さやかなる晴天の啼鳥



 ある秋の日、  陽子は、午後の休憩の時間に、雲海の下まで降りていた。
 辺りは、まだ太陽の光に照らされて、小春日和と言うべきだろう。なんだかとても暖かい。しかしながら、周りの景色は春とはだいぶ違って、木々の葉が色づいている。
 ここは、凌雲山の中腹、切り立った崖を両側に見て、小さな沢が流れている、自然のままの林の中であった。
 陽子は、古木が倒れて朽ちているところで、腰を下ろして空を見ていた。
 彼女のいる場所は、ちょっとした広場になっていて、林の中でありながら、空を見上げることができるのだ。近くには小さな沢が流れ、両側の崖は高いが、天中に近い位置の太陽を遮るほどの高さではない。
 だから、ここにはほっこりとした暖かさがあった。

 ピピピ、チチチピィッチ……
 珍しく何か小鳥の啼(な)く声がした。陽子は、朽ちた木の上に腰をかけて、右手で頬杖をつき、ぼんやりと正面斜め上を見ていた。
 ふと後ろに、気配を感じる。

「浩瀚、だろ?」
「ご明察にございます」

 軽い苦笑のような、微妙な笑みをたたえた慶国の冢宰が、すぐ後ろに立っていた。
「すまない。もう執務の時間だな」
「もちろん、それもあります。しかしながら本日は、秋晴れの良い天気でもあり、私も雲海の下に降りてみたくもあったのです」
「ほんと?」

そういって、小首をかしげ、上目遣いをする陽子は、とても慶国を治める国主とは思えないほど、浩瀚には稚く見えた。

「秋か……」

陽子はつぶやくと、その良く晴れた空を見上げた。



しばらく前、浩瀚は陽子を探しに雲海の下に降りていた。

 主上は、どこまで行かれたのだろうか? 吉量にまたがった浩瀚は、禁門を出て独りつぶやくと、 下るように手綱を操る。
 台輔のお言葉によれば、冬官府の端に当たる凌雲山の崖まで、まず進んでみよと。
 そこから、見下ろすことの出来る沢に近い林の中にいらっしゃるというのだ。
 女御や女史らの口ぶりから、なんでも最近の主上が行きつけの場所だとか。

「いったい、主上は何をお気にめされたのか?」

浩瀚は、それを確認するのが楽しみでもあり、また心配でもあった。


 陽子は、時に独りを好む。政務に疲れたとき、ふと時間の空いた時、 ふわりと執務室から出て行くときがあるのだ。 大僕である虎嘯を従えて行く時もあれば、本当に独りで出かけることもある。 大概は、四半時もすれば戻ってくる程度の、ほんの気分転換なのだ。 しかし、今日は少し長いこと執務を離れているという。


 赤楽五年となる今現在、金波宮では不逞のやからはほとんど居なくなったといえる。 さらに陽子本人の戦闘能力は上がっているのだ。いつぞやの内乱より、 景麒が必ずといってよいほど冗祐を憑依させるようにしていることも大きい。 ようするに、少しばかり長い時間出かけているといっても、殆ど危険など無いのだ。

 ところが、先だって一刻ほど帰ってこないことがあったのだが、 その時はなんと、余りにも気持ちが良いので外で転寝をしてしまったらしいのだ。 そのあと陽子は、いくら病にかかりにくい神仙とはいえ、体調を崩して難儀したようだった。

 以来、景麒と浩瀚は少しばかり帰りが遅いときは気にするようになっていた。


 どうやら今日は小春日和。昼寝にはもってこいのよい天気だ。 紅葉になりかかった凌雲山を眺めながら、浩瀚は冬官府のほうへ回りこむ。 ここは、自然の梨園になっていて、九月から十月にかけて、 大変美味な梨がたくさんなることで有名なのだ。その梨を目当てに数多くの小鳥が住んでいることも知られている。 この沢を散策すれば数え切れないほどの種類の啼鳥が聞こえるはずだ。 金波宮に少し前から勤めている官吏は皆知っていることである。

「主上も、ご存知だったのだろうか?」

八つ時になると、親しくしている女御や女史らと共に、 甘味に興じる現慶王の顔を思い出し、浩瀚は顔をほころばせた。

 眼下に沢が見える。そのすぐ近く、林が少しばかり開けた場所があった。 良く日が当り、明るい広場になっている。風か、雷か、はたまた樹齢が過ぎたのか、 古木が倒れているのが見える。かの木が倒れた為に、できた広場のようだ。 そこに、浩瀚がめざす赤い髪が見えた。更に笑みを深めた慶国の冢宰は、吉量の高度を下げた。



「そうか、今日は少し休憩の時間が長すぎたな」

倒れた古木に腰をかけていた少女は、ひらりと飛び降りると、浩瀚のほうへ向き直った。

「申し訳ございません。急ぎの案件がございましたので」

そう言って浩瀚は、拱手する。

「本当か?」

陽子は彼を上目遣いでじろりとにらみ、そのすぐ後、大きな声で笑った。

「いや、申し訳ない。もう戻るよ。余りにも気持ちが良かったんで……」
「転寝なさいましたか?」

浩瀚も笑っている。

「いや、今日は違う。秋らしい日差しなので、気持ちが良かったのは事実なんだけど」
チイチイ、ケラケラケラ、チチチ……
すぐ近くで突然小鳥の声がしたと思うと、ばさばさばさと羽音が聞こえた。そちらに視線を移した浩瀚は その視界を陽子のほうへもどした。
「主上は正直でいらっしゃる。では、その気持ちよさに誘われて、何をしておいでだったのですか?」
「蓬莱のことを思い出していた」

陽子は、ぽつんと話し、すぐに黙って俯いた。浩瀚は逆に心配になった。 昼寝のほうが、まだましだと思ったのだ。


―― 主上が、こんな風に蓬莱のことを思い出されるのは、今に始まったことではないのだが、 やはりまだ、未練がおありなのか? ――


 陽子は16歳をすぎて高校生活を送っていたところ、突然景麒によって常世に呼ばれた。 その、景麒とは離ればなれになり、何がなんだかわからないまま、妖魔を倒し、 巧国の兵を欺き、雁国という国に着いてみれば、自分は隣の慶という国の国王だという。 本人にしてみれば、びっくりさせるのも大概にしてほしいというところだ。


 そんな風にしてこちら側へ来たものだから、未練が無いといえば嘘になる。 浩瀚はそういった主上の想いが自分たちでは完全な解決には届かないことを知っていたが、 いつもの陽子が見せる切なそうな表情を思い出し、何とかしてさしあげたいとは思っていたのだ。

「どんなことを思い出されていたのかお聞きしても?」

浩瀚は、遠慮がちにたずねる。しかし、陽子は意外なくらいあっけらかんとして、笑いながら答えた。

「ああ、いいとも。たいした話じゃないから笑うなよ」
「そんな、滅相もございません」
「うん、そうだね。浩瀚だけは私の蓬莱話を笑ったことは無いな」

陽子は、そういうと、自分が今まで腰掛けていた倒れた古木にもう一度座り、 浩瀚に向かって同じように腰を下ろすよう、とんとんと自分の指で古木の幹をたたく。 彼は穏やかに笑むと、古木の端を、右手でさらりとなで、硬さや感触を確かめ、 懐からすいっと手巾を出して敷き、その上に、袂を払いするりと腰を落ち着ける。

「浩瀚、お前そんなことまできちんとしているんだな」

感心して見ていた陽子は、率直な感想を述べる。彼はまた、ゆるく笑う。

「長い間官吏をしておりますと、つまらないことが身についてしまいます」
「そんなことは無いさ。とても綺麗だ」

両手を合わせた浩瀚は、陽子に向かって拱手して見せた。 どうやら、いつもの冢宰が纏う官服ではなく、移動用の軽い袍衫を身に着けてきたらしい。 だからこそ、古木の上だろうがなんだろうが簡単に腰を下ろしたのだ。 でなければ、陽子に気づかれないように、ごく自然な理由をつけて、 腰を下ろさず立っていたかもしれない。いや、彼はどんな格好をしていても、 陽子の命は受けるかもしれないが。ともあれ、軽装だったのは吉量に乗ってきたのだから当然といえば当然だが、 その吉量は、どこかに繋いできたのか傍にはいなかった。

「ここに座るとね。周りがとても自然な感じがする。心地良いんだよ。 木の葉が色づいて、秋が目に映るんだ。そうしたらね、 蓬莱では秋という季節に色々な言葉を当てはめて、使っていたことを思い出したんだ。 あのころは当たり前にやっていたことが思い出されてさ。少し、しんみりしてしまったかな」

そう語る陽子は、その時はなんだか切なそうだった。

「どんな言葉を当てはめるのですか?」
「そうだね、始めに思い出したのはスポーツの秋かな?」

陽子の顔が、明るく前向きになる。

「すぽーつ? と申しますと??」
「ああ、すまない。これも英語だったね。ええとね、なんて言えばいいんだろう?  体操とか、運動とか、からだを動かすことだよ。 それで、蓬莱では一番気候が安定していて晴れた日の多い秋に、 『運動会』というのがあったんだ。みんなそろって一日外で、 グランド……ううん、運動できるような広い平らな場所を使って、 たくさんの競技をして競い合うんだ。走る速さとか、 二つの組に分かれて綱を引き合ってどちらの組が強いかとか」
「面白そうですね」

浩瀚は、もう少し慶が落ち着いたら、そういった事も暁天あたりで始めてみたらよいだろうと思った。 人心把握や商業活動によい影響があるかもしれないと考えた。

「それから、芸術の秋という言い方もあったな」
「それも、競い合うのですか?」
「ああ、そうだね。浩瀚は鋭いな。絵を描いたり、音楽を奏でたり、演劇もあったかな。 文学や詩歌もあったような気がする。大きいものは世界中で、 小さいものは、こちらで言えばほんの一区切り、そう里とか。 色々な単位で作品の素晴らしさや、演奏の良さを競い合って表彰されていたかな」
浩瀚が黙っているので、陽子はそのまま続けた。

「それから、読書の秋とか、学問の秋とか。夏に比べて涼しくなって、 頭やからだを働かせるのが楽になってくるから、いろいろなことが身につくんだと思う。 日の入りが早くなって、夜も長くなるから、灯りさえあれば、静かに本も読めるしね」
「なるほど」
「そうだ、そうだ。そういえばね、食欲の秋っていう言い方もあったなあ」
「おや、今までの秋の中で、主上は、食欲の秋が一番うれしそうでございますよ」
「ええ!? そお? そうかなあ?? お前もしかして私をちょっと馬鹿にしてないか?」
「まさか」
「そう? ならいいけど。ほら、柿とかりんごとかみかんとか。私の好きな果物が収穫の時期なんだよ」
「左様でございますね。多くの作物が収穫の時期ですから。慶国も、 主要な産物の一つである稲が、秋の実りを迎えております」
「そうだよね。そういえば、この場所は、なんだかいい香りがするんだけど。 浩瀚は気がつかない?」
「はい、感じております。猿酒かもしれませんよ」
「猿酒って、あの自然な果物なんかを猿が取ってきて、発酵させるって言うあれ?」
「主上、良くご存知で」
「つい最近、太師からうかがった」
「ほう?」
「その話では、梨は梨でも『サルナシ』という種類の梨で作るのだと教えていただいたけど、 今漂ってきている良い匂いは、その『サルナシ』とは違うんだろ?」
「はい、この香りは普通に梨と呼ばれている果物だと存じます。 この場所が、自然の梨園になっているということは、主上はご存じだったのでしょうか?  金波宮では多くの官吏が知っているようでございましたよ」
「へえ? 知らなかったなあ。それって、誰かこの土地に住んでいた人が梨畑を作ったのか?」
「いえ、私が存じている話もうわさの域を出ませんが、 この上にある冬官府のある工匠が、長い時に渡って、 梨の実を投げ落としたということでございます。それで、このように梨の木がたくさんあるのだと」

浩瀚は、その手をあちらこちらに差し伸べては、この木もあの木も梨でございますよ、と説明していた。

「まだ、実が残っていると思うか?」
「はて、それはいかがでございましょう。主だった実は、近くに居る鳥や動物たちの腹の中か、 この場所を知っている人間の物となっているでしょう。しかし、これだけ良い香りがしているとなると、 良く探せば、一つや二つは残っているかもしれませんね」
「そうか!」

陽子はその瞳をきらきらさせて、今にも探しに行きそうな勢いで身を乗り出した。 それでは、息抜きの時間があまりにも長くなりそうだと、浩瀚は感じた。そこで、話題を変えてみる。

「主上は、陶鵲をご存知ですか?」
「ああ、覚えている。というか、忘れられないよ。 あんなに美しくて切なくて、初めて見た時は、どうにもならないほど胸が痛くなったんだ」
「さようでございましたか」
「確か、冬至の郊祠で見せてもらった射儀という儀式の中で飛ばされた矢の的のことだろう?  ものすごく感動した。だから、あの時は、景麒に無理を言ってその役目を担った官吏を呼んでもらったんだ」
「褒美か何かを下賜されたのですか?」
「いや、そうか! そういうこともできたんだな。いや、あの時は感動を伝えたい一心だったから、 ただ、会ってお礼を言っただけだった」

そうか、何か下賜すればよかったな、でも何が良いかなんて、当時の私は絶対わからなかったろうな、 などとつぶやく陽子を置いて、浩瀚はそれが今の主上の良いところなのだと感じていた。 身分の無い「蓬莱」から来た少女は、相手の身分に頓着せず、思ったことをはっきり言う傾向があったが、 浩瀚はそれを良い方へととらえていたのだ。

「その、陶鵲を作る工匠がこの上にいて、梨を投げたと言われております」
「へえ、この上がそうなんだ」

陽子は、感慨深そうに崖の上を見上げた。反り返っている険しい崖には、 建物など何も見えなかったが、確かにそこに冬官府があるのだろう。

「あれは、とても美しかった。そして、なんだか悲しい感じがしたんだ。 細かく砕ける陶鵲のかけらが、まるで空気に溶けていくようで、きれいだった。 それが無くなってしまう、そんな切なさを思った。 そうか、その工匠も何かを思って梨の実を投げたんだろうか?」
「左様でございますね」
浩瀚も空に突き出した崖を見上げる。谷の底から見上げるので、 あまり広い空ではなかったが、秋の空はひどく青かった。

「でも、投げられた梨は、砕けて無くなったりせずに、こうして梨の林になったんだな」
「はい」

何か考え込んでいる陽子を見て、浩瀚は言葉を続けた。

「主上、射儀に陶鵲を用いるようになったいきさつをご存知でしょうか?」
「いや、申し訳ない。それはわからない」
「いえ、失礼いたしました。おそらく、誰もが知っているというわけではないと思いますが、 陶鵲にはこんな昔話がございました」

そう言って浩瀚は話し出した。



 あるとき、弓矢を使うことを得意とした軍が、動いている敵を撃ち落とすために、 的に生きている鳥を使って訓練しようとしたのだ。そこには、鴉のような姿かたちをした、 黒い頭に白い胸をもった鳥が多く生息していたので、これを的に見立てて射ようとした。 しかも、彼らは群れを作らず、一羽ずつ別々に行動するという。的としての難易度も高くなる。 遊興の狩猟とは異なって、軍事訓練にはもってこいだった。

 この鳥を射ようとしたとき、鳴き声が聞こえてきた。

「カチカチカチ……」

それを聞いた将軍は、

「待て、これは勝ち勝ちと聞こえる。このように泣く鳥を、的にして撃ち殺してはまずいだろう」

そう思ったという。

 これが、鵲(かささぎ)という鳥だったそうだ。 この鳴き声に免じて的にするのはやめ、逆に戦の前には縁起を担いで、何羽も放したという。
 ところが、敵陣からみれば、相手方の鵲を打ち落とせば、 自分のほうに勝ちが回ってくると思うのは当然のことだろう。 結果的に、争いが増えれば、撃ち落とされる鵲の数は増えることになった。
 これを当時の心やさしい景王が、人の争いに鵲を巻き込まないようにと、作り物の鵲を用いるように定めたという。



「これが、陶鵲の始まりといわれております」
「ふうん、そうなんだ。鳥がかわいそうなら、争いのほうを止めればいいのに」
「本当でございますね。ですから、段々と儀式化して、 何か国の大きな行事のある時の祝い事として、発展してきたのでございましょう」
「ああ、そうか。争いを止めるのは、我々の責任だからな。なるほど、それは心にとどめておく」
「ですから、射儀と一言で申しましても、大射と燕射と二種類があるのでございます。 主上がご覧になりましたのは、その大射のほうでございましょう」

「浩瀚? 大射とエンシャって言ったか??」
「はい?」
「エンシャってなんだ? 初めて聞くぞ」
「これは、失礼いたしました。こちらは、宴席などで催される、そうですね、 大衆の言葉で申しますと、射的でございますよ」
「的を射るのか?」
「はい。陶鵲も本当はこちらが主だったのかもしれません。投げ上げられた陶鵲を射て、その数を競うのでございます」
「あんな、美しいものをいくつも壊してしまうのか?」
「いや、主上がご覧になった陶鵲がどんなものかは存じませんが、陶器で作った円盤もしくは角盤でございます。 装飾などは簡素なものでございますよ」
「ふうん、でも、結局射落とせば壊れてしまうんだよね」
「それはもちろん、そうでございますが」
「射ても壊れない陶鵲って作れないかなあ?」
「は?!」
「え、そりゃまあ、何十回も射られれば壊れてしまうかもしれないけどさ。 なにかこう、射落としてもまた使えるような陶鵲があったら、 その燕射という射儀も気軽に行えるのではないかと思ってさ」

浩瀚は、涼しい顔をしていたが、心の中で唸っていた。 陶鵲とはその壊れ方が美しいから価値のあるものとされてきた。 また、王宮でも本の一握り、王とそのまわりの僅かな高官しか見ることがかなわぬもの、 そんな常識があるのだが、この方はその枠を簡単に越えてしまわれる。 これこそ、天帝が今の主上をお選びになった理由だろうと思った。

「では、夏官府に依頼しておきましょうか」
「そんなこと、できるのか」

ひどく感心したのか、眼を大きく丸く見開き、陽子は浩瀚を見た。 その、しぐさが思いのほか子供っぽく幼く見えたので、浩瀚はくすりと笑うと、

「はい、ほかならぬ主上のご意向でございますから」

そう、真面目くさって肯いた。
 そんな浩瀚をみて、陽子もたまらず、ぷっと吹き出した。

「あはは、わかった。浩瀚、ありがとう。こんな戯言にも付き合ってくれて、私は嬉しい。 もう、帰ろう。そのためにわざわざ、下に降りてきたんだろ」
「ご理解いただき、深く感謝いたします」
「いやいや、私が長居をしすぎた。迎えに来てくれたこと、礼をいう」
「何をおっしゃいますか」
「ううん、本当だよ。では、正寝へ帰って午後の執務に専念するとしようか」
「はい」

二人は、少し傾いた太陽をまぶしそうに見上げると、陽子は班渠を呼び、 浩瀚は指笛を鳴らす。小首を傾げる陽子をみて、浩瀚は視線だけで微笑むと、 その見ている先を陽子の後ろの林に移した。はるか向こうに、吉量の影が見える。

「浩瀚、私が班渠と共に降りていることを知って、吉量を遠ざけておいたのか?」
「はい」
「やはり、普通の騎獣にとって、使令というのは怖いものなんだな」
「そのようでございますね。妖魔の気を感じるのでございましょう」
「わかった。出かけるときは気をつけるよ。吉量にまで気を遣わせては、申し訳ない」
「おや、主上にお気遣いさせていただいた私には一言もないというのに、騎獣には情けをお掛けになりますか」
「あははは、浩瀚は変なことを言うなあ。お前、もしかしてすねているのか。いや、冢宰が国主の身を案じるのは仕事だろ?」

陽子は、笑っていた。浩瀚は、にこりと口端を上げ、拱手する。

「先に行くぞ」

そう言って、班渠の背にまたがって、陽子は禁門へと飛び立った。浩瀚は、そんな陽子の姿を見送ってため息をつく。

「私は、主上を仕事だからという理由で、いつもご心配申し上げているだけなのだろうか?」

林の中にいた吉量は、班渠が去ると、とことこと浩瀚のところまでやってきて、止まった。 その背にまたがると、浩瀚も上を目指した。



 そのようなことがあった何日か後、これもよく晴れた秋の日であった。
 射鳥氏に使える羅人の丕諸は、上司である遂良に呼ばれていた。 遂良に使える下官が、丕諸の住んでいる官邸まで血相を変えて駆け込んできたからだ。 とにかく早く来るようにという命なので、彼はとるものもとりあえず夏官府に向かった。
 射鳥氏の府署へ着いた丕諸は、そのまま奥まった部屋に通される。 いつだったか通されたことのある堂屋だったような気がしたが、今はその時とは季節が異なる。 向こうが見渡せるほど開いていた露台は、しっかりと扉が閉められ、寒気が入ってこないようになっていた。
 部屋の中央にある卓には二人の男が椅子に座っていた。 遂良はその後ろに立っていた。明らかに遂良よりも位の高い官吏がいるのだろう。 丕諸は、とりあえずその場に跪礼した。

「おお、よく来てくれた。丕諸、こちらは左将軍と、慶国の冢宰であらせられる。 我々がめったにお会いできる方では無い。それが、どうしてもお前に直接会いたいと申されてな」

遂良はかなりあわてているらしい。視線を上下左右に隙なく動かし、両手を握ったり開いたりしている。 額にはうっすらと汗をかいているようだ。時々座った二人の男を盗み見ている。 丕諸は、自分の上司の様子が相変わらずなので、気付かれないようにそっと溜息をついた。

 もちろん、左将軍とは桓たいであり、冢宰とは浩瀚のことである。 射鳥氏は夏官府に所属しているため、遂良にとって、左将軍は心理的には身近なものになるが、 冢宰と言ったら、ほとんど台輔か主上と同異義語になってしまうのだ。 慌てふためくのも仕方ないといったところだろう。

「どうぞ、面を上げてください。今日は我々は一私人としてまいりましたので、 そのようにかしこまらないで頂けると幸いです」

顔を上げた丕諸は、この言葉が冢宰から発せられたので、少々いぶかしげな表情をした。 ずいぶん丁寧な言葉遣いだ。そういえば、遂良に初めてこの場所に呼ばれた時も、 自分のようなたかが羅人に対して破格の待遇だったことを思い出した。

 また何か射儀に対して要求があるのだろうか?

  登極してすぐの大射では、主上から直接お言葉をいただき、 そのことでもうやめようと思っていた羅人としての仕事も、まだ続けているわけだが、 残念ながらその後の射儀は、郊祀の祭りでも略されていた。 もちろん、理由は経費削減だ。丕諸にしても、 民人から徴収している税の使いどころに優先順位をつけることに、文句は無い。 それでも、射鳥氏や羅人への予算がつかなくなったことはないので、感謝していたくらいだった。

「丕諸、といったな」

今度は、左将軍から声がかかった。人好きのする顔に、中肉中背の体。 気さくな雰囲気を伴う、これが慶国禁軍の左将軍かと丕諸は思った。 もっと厳つい武人風の男かと思ったが、意外な感じがした。
 丕諸は肯定の意味で黙って頭を下げる。

「主上が、燕射を所望なのだ」

丕諸は驚いて左将軍の顔をまじまじと見つめた。

「うむ、お前の表情はよくわかるよ。いや、うちの主上はめったに ご自分のことで何かを求められるようなことはないんだ。 これは珍しいことだと思ってもらってかまわない」

丕諸は黙って聞いていた。

「それがな、ただの燕射では無いんだ」
「ただの燕射では無い?」

桓たいの笑みに誘われて、丕諸も思わず口を開く。

「おおお、そうなのだよ、丕諸。お前の腕を見込んでの、お願いなのだそうだ」

遂良も、揉み手をするのではないかと思われるほどの勢いで、丕諸の顔を見る。 首をかしげている丕諸を見て、桓たいは浩瀚のへ視線を移す。にっこりとほほ笑んだ慶国の冢宰は、

「燕射は、的になる陶鵲を射ぬいて、その数を競うのだと伺いましたが、それでよろしいですか?」

と、確認した。穏やかな物言いに、丕諸は

「その通りでございます」

と、答える。

「主上は、その的が何度も使えるとよいのに、とおっしゃっておりました」

丕諸は、思わず上司である遂良の顔を見る。遂良も、同じように丕諸の顔を見た。 その目は大きく見開かれている。やがて、遂良は口を開いた。

「あ、あの冢宰……」
「はい、何でございましょう?」
「それは、矢で射ぬいても壊れない陶鵲という意味でしょうか?」
「と、思われます」
「それは……」

不可能でございます、と続けようとした遂良を、丕諸が遮った。

「主上は、なぜそのようなことをおっしゃられたのでしょうか?」
「はて、実は私にも計りかねるのですが、おそらくは」

そこで、浩瀚は言葉を切った。丕諸は固唾をのんで見守る。

「もったいないからではないでしょうか?」

遂良があからさまに怪訝そうな顔をするのと、桓たいが

「浩瀚様、それは本当ですか!?」

とあきれ顔で尋ねるのが同時だった。
 浩瀚は、そんな二人の様子をまるで予想していたかのように、くすりと笑うと、

「いえ、主上がはっきりとそうおっしゃられたわけではないのですが、 壊れることが前提の陶鵲をいかにもおしいという面持ちで語られていましたので。 大射であなたが作られた陶鵲は、主上は大変お気に召していらっしゃったようですよ」
「いえ、もったいないお言葉ではございますが、作ったのは冬官府の工匠達でございます」
「丕諸、せっかくお前の仕事を評価していただいたのに。冢宰に向かってなんということを!」
「射鳥氏殿、よいのです。丕諸の言う通りですよ。 慶は優秀な工匠を持って、主上もお喜びのことでしょう。 大射でご覧になった陶鵲も、砕けてしまうのが切ないと思われたのでしょう」
「それで、壊れない陶鵲を?」

丕諸は、冢宰の目をまっすぐに見ていた。浩瀚は、静かに頷く。

 丕諸は、少し考えていた。

「いつまでにおつくりすればよろしいのでしょうか?」

遂良の顔が青くなる。そんな約束をして大丈夫なのかという表情だ。それには、桓たいが笑って答えた。

「期日は決まっていないさ。これは、我々からの私的な願いだからな。 主上が作れと命じたわけではないのだ。遂良殿、そういうことだから、 できるできないはともかく、こちらの羅人に命じてはくれないか。 その研究にかかる費用のほうは、俺、いや私とここにいる冢宰でなんとかするから」
「これは、ありがたき幸せ。丕諸、どうだ? やってみてはくれまいか?」
「はい、難しいこととは存じますが、面白いご提案かとも思われます。 ぜひ冬官府の工匠と相談して、試作してみたいと思いました」

丕諸は、ほかならぬあの主上がお考えになっているならばと、そう思った。

「そうですか。それはありがたい。よろしくお願いしますよ」

柔和な声で丕諸に語る男、これが慶を統べる百官の長なのかと、 今一度その瞳を見つめ、丕諸は深々と跪礼した。



 丕諸は、次の日朝早くから、冬官府の陶鵲を作る工房へ足を運んだ。

「青江、青江はいるか?」
「丕諸様!」
「おお、ほかでもない。皆、集まっているか」
「はい、いったいどうなさいました?」
「面白い依頼が来たぞ」

青江は首をかしげる。丕諸は、笑いながら昨日のことを伝えた。

「左将軍と冢宰が直接丕諸様にお声かけをされたのですか!?」
「信じられないか」
「はい、まったく」
「こいつ、正直なやつだ」

笑い声が工房に響く。

「それにしても、壊れない陶鵲とは」
「そうなんだ。今までの主上とは一味違うと思っていたが」
「いままで、考えたこともなかったですよ。先だっての大射でも、 『消えてしまう』ということは考えたのですが」
「まったくだ。まったくもって面白い。主上が主上なら、 お側にいらっしゃる冢宰や左将軍も面白い方々だった。 主上は燕射をやってみたいのだそうだ」
「なんだか、腕が鳴りますね。素材のほうも考えなくては! 硬い木なんかはどうですか?」
「うむ。一緒に考えよう」

この日、工房では夜遅くまで話し合いが続いたという。



「浩瀚様、いかがでしたか? 別に何でもなかったでしょ?」
「そうだな」
「まったく。初勅以前に直接お声をかけられた下官をすべてご自分で確認しようなんて、 無理ですよ。うちの主上は、登極したてのころは ほとんどすべての下官に声をかけていたようですからね」
「いや、あまりに陶鵲は素晴らしいとほめるのでね」
「男のやきもちはみっともないですよ」
「なんだと!」
「いいえ、なんでもありません。それより、本当に主上が燕射を催されるんだったら、 俺も弓を練習しておこうかと思っているんですよ」
「それは奇遇だな」
「何がです?」
「私もそう思っていたところだ」
「よくいいますね。主上にいいところをお見せしたいんでしょ?」
「どちらにしろ、大学以来だからな。練習しないと」
「おや、本気ですか?」
「あたりまえだ」

回廊を渡る男二人、その間をまだ温かい秋の風が流れていく。

穏やかな慶国の午後であった。



                         おわり