝所の中はいつも整えられている。天蓋付きの寝台はいつまで経っても慣れなかったが、落ち着かなくて寝られないと言うことはなくなっていた。昼の間に鈴か祥瓊か、もしくは桂桂が生けてくれたのだろう。比較的小ぶりな花器に、金木犀が入っていた。花の少ないところを切ってきたのか、淡い香りが漂っている。外にいたときのほうが、香りとしてはきつい感じがした。あまり濃い香りは、寝静まるのには不適当と考えられてのことだろう。陽子がそこまで思い量ることができたかどうかはわからないが、静かな幸せに包まれていた事は確かだった。

「どれどれ、どんな紙が入っているのかな?」

慶国のいわば中枢機関の「燃えるごみ」なのだ。陽子は、本当なら自分自身が一番中枢にあるにもかかわらず、「政府」の「秘密」を盗み見るような、ちょっとした興奮を覚えながら、巻紙を卓の上に出していった。

 今回は、以前のような古い巻紙ではなく、ずいぶんと新しいものがたくさん混じっていた。どこかで見たような巻紙だ。陽子は、その巻紙の中から新しく見えるものを一本取って開いて見た。

「ああ、これは国官試験の答案用紙だ!」

どうりで見たことがあるはずだ。陽子は彩華と共に試験会場にいたのだ。あのときのことが鮮やかに思い出される。

「新しい巻紙はみんな答案用紙なのかしら」

陽子は独り言をつぶやくと、一本開いてみることにした。

 軽く糊付けされたその巻紙は、表に「壱百参拾八番」と墨で書かれている。巻かれている紐を解き、糊をはがすして引いていくと、白紙の巻物が広がった。

「一回はずすと、もう貼りなおすことはできないんだね。そういえば、試験官が番号を確認するように言っていたかもしれないな。これは、欠席者の出た分かなあ」

都合で受けられなかった者もいるのだろう。新しい巻紙の数は二十本を超えていた。

陽子は一つずつ番号を確認する。ほとんどが百七十番以降の番号が書かれていあった。やはり、予備の物か、欠席者の物であろう。

 そんな中で、陽子はどこかで見たような数字を手に取っていた。それは、受験番号が朱書きされていたのだ。 陽子がもらってきた答案用紙は、ほとんどの物が墨で書かれて封印されていたのだ。この赤い数字は目に鮮やかだ。そういえば、彩華の答案用巻紙が朱書きだったのを思い出した。

「ああ、女性用と男性用で分けたのか」

陽子は、感心していた。

「赤いのはこの一本だけみたいだね。女性は気合が入っていたのか、欠席は少なかったんだな。最も、私の前の予王は、女性を国から追い出してしまったから、今回はよほど志を持った人が受験してくれたんだろうな」

そんなことを思いながら、陽子は表情をほころばせる。


 思えば、自分についていた女官たちも、あの彩華も、慶のこれからの発展に大いに闘志を燃やしていた。

「私がいい加減なことをしていたら、うしろから蹴飛ばされてしまうかもしれないな」

いや、景王を表だって蹴飛ばすような失礼な官吏は、さすがにもういないかもしれないが、それくらいの勢いを持った女性が新しく官吏として活躍するのは確かだろう。


「陽子? 入るわよ」

密やかな声が聞こえる。

「ああ、どうぞ」

鈴と祥瓊だった。

「今日は、ざくろが献上されていたのよ。厨房から一つだけ頂いてきたの。一緒に食べない?」

「うん、鈴いつもありがとう」

「はいこれ」

「祥瓊? どうしたの、おしぼり?」

「ただの手巾だけど。どうして?」

「温かいよ?」

「ああ、そうか。もう日が沈むと寒くなってくるでしょ? そこのお茶用のお湯を少しいただいて絞ってきたのよ」

「よく気がつくな」

陽子は、感心して祥瓊の顔を見た。


「あら、そう? でもね、実はこれ、拓峰の乱のとき陽子が持ってきてくれたのよ。ほら、禁軍や州軍が明郭へ向かって、 一段落したでしょ。そのとき、手巾を熱いお湯で浸して、しぼって持ってきてくれたじゃない? 覚えてない??」

「あ、あの時ね! 確かあの夜はかがり火を一晩中たいて、明るくしていたから、その上に鍋で湯を沸かしていて、 陽子はそのお湯でしぼって持ってきてくれたのよ」

「そうそう、鈴ったらよく覚えてる」

「違うわよ、そのあと陽子ったら、二人とも顔が真っ黒だとか何とか言ってたから、 それはひどいわ、と思ってよく覚えていたんだわ」

「うわ、なんだあ、そっちか!」

「「「うふふふふ……」」」


そんな話をしながら、鈴は器用に均等にざくろを三つに分け、竹で作られた質素な器に入れて三人に勧めた。


「まっかね」

と祥瓊が言えば、

「すっぱ〜い!」

と陽子もさっそく口にする。

「うん、でもよく熟れているわよね」

と鈴。


外気は冷たく、室内は暖かい。果物を食するにはちょうどいい環境かもしれない。 一個のざくろを三つに割った夜食は、あっという間になくなった。


「おいしかったなあ、どこから献上されたんだろう?」

「あら、陽子はさすが王様だわ。そういうことが気になるのね」

「やめてよ、祥瓊。でも、近くだったら生っているところを見たいかな」

「それは、堯天にあるごく近所の里らしいわよ。今年は豊作なんですって! ざくろが」

「ふうん、鈴はよく知っているね」

「三人の中では、一番外に出ることが多いからかな?」


おしゃべりに花を咲かせながらも、鈴はてきぱきと卓の上を片付ける。

「あら、この汚い麻袋は何? 陽子、できればこういうものは中に入れてほしくないんだけど」

ちょっと膨れた鈴は、掃除が大変なのよとつぶやきながら、袋の中にざくろの皮を入れようとした。

「あ、あ、あ、ちょっと待って! そこには書きつけ用にする巻紙がたくさん入っているんだ!」

あわてた陽子が袋を取り返すと、その床にはぱらぱらと細かくちぎれた枯葉が落ちた。


「陽子!」

「ごめん」

祥瓊にも睨まれてしまった陽子は、すぐに謝った。しおれてしまった陽子に、鈴は、

「大丈夫よ。そういえば、今日もらってきたのね」

「うん」

「じゃあ、私達で細かく切っておくわ」

「ありがとう、鈴」

祥瓊も、気を取り直して、

「ちょっと見せてくれる?」

というので、陽子は

「ああ、もちろん。確認してくれる?」

そう言った。三人で改めて、卓の上に巻紙を並べてみた。


「あら、番号が書かれてあるわね」

「そうなんだ、祥瓊。どうやら、先日の国官試験答案用紙みたいだよ」

「え? もう捨てちゃうの?」

「鈴も、不思議に思う?」

「ううん、私は唯そんな高価なものを簡単に焼いてしまうのかしらと思っただけよ」

「そうね。答案用紙だからこそ早めに処分するのかもしれないわ」

「え、何で祥瓊はそう思うの?」

「あとから、不正に使われたりしたら困るもの」

「そんなことできるのかなあ? 質の良い紙だから、誰かに売ってその金子を着服するとか?」

陽子が首をひねっていると、祥瓊は

「ああ、陽子ならやりそう」

などと言っている。

「ひどいぞ!」

という景王をしりめに、祥瓊は次々と番号を読み上げていた。


「126番、138番、これは21番。49番」

「祥瓊、よく読めるね」

「え? 陽子、読めないの?」

「いや、数はまだなかなか読みにくくて」

「ほんと? 早く読めるようになったほうがいいわよ。予算とか、ごまかされちゃうかも」

「いや、悪い冗談だな、それ」


陽子は蓬莱でアラビア数字に慣れていたから、漢数字は読みにくい。 しかも、縦書きなのだ。番号によっては、漢字の羅列にしか見えない。 陽子にとっては、旧字体に当たる文字も含まれていたりすると、お手上げである。 はなから読む気がうせてしまうのだ。


「172番、184番……。あら、これだけ赤いのね。四拾弐番だわ」

祥瓊は、最後の巻紙まで番号を読んで確認した。


「42番?」

陽子は、繰り返す。

「そうよ、四拾弐番」


陽子は、その番号がどこかで聞いたことがあるような気がした。