赤楽3年、
四月も十日ほど過ぎ、陽子の大好きな桜が満開を過ぎて散り始めたころ、金波宮では朝議にて、そろそろ始まる稲作についての予算が審議されていた。
麦州から、珍しく予算請求があったのだ。
麦州は丘陵地が多く、そこに棚田を作ることで、米の生産を支えてきた。
その、棚田を支える生垣の補強をしたいという要求であった。
冢宰が麦州の州侯を務めていたこともあり、かえって麦州の要求は通らない。
冢宰が賛成すれば身びいきだといわれかねないからだ。
浩瀚は、麦州から来た州侯代理には、特に自分から何かをしたりはしなかった。
本当に要求を通したければ、それなりの準備を、当人達がするべきだからだ。
審議の方向を、浩瀚は静観していたといっていいだろう。
麦州の使者達は、口々に美しい麦州の棚田の話を、朝議の場で訴えた。
そのころは、陽子はもう、朝議で諸官の座っているところまで降りてきてしまうようなことは無かったが、そのときは身を乗り出して聞いていた。
その様子を、隣にたたずむ景麒は、「みっともないので、王座にきちんとお座りなさい」とたしなめていたが、
その下で朝議の進行を預かっていた浩瀚は、そんな陽子を見て微笑んでいた。
この話を聞いて、陽子は麦州の棚田を見たくなってしまったのだ。
その日の朝議が終わるとすぐ、陽子は浩瀚を呼んで、麦州の棚田について、浩瀚から直接様子を聞いてみようと思った。
「今はまだ水をはってはいないと思われますが、もしよろしければご覧になられますか?」
珍しく、浩瀚が物分りのよい提案をしてくれた。
喜んだ陽子は、景麒に相談する。
「そうですね。主上がそうおっしゃるのでしたら、一日ぐらいは視察に行かれても支障はないかと存じます。
政務の方は太師と相談して、私と執り行うことにいたしますので、左将軍に連れて行っていただくとよろしいでしょう。
しっかりと検分なさっておいでなさいませ」
「うん。ありがとう、景麒!」
お土産を持って帰ってくるという陽子に、そのようなものは結構でございますから、一刻も速くおもどりなさいませと、慶国の麒麟は憮然として語る。
お前、せっかくいい気分で土産の話をしたのに、ゆっくりしていらっしゃいませとか言えないのかと陽子が膨れれば、
そのように私が言うと、主上は本当にのんびりされてしまいますので、と言い返される。
鈴と祥瓊は、口に手を当てながら、
「相変わらずのお二人だわ」
とこっそりつぶやいた。
桓たいは、陽子には空行師と共に行っていただこうと考えていたのだが、
「一刻も速くもどる」ためには、台輔の使令をお借りするのが最も安全であろうという結論に至り、
班渠が二人を乗せていくことになった。
次の日の朝早く、桓たいと陽子は、簡素な官服を着ると禁門から班渠に乗って、麦州を目指した。
麦州の棚田は、丘陵を丁寧に生垣で囲みながら、小さい田を上から下へいくつも連ねた、大変美しい形状をしていた。
班渠の背から見た棚田は、連続したさざなみのように畝が優しい曲線をえがいて、陽子の心に迫ってくる。
大きな石をいくつも重ねて、上から土が流されないようにした生垣。これが壊れては、棚田では決して米はできないだろう。
こんな美しい景観があったのだと、班渠の背に乗り空を巡りながら、陽子はしばらくうっとりと見つめていた。
まだ、水を張ってはいない田に稲の切り株が整然と並ぶ。
きちんとした、それでいてその景色は、陽子の心をその深いところから、まるで田を掘り返して平らかにするかのように、揺り動かしていたのだ。
まだ冷たい空気を吸い込む。
棚田をよく見ると、青々と茂った部分がある。
「あれは、稲ではないよね」
そういって指差す陽子に、桓たいは、
「主上、あれは麦ですよ」
と、答えていた。
「きれいだね。麦州、麦州だから『麦』なの?」
陽子の問いに、にやっと笑うと桓たいは、
「『麦酒』の麦じゃないかな?」
などという。陽子は、班渠の背にまたがったまま、大きな声を出して笑っていた。
「それはだじゃれなの?よく言うよ、桓たい。そういえば、麦州のお酒はおいしいんだって?」
「と、俺は自負していますけど。麦州は、いたるところで湧き水が出るんです。
それほど、水量は多くありませんけどね。そのせいか、麦州の特産物といえば、綺麗な水を使うものが多いようですよ」
「ふうん、だから棚田も多いのか?」
「いやぁ、その辺になると俺の知識も怪しいですね。州の地官府のやつらか、そう、浩瀚様なら、良くご存知でしょうけど」
「うん、そうか。でも、冢宰をつれて視察には行けないよね」
「ま、そういうことです」
「ねえ、降りてみてもいいかな」
「大丈夫でしょう」
「班渠、どこか降りる場所はある?」
ここは、麦州でも瑛州に近い州境であった。「早く帰ってきてください」という景麒の願いを受け、それほど奥まで入ったところではない。
班渠は、棚田が緩やかになった、比較的平地に近い形状の場所を見つけると、陽子に降りることを告げた。
「主上、あちらの空き地がよろしいかと」
「うん、頼む」
すうっと体が下向きになるのを、下腹に力を入れて、班渠から落ちないように調節する。気がつけば、桓たいがうしろから片手でしっかりと支えてくれていた。
そこは日当たりのいい小さな閑地であった。
棚田の一枚を、わざわざ空き地にしたような、そんな風情があった。
広さにしておおよそ、百歩ほどの土地である。
そこには、桜の木が二本植わっている。花が終わってちいさな実と小さな若葉が出て、きらきらと日の光を受け、輝いていた。
もう一本、木が植わっていたが、それは花も葉も、まだ出てきてはいなかった。
そこへ、この辺の棚田を耕しているのであろう民人が、近づいてきた。
班渠は、陽子の影に遁行する。
「おや、誰かと思ったら、お役人様かね」
何か答えようとする陽子を軽く制すると、桓たいはそれに答えていた。
「ああ、麦州の棚田を視察に来たんだ」
「そらはそれは、ご苦労様でございます」
「何をしているのかね。まだ、水を入れるには少し早い時期だろう?」
「はい、そのとおりで。いや、このところ赤子様が国主になられてからというものは、気候が安定いたしましてね。
野山にも野木からたくさんの動物達が生まれとるんですよ」
陽子は、少し顔を赤くした。しかし、うれしそうである。桓たいは、そんな陽子の顔を見て満足そうに笑うと、再びその男に話しかける。
「ほう、それはいいことだが、苦労もあるんじゃないのか?」
「その通りなんで。春は獣達も巣作りで忙しいんですよ。
うっかりすると、棚田の生垣を掘って穴を開けちまうんで。知らずにほって置くと、水を入れたときにえらいことになるんでさ」
「そりゃ、難儀だな」
その時、
「もし、よかったら教えていただきたいことがあるのだが……」
二人の話に、陽子は割って、入っていった。
どうやら、若い娘だがこの方のほうが身分が上らしい、とその民人は感じていたのだろう。幾分言葉遣いが丁寧になる。
「へえ、何でございましょう」
「これは、なんの木なんだ?」
そう言って、陽子は、先ほどの花も葉も一枚も付いていない木の幹を、片手でとんとんとたたいていた。
どこかで見たような木だった。なんだかすぐそばに生えている桜にも似ている。
「ああ、こちらでございますか。桜でございますよ」
「あれ?やはりそうなのか」
陽子は、不思議そうな顔をして、その木を眺めていた。
もっと遅くなってから、花芽が出る種類なのだろうか。
黙っている陽子を見て、桓たいがその男に尋ねた。
「ところで、この場所は、何に使うんだね。棚田にしなかった訳でもあるのだろうか?」
「へえ、ここは実は墓なんでございます」
「え?お墓なの??」
陽子もびっくりして聞き返した。
「何か失礼がなかっただろうか」
不安そうな顔をする陽子に、その民は微笑んで言った。
「お役人様、だいじょうぶでございますよ。ここには、この里の一人が埋められておりますので」
そう言って、彼はその亡き人のことを語りだした。
「まだ、赤子様が登極なさる何年か前のことでした。ここいらにも妖魔が出たことがあったんです。
そんな大きいやつではなかったが、里人も何人か襲われた。
そのときに最後まで棚田を守って戦ったやつが、ここに眠っているんでございます。
何とか妖魔をやっつけはしたんですが、そいつも重傷を負いまして、何日か後に息を引き取りました。
そいつが言うことには、どうか棚田を見渡せるところに埋めてくれ、そう言うんでさ。
そこで、ここの場所を平らにして、葬ってやりました。その後、山に生えていた桜を三本植えました。
農作業の合間に一休みできるようにすれば、あいつも寂しくないだろうと思いましてね。
それが、この3本の桜です。ちょうど、その花も葉もない桜の下に、葬ったように記憶しております」
陽子は、どこの里にも、同じような悲しい歴史があることを知った。過去のことは、陽子にはどうすることもできない。唇をかんで目を瞑る。
「それじゃあ、その男が桜の花を高里へ持って行っちまったのかなあ」
桓たいが何気なくつぶやくと、その民人は、目を見開き首を横に振った。
「そんな、妙なことをするような男じゃありませんでしたよ。この木に花が咲かないのは、一度毛虫にやられちまったからなんで」
「え、毛虫に?」
陽子は思わずぞっとした。毛虫ははっきり言って好きではなかった。
「へえ。最初は3本とも綺麗に花を咲かせていたんですが、ある年、毛虫がこの木にたくさんついたんでさ。
はじめは小さな毛虫だったので気がつかなかったんだが、急に木の上の方が隙間だらけになって、稲の様子を見にここまで来ると、
バリバリと妙な音がするんで気がついたんです。あわてて、たいまつを持って、火であぶったりしたんだが、そのときはもう遅かったんですよ。
青々としていた桜の葉は、瞬く間に坊主になっちまった。」
陽子は、桓たいと共に、その人の話をじっと聞いていた。
「なにかよっぽど、この桜には負担だったんでしょうな。そのとき以来、花が咲かなくなってしまいました」
陽子は、少し寂しそうな顔をしてその男に尋ねた。
「枯れてしまったのか?」
「いや、枯れてはいないのでございますよ。花が咲いている木よりは、少し遅れますが、
葉っぱのほうは同じように出てくるんで、濃い緑の葉が、夏場はよい日影になるんでさ」
そういった男の顔はうれしそうだった。
陽子は、一見何も付いていないようなこの桜の木を、目をこらしてじっと見た。
よく見ると、枝の先に本の小さな葉の芽が出ていたのを認めた。それを確認して陽子は深く肯いた。
陽子は、例え花が咲かなくても、この桜は里人達に役に立っているということがわかって、うれしそうな顔をした。
木の医者がいればいいのに、漠然とそんなことを思っていた。
陽子と桓たいは、話を聞かせてもらった礼をすると、その男は「とんでもございません」といって一礼をした。そうして男は他の棚田を点検に出かけていったのだ。
陽子は班渠を呼び出すと、二人で使令にまたがり、金波宮へと向かう。
「ねえ、桓たい?」
「はい、何ですか主上」
「私は、やはり妖魔と戦って命を落とした、名前も聞かなかったけど、その民人が、桜の下であの棚田を守っているような気がしたよ」
「そうですね」
「麦州の棚田は、本当に綺麗だった。あの生垣が壊れてしまっては、稲作は大変だろうな」
「はい、そうなんですけどね。それと、予算を出せるかどうかは別問題ですから」
どこの州の田んぼも綺麗だと思いますけど、と言う桓たいに、陽子はそれはそうかもしれないね、と言って笑った。
帰り道、金波宮の凌雲山に沿って、ゆっくりと上昇していく班渠に、陽子はちょっと待って、と頼んでいた。
「どうかしましたか?」
桓たいもたずねてくる。
「ほら、赤い花が咲いている」
そう言って、陽子が指差す先には、つる草のように山の端に沿って伸びている植物が、赤い細長い管のような花をつけてゆれていた。
丁度人が立って入れるくらいのうろを見つけて、陽子は穴の横に着けてくれないかと、班渠に頼んでいた。
陽子の執務室ぐらいのうろが、そそり立つ岸壁の中ほどに開いていた。使令と共に来るのでなければ、絶対に降り立つことができないようなところだ。
入り口には枯葉が吹き溜まりを作っていたが、中は意外にも乾燥していた。
中に入ってから向きを変えて外を見下ろすと、めまいがするくらい高い。
「主上、落ちないでくださいよ」
桓たいが心配して、陽子の肩を抑える。
「ああ、ありがとう。ひどく高いんだね、この場所は」
「もうすぐ禁門ですからね。そりゃあ高いでしょう」
陽子は入り口にびっしり生えている、赤い花を枝ごと一本摘み取ってみた。甘い香りがする。
「なんていう花だろう。桓たい、知っている?」
「いや、俺はそういうのはあまり詳しくありませんよ。大師か冢宰にお尋ね下さい。ああ、台輔もよくご存知ですよ」
「そっか。では、これをお土産にもって帰ろう」
麦州の土産はないけどね、といってにっこり笑うと、陽子は何本かその赤い蔓状の植物を摘んで、その手に抱えた。
正寝で、陽子は官服を脱ぎ、ゆったりとした襦裙に着替えた。崖に這うようにして咲いていた赤い花は、祥瓊の手で花器に生けられている。
そこへ、景麒が浩瀚を伴って、出迎えの挨拶に来た。
「二人とも、かまわず入ってくれないか?着替えは済んだぞ」
「「失礼いたします。」」
丁寧に拱手して顔を上げた二人は、満足そうな満ち足りた表情をしている主を認めることができた。
景麒が口を開く。
「麦州の棚田は、ずいぶんとお気に召したようですね」
「うん、とても綺麗だったんだ。でも、仕事をするのは大変だろうな。
上の方の田んぼは結構高さがあったから、そのつど昇るのはたいそうな体力が必要だと思った」
「そうですか?」
「あ、そうだ。景麒、この花の名前を知らないか?」
陽子は、水盤に綺麗に生けられた赤い筒状の花を指す。
「これは、すいかずらではございませんか?冢宰はどう思われます?」
そう言って、景麒は浩瀚にも発言を促した。
「左様でございますね。忍冬 (にんとう)ではないでしょうか?」
「へえ、すいかずらの仲間なの?」
「はい、左様でございます」
「景麒、浩瀚、この花は実はこの凌雲山の山ろくに生えていたんだ。禁門の少し下のところにね。
きれいだし、よい香りなので、摘んできた。麦州の土産ではないけれど、これをお前達に下賜する。受け取ってくれるかな?」
「主上、ありがとうございます。しかし、山ろくで花摘をなさるのは、危ないですからおやめ下さい」
「景麒!」
幾分声を荒らげた陽子は、それこそぶすっとして、横を向いてしまった。
浩瀚は、おやおやと目を細めると、口を開いた。
「恐れながら、主上?」
陽子は、顔をそむけながらも、浩瀚に視線を移す。
「この忍冬(にんとう)という植物は、その茎や葉に消毒の作用があるのでございます」
「へえ、本当?薬になるのか」
「はい、私が存じておりますのは、花の色が赤ではなくうすい黄色でございましたが、咲きそろう直前のつぼみを使って作りますので、なかなか高価でございました。
おそらくその花と同じ種類であるかと存じますが」
陽子は、流れるように話す浩瀚の知識に感心して、景麒のことを失念したようだ。
「うん、よい香りがするから摘んできたんだ。はい、浩瀚も」
「ありがたき幸せ」
陽子が気軽に差し出した花を、浩瀚はずいぶんと丁寧に押し頂いて下がった。
陽子は、一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐににっこり笑い、
「麦州の棚田は綺麗だったよ。視察を許してくれてありがとう。景麒も執務を変わってくれて、すまない」
「いいえ」
「どういたしまして」
男達は、赤い花の蔓を抱えて、正寝を辞していた。
夕闇が迫る回廊で、景麒は浩瀚に話しかけた。
「冢宰?」
「何でございましょうか、台輔」
「先ほどは、主上や私に気遣いをかたじけない」
「とんでもございません」
「どうも、私は相手が主上であると、肝心なことを言わず余計なことを言ってしまうようです」
まだ若い慶国の麒麟は、自己の言動を反省している。浩瀚は、この誠実さがこれからの慶国を支えていくことになるのだろうと、感じていた。
「台輔、どのようなことでございましても、主上と言葉を交わされることは大切なことだと、私は拝察しております」
「そうですね」
春の夕刻は日によって暖かかったり寒かったりするが、今夕は程よい気候であった。
迫る夕闇を受けて、薄紫の瞳と琥珀色の瞳は、静かにうなずきあっていた。
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