第三節




 ようやく冬至の郊祀も終わった次の日、金波宮が静かになったと思ったのもつかの間、朝議の前に大変なことが起こった。 雁との国境近くで、蝕があったという報告を受けたのだ。 陽子をはじめとした、金波宮重臣たちは、取るものもとりあえず、時刻を早めて暗いうちから朝議を開いた。

 伝令はこのころになるとよく訓練され、詳しい知らせが半刻おきぐらいに、次々と入ってくる。 それを待ちながら、陽子たちは被害状況の把握と、救援活動の実施について検討していた。

 そのあたりは山になっており、里はほとんど無いということだった。 山の頂がそっくり削り取られたということだが、村人への被害は少ないという。 炭焼き小屋が何件かあり、それらが山ごと崩れたようだったが、今年は暖かく炭の需要がそれほど多くはなかったので、小屋で寝泊りしている村人はいなかったということだった。

「ふう、みんな朝早くからご苦労だった。慶国のためにすまない」

陽子の声に、集まった官達は改めて跪礼をする。

「それでは、諸官の皆様、これより通常の朝議を執り行います。よろしいか?」

冢宰の朗々とした声が響いた。



 朝議を終えた陽子は、浩瀚と共に久しぶりに回廊から雲海を眺めていた。 穏やかな小春日和が続き、姫椿の紅い花が園林に良く目立つ。 生垣のように並んでまっすぐに刈り込んであるもの、自然のままで枝を伸ばしたもの。 大輪の椿にくらべ、ちいさくかわいい花だったが、陽子はこの花が好きだった。

「たいした被害が出ていなくてほっとしたよ、浩瀚」

ふうっとため息をついて、陽子は冢宰の顔を見た。

「はい、蝕だけはあらかじめどこに起こるか予測ができませんので」

「そうだね」

そう言った陽子の長い髪を勢いのある風が突然通り抜けて行った。雲海の上であるにもかかわらず、今まで穏やかだった天気が、二人に向かって、急に鋭い冷たさを感じさせたのだ。

「うわっ、寒い!」

「主上、大丈夫ですか? 中に入りましょうか」

「いや、もう少しお前とここにいたい」

そう言った陽子のうなじの向こう、雲海の下、西側から真っ黒な雲が近づいてくるのを浩瀚は見つけた。

「主上、あちらをご覧下さいませ」

陽子は浩瀚が指差した方向を見る。

「久しぶりの雲だな。それに、寒さが強くなった気がする」

「左様でございますね。ひょっとすると、今回の蝕が影響しているかもしれません」

「ああ、雁国との国境であったんっだったな。そうか、山が崩れて向こう側の寒気が流れてきたか?」

「はい、山が崩れただけではなく、おそらくは蝕の嵐に引きずられて大気までもが動いたかと思われます」

「そうか、堯天もやっと冬らしくなるね」

「左様でございますね」

 このとき、陽子は賭けのことをすっかり忘れていたが、浩瀚は良く覚えていた。もしかすると、賭けに勝つのは主上かもしれないと、そう思った。



 十二月二十三日の夜、堯天では急に冷え込み、北西から流れてきた雲がさらに厚みを増していた。 人々が、年末の準備を夜を徹して忙しく行っているなか、吐く息は白く、かじかんだ手を合わせながらふと空を見上げると、白いものがふわりふわりと落ちてきた。

 雪だ。

 この冬初めての雪が降った。 二十四日の朝、堯天では、はらはらと落ちてくる冷たい花びらのような雪を見ながら、薄く積もった雪の上で、寒さに耐えながら行きかう人々を見ることができたのだ。

 朝早くから陽子の元へ、鈴が報告に来た。

「陽子! もう起きている?」

「うん、起きているよ。どうしたの、こんな早くから」

 陽子は、官服こそまだ着ていなかったが、床を払ってその紅の髪を整えていたところだった。

「堯天に雪が降ったのよ。あんなに暖かかったのにね。やっぱり蝕のせいなのかしら。急に寒さがひどくなったと思ったら、昨夜から降り始めて、まだ降っているわ」

「雪はひどく降っているのか?」

「ううん、大丈夫。ふわふわと、舞い落ちてくる感じ。広途はまだ積もっていないし、わき道へはいっても、うっすら白くなっている程度よ」

「そうか、それなら仕方ないか。みんな、年末の掃除や、新年の支度で大変だろうに」

「ふふ、大丈夫よ。今まで乾燥していたから、かえっていいお湿りだわ」

「そうか、それならいい」

と、突然陽子は思い出した。

 浩瀚との賭けを。

 陽子は顔が赤くなるのを感じたが、鈴は寒さのせいだと思った。

「なんだか顔が赤いわよ、陽子。一枚上にはおったら?」

「ああ、そうする」

そういいながら、陽子は朝議の時に、他の人には知られないように、自分の望みを浩瀚に伝えることができるかどうかを考えていた。



 その日の朝議では、堯天で初雪が降ったことが報告されたが、それ以外はごく普通に過ぎていく。

「では、本日の朝議はこれにて終了とする」

浩瀚がそう挨拶をしたあと、景麒が後ろを向き仁重殿に向かって退出していくのを確認しながら、陽子は浩瀚を呼び、その耳元で何かを囁いた。 浩瀚は少し目を見開くが、そのまま拱手してやはり冢宰府へと退出していった。


 桓たいはひとりつぶやいていた。

「浩瀚様、主上との賭けに負けたんですね。 では、主上は浩瀚様に何をお望みになるんだろう?それにしても、あれだけ暖かかったのが、急に寒くなって雪まで降るとは。 蝕が原因とはいえ、うちの主上は、よくよく運がお強いと見える」

ま、お二人が幸せなら、俺はどちらでもいいけどな。桓たいはそう思っていた。


 さて、それから丸まる半日過ぎた、今は亥の刻(午後十時ごろ)あたりか。浩瀚は、冢宰府から正寝へ向かって回廊を渡っていた。

朝議のあとに陽子は、

「賭けはわたしの勝ちだ。それで本日亥の刻に、正寝まで来てほしい。私の望みはそのときに伝える」

そう耳打ちされたのだ。

 そんな時刻に正寝へ来いと、いったい主上はなにをおっしゃるおつもりか。

 別に桓たいに限らずとも、浩瀚でも期待しないわけにはいかないだろう。女主人が男の臣に向かって夜も更けてから自分の部屋に呼びつけるのだから。

 しかし、恐らくちがうだろうな。

 浩瀚は思う。むしろ、私自身の心を抑えるのに苦労するかもしれないのだが。 ふと、回廊から園林を見下ろすと、昨日にも咲いていた姫椿が、あたりの淡い光に照らされ、紅く揺れている。

 では、この紅い姫椿を主上に献上させていただこう。

   そして、自分の心へ枷をかけよう。

 幸い、仕事も残っている。早々に退出する良き理由となりそうだ。

   そう思って浩瀚は園林に降りた。

 そっと、手折り手巾に包む。

 正寝は静かだった。出迎えは鈴がひとり。通されたところは、正寝でも奥まった陽子の寝室があるすぐ隣の部屋だった。

「主上、お召しにより参上いたしました」

「うん」

椅子に座り卓についている陽子の声は、心なしか上ずって聞こえる。緊張されているのか。なぜ?

 浩瀚は平静を装う。

「こんな時間に、こんなところへ呼び出すとは、といって、私をいさめたりはしないのか?」

「はい、お諌めしようとも思いましたが、今回は賭けに負けての参上でございますので」

「いささか、奔放な要求も呑んでやむなしか」

「御意」

 陽子は、寝巻きではなかったが官服を脱ぎ、くつろいだ様子をしている。 暖かそうな上着を羽織ってはいたが、その下には体の線がはっきりとわかるような絹の薄い襦裙を着ていた。

 目の毒だな。浩瀚は跪礼して頭を下げる。

 赤い髪が一くくりにされている。その髪の持ち主が、返答をした浩瀚の顔を見て少し首をかしげる。

「かわいい」と、「美しい」と、「いとおしい」が、浩瀚の頭の中でぐるぐると回った。

「ねえ、浩瀚。その手に持っているものは何?」

「ああ、こちらでございますか」

我に返った浩瀚は、回廊の途中で取ってきた姫椿のことを思い出した。

「こちらを献上させていただきたく存じまして、お持ちいたしました」

 浩瀚はそっと、手巾を開く。手折られたばかりの紅い姫椿が甘い香りと共に陽子の目の前に現れる。

「ああ、きれいだ」

「恐れながら、御髪に挿していただきたく存じます」

「ありがとう。ぜひ頼む」

 陽子はくつろいだ姿勢を直し、手をひざの上にのせ背筋を伸ばした。

 浩瀚は立って後ろに回り、長めに折った枝をくくった髪の中に挿していく。

 椿の香りと、陽子の香りが、浩瀚の鼻腔をくすぐる。

「よく、お似合いです」

「そう?うれしいな」

 陽子は、鏡を探したがそばには見当たらなかったので、それはあきらめて、改めて浩瀚に向き直った。

「なぜか、初雪の降る時期は、私の予想がほぼ当たってしまったね」

「左様でございますね。びっくりいたしました。 慶国ではこの時期に降ることがまったく無いわけでもございませんが、あのように暖かい日が続いたあと、まさか蝕によって寒気が突然入り込んでくるとは。 誠に興味深いことでございます。それにしても、主上とは、賭け事などしないほうがよろしいようでございますね。 めったに起きないことが起こってしまいそうでございます」

「あはは、そうか?そんなことはないだろう。たまたまだよ。で、でね?」

「はい?」

「言うことを聞いてくれる約束だったよね?」

「はい、確か私的なことで、と記憶してございます」

「うん、それで、それでね。あの、KISSをしてもらえないだろうか?」

 最後の方はうつむきながら消え入りそうな声だった。だが、浩瀚はしっかりと聞き取っていた。

 陽子は真っ赤になっている。浩瀚は軽く目を見開いてみせる。

「いや、あの、おでこ、額でいいんだ。ちょっとだけでいいから。蓬莱で言う、お休みのKISSというやつでいいんだ。言葉、伝わっているかな?」

「主上の額に私が接吻をするということでございますか?」

「そう、そうなんだ。そうだね、意味伝わっていたね……」

「額だけでよろしいので?」

このとき、浩瀚の目が笑っていないことに陽子は気がついていなかった。

「うん、だけでいい。一瞬でいいんだ。ほんの少しでいいんだ」

「ほんの……少しでございますか?」

今度は幾分苦しそうな表情だったが、それは困ったことを頼まれたという風にしか、陽子には伝わらなかった。

「あ、どうしてもだめなら、無理にとは……」

「いいえ、喜んでさせていただきます。では」

 浩瀚は、陽子の後ろ髪に挿してある赤い姫椿を横目で確認しながら、彼女の両肩に自分の両手を軽く置き、額に唇をそっと押し付けた。

 ぬるっとした感触と、浩瀚の香と先ほどまで仕事をしていた墨の香りが混じる。

 陽子は、軽い目眩を感じた。頭の中が白くなっていくようだった。

「……主上、主上!」

「あ、ああ、ありがとう」

「では、これにて下がらせていただきます」

「あ、うん。まだ仕事なのか?」

「はい、冢宰府にて、いま少し書状の点検をいたします」

「うん、ありがとう。おやすみ……」

「お休みなさいませ」

 丁寧に拱手して去っていく男の後姿を、ぼうっとしてみていた陽子は、たまらないほどの倦怠感を覚えて、すぐに床に就いた。



 浩瀚は、回廊に出ると疲れが全身を覆うのを感じた。 確かに、桓たいのいうとおり、自分の心はもう限界なのかもしれない。今日は何とか姫椿に支えられたが、次にあんな機会があったら、もう私は我慢はできない。

 そうしたら、主上はどう思われるだろうか。

 私のことを厭われるのか……    それとも?



 姫椿の花言葉、それは「高潔な理性」。

 今の浩瀚が求めて止まないもの。



             終わり

旧後書き

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