拒絶する彼女の安息地





 この話は、オリキャラが何人も出てきます。
 しかも死亡フラグありの見方によってはひどい話です。
 お読みになる方は、それでも良いと言うお気もちでご覧下さい。

 バタン!

 重たいドアが一度開いてすぐに閉まった。

 昼間に顔をあげて見上げれば、オフホワイトの壁は雨風にさらされたシミが付着している。 しかし、古びているとは言い難い三階建ての直方体。ごく普通のマンションだ。 エントランスはセキュリティが徹底されているわけでもなく、入っていくのに暗証番号はいらない。 その代り、昔ながらに結構年をとったおばさんが、 入るとすぐにある管理人室から老眼鏡の端を持ちあげ、こちらを向き、 またすぐに、新聞でも読んでいるのか、眼鏡を戻して下を向いた。 その三階にある302号室がナオミのうちだった。

「ちくしょう」

罵声の理由は、明日の数学の追試だ。点数が足りなかった。

 ナオミは閉まったドアに鍵もかけず、室内の明かりをつけようともせず、 いい加減に靴を脱ぐと、自分の部屋へ入り、そのドアを閉めた。

 部屋の鍵は、カチャリと音を立てさせて閉めておく。

 いつもと同じの学校帰り。午後5時を回ったか。 12月になると、すでに外は真っ暗で、誰もいない部屋の中は、寒かった。

 彼女の両親は、夜遅くまで働いている。今日も当然まだ帰ってはいない。

 ナオミは、電気をつけずにエアコンのスイッチをいれ、ベッドに倒れこんだ。 制服は着たままだった。

 彼女は、特に、現実に不満があったわけじゃない。

 両親が余り自分にかまわないのも、それほど気にはならなかった。 そう、ナオミが中学に上がる前までは。

 おととし、両親と小学校の担任の勧めで、ナオミはある私立女子中学へ入った。 その学校は、私立だがごく普通の校風で、しつけは厳しいと評判だったが、 顔をしかめるほどの厳しい校則があるわけでもなく、 普通に学校での生活を楽しむ分には申し分のない女子高だった。 彼女の両親は、この学校なら娘も楽しい学園生活が送れると思ったのだろう。 もちろん高校までストレートで入ることができ、成績次第では、 その上の大学まで行けるところも、恐らく気に入っていたはずだ。
 しかし、ナオミの成績は伸び悩んでいた。
 現在中学2年生、彼女に兄弟はいない。

 一眠りしたような気がして、ナオミはむくりと起き上がる。 制服を次々脱いで、思いっきりミニのスカートに、レースやスパンコールのついた服を重ねて身につけた。

「ばっかみたい」

リビングのテーブル目を向けたナオミはつぶやいた。 そこには財布が一つ置いてある。彼女が夕食に困らないようにと、両親が置いていくのであった。

 いつも万札が一枚入っている。使わなければそのままだが、 金額が減っていれば、また一万円に戻しておく。 それが、ナオミに取っての小使い兼生活費であった。 豪遊とは行かないが、そこそこの場所で遊ぶには十分な金だ。

 あきらかに、中学生の夕飯代には多すぎる金額であった。

 ナオミは、今夜一つの決心をしていた。

 彼女は多すぎる小遣いを毎日無駄遣いしていたわけではないが、今日は心に決めたことがあった。

「絶対、やってやる!」

ナオミは、厚めに化粧をして、母親のブーツをはき、自転車を転がして出て行った。

 駅前の美容室、深夜にまで営業は及ぶ。その一軒に入って、ナオミはスタッフに告げた。

「一万で染められるって聞いたんだけど。」

ナオミは、それまで生まれたままの黒かった髪を染めようとしている。

 どんなお色にいたしましょう、という若い男の子のスタッフに、明るい金色にしてくれる?と頼んでいた。

――それまで、なったことのない自分に、なってやる。――

 自慢の長い髪は脱色したあと金髪に染め上がった。

 ブロンドの巻き毛が揺れる。

 眉もきれいに抜いてもらい、金色に引いた。鏡の中には、見たこともない女が座っていた。



 ナオミの母は、ナオミが私立の中学に通うようになると、パートに出始めた。

 はじめのうち、ナオミは母が明るくなったと喜んでいた。着ている物がきれいになった。 父親も喜んでいた。

 しかし、3人そろうことはあまりない家庭になった。

 父はもともと仕事で遅い。

 母は、ナオミとは距離を持って接するタイプの女だった。 自由にさせてくれたが、放任との境目はあいまいだった。

 そんななかで、ナオミの成績が思うように上がらないと、3人の関係が微妙にギクシャクしてきた。

 何のために私立へ行かせたのか、ごくたまに父母が家にそろっていると、 ふたりはそのことで言い争うようになっていた。

 ナオミはいたたまれなかった。自分のせいで両親が仲たがいをするのは、切なかった。 しかし、それもはじめのうちだけだった。 父も母も関心が外へ向くようになり、ナオミは残された気分だった。

 たまに、話をするととんちんかんな会話になって、かみ合わない。

「ナオミ、お友達とうまくいってる?」

「いや、あんまし……」

「あら、がんばってね。家へ連れていらっしゃいよ」

「だって、ママいないじゃん」

「そうだけどさ」

そんな気はない、とナオミは、はじめから言われているような気がした。



「勉強はどうだ、ナオミ?」

「パパ、ぜ〜んぜんわかんない。数学なんか最低」

「今度の休みに教えてやろうか」

「ほんと!?」

ナオミの父に休みはなかった。休日出勤が続いていた。

 ナオミのささやかな期待は、何度も裏切られていく。 両親の言葉とは裏腹に、自分に気持ちが向けられていないことを、ナオミは悟っていった。

 昨年、冬。ナオミは大きな事故を起こした。自分の手首を切ったのだ。 病院に運ばれ、治療された後、カウンセリングを受けた。 病院の医者は、両親の前で、もっと親子で親密な関係を作るように語っていたにもかかわらず、 ナオミの両親は、ますます、ナオミのことを、まるで腫れ物を扱うようになっていったのだ。

 医者から、「何でも好きなようにさせてあげてください」といわれたのをいいことに、 両親は、彼女のほうを向かなくなった。

 ナオミは、大人が話している言葉が信じられなくなっていた。



 家にかえると、母親が帰宅していたところだった。 ナオミの髪を見た母は、目を見開いたが、そのことについては何もいわず、

「プチトマト、買ってきたわよ」

と言った。野菜嫌いのナオミが唯一食べられる野菜だった。

   その日、父親はいつもと同じように夜遅く帰ってきた。 母親はすでに寝てしまっている。もちろんナオミとは別の部屋に寝ている。 まあ、仮に起きていたとしても、ナオミの顔を見ることは無い。 髪を染めたことなど、まったく知らなかった。



 次の日の朝、誰も起きていないうちにナオミは起きだして、身支度をする。

 学校までは、電車に乗っていくのだが、駅まで歩く分を足しても30分ぐらいだ。 地元の公立中へ行くよりも、時間的な意味では近いくらいだった。

 いつもは、遅刻か、遅刻すれすれで登校していたが、今日は違った。 できるだけ、人がたくさん歩いている時間帯に登校しようとしたからだ。

 ブロンドの巻き毛は、まるでヨーロッパの皇女様のようだ。 ボレロ型の上着にチェックのスカートが制服だったが、とてもよく似合っていた。

 ナオミは、この制服にはブロンドが似合うとずっと思っていた。 もちろん、学校では禁止されていたのだが。



 何人もの友達が、ナオミを見てびっくりした。中にはナオミだと気づかず、

「ハーフの転校生が来た」

と騒ぐ生徒もいた。

 ナオミは、みんなに注目され、久しぶりに気分が良かった。



 職員室では、先生達が騒然としていた。

 すでにナオミの髪のことは、やっかみ半分でちくりにきた 一部の生徒達によって知らされていたからだ。

 ナオミが校門を入り、下駄箱で靴を取り替えるか替えないかのうちに、 生徒指導の教員に呼び出された。彼女は応接室にひとり座って待っているように言われ、 そのまま放置された。

 それほど校則の厳しい学校ではなかったが、 さすがに金髪に染める生徒は出ていなかった。彼女が始めてのケースだ。
 先生方にしてみれば、これが他の生徒に影響を与え、 学校の評判が落ちることは避けなければならなかった。

 とりあえず、今日のところは両親に引き取ってもらおう。 そう話し合うと、担任が親に連絡を取った。

 両親は、どちらもなかなか引取りには来なかった。仕事が理由であった。

 ナオミは、トイレ以外は部屋の外に出してもらえず、応接室で弁当を広げた。

 あざやかな、朱色のプチトマト。弁当箱には、プチトマトが詰まっている。 ほかのものは、弁当としては食べられなかった。

 ナオミは、手首を切って以来、中度の心身症と診断されていた。 学校ではプチトマト以外は食べられない、というのも、 単なる気持ちの問題では片付けられないものがあったのだ。

 医者は、食べることがきちんとできるようになるまでは、 気をつけてください、と両親に語っていた。

 しかし、ナオミの両親はそのことにあまり頓着しなかった。 家へ帰れば、なんでも食べられるのだから、弁当ぐらいはどうでも良いと思っていたようだ。



 夕方近く、やっと母親がやってきた。型どおりの挨拶をして、ナオミを連れて帰ろうとした。

「私がついていながら大変申し訳ありません」

そう母親は語ったが、ナオミは『ついてる』ってなんだろう、 とつぶやく。自分と母との関係は名目以下だと思っていた。

 家へ帰り着くと、母はいつもの財布に紙幣を2枚入れて、

「染め直していらっしゃい」

と言った。

ナオミは、悪いことをしてみることで、自分を表現しようとした。 しかし、何もしかられることの無い自分の状況を見て、何かが違うように感じられた。

「ママ、プチトマトは?」

「あら、明日は学校休んでいいのよ。 聞いていなかった?一週間お休みしなさいって。 病気のこともあるから、処分にはしないって先生がおっしゃっていたわよ」

「でも、プチトマトは?」

「今日は貴方と一緒に帰ってきてしまったんだから、買っていないわよ。 そんなに食べたければ、自分で買ってくれば」

ちがう……

ナオミは張り裂けそうになった。 プチトマトは、母親がナオミのために買ってきてくれる、 ナオミのために何かしてくれる唯一の行動の象徴だったのだ。 プチトマトが食べたいわけではなかった。

言葉があっても、伝わらない。

「ママ、大好きだよ」

「いったいどうしたの?トマトでも何でも買ってきなさい。 ママ仕事の続きがあるのよ。じゃあね」

 ナオミは一人家に取り残された。

 表は暗くなっていた。父親にも連絡をしたと、先生は話していたけれど、 父親は帰ってこなかった。母と、打ち合わせたのだろうか。

 ナオミは、制服のままふらふらと外へ出て行った。

 12月の繁華街はどこかせわしかった。

 ブロンドの髪に制服はめだつ。 金色に引いた眉も、化粧も、クリスマスのイルミネーションに照らされて、 すべてが光っているような気がした。

 車がひっきりなしに走っている道路にかかった古びた歩道橋で、 ナオミはぼんやり町の明かりを見ていた。

 ふと、暗い夜空に目を移すと、銀色に輝く満月が輝いていた。急に風は強く吹いた。



「へい、彼女!一緒に遊ばない?」

知らない、若い男だった。何人もいた。

「ブロンド、きれいだね」

「俺たち、暇なんだよね」

反射的に、逃げようとしたナオミの腕を一人の男がつかむ。なおもふりきろうとすると、

「おとなしくしろよ!」

罵声とともに、歩道橋の壁に力いっぱいたたきつけられた。

めりっ!

いやな音がした。 きゃしゃな鉄棒と、ブリキの板で囲った歩道橋の安全柵は、さびてぼろぼろになっていた。

 ナオミは、下に向かって落ちていた。



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 ナオミが目を開けたとき、寒さを感じてはいたものの、 それとは別の暖かいものに包まれていた。明るい太陽の光が部屋に入ってきていた。

 自分の目の前、横たわっていたのだから目の上なのだが、 それがなんだかわかるまでに、ずいぶんと時間がかかった。

 木だ。

 鉄筋の建物しか知らないナオミは、天井が木であることがよくわからなかったのだ。

 何か騒いでいる声が聞こえる。遠い声だった。 目をこすり寝返りを打つと、そこには時代劇のドラマに出てくるような衣服を着た、おばあさんが座っていた。

 ナオミは夢かと思った。

 そのおばあさんは何かしゃべっていたが、その言葉はまったくわからなかった。 でも、ナオミにはなんとなく言っていることがわかるような気がした。

 そのおばあさんの柔和な瞳に、なぜかナオミはほっとしていた。

「起き上がれるかどうかってことね。やってみる」

ナオミは、半身を起こしてみた。

 起きてみて初めて、そこが粗末な布団らしいことに気がついた。 かかっている数を数えると三枚もあった。最もその一枚一枚は 自分のベットの掛け布団の、半分以下の厚さだったけれど。

 このおばあさん、私が起きて喜んでいる。そう、ナオミは思った。

 いったいここはどこだろう、このおばあさん中国の人かな? 韓国の人かもしれない。 こんな外国人のおばあさんが住んでいるところ、家の近くにあったかなあ……



*  *  *  *  *  *  *



「閭胥、あのお方は、どうなすったかね」

気のよさそうな中年の漁師が、里家の中に入ってきて、声をかけた。

「ああ、おまえさんかい。さっき目をお覚ましなさったよ」

閭胥と呼ばれたおばあさんは、おっとりした微笑みを漁師に返した。

「本当かい。そりゃあよかった。みんなに知らせてくるさ」

そういって、漁師はかけていった。



 ここは、和州の小さな漁村。

 虚海からの厳しい冬の風が音を立てて吹いてくる。ど〜〜んという音は、岩に波が当たる音だ。 空中にちらつく白いものは、雪ではない。波頭がこおった風花だった。

 こんな寒い日にも、漁はある。冬の魚は、獲れれば一攫千金だ。 油が乗ってうまいし、街へ持っていけば珍しいので高く売れる。 波が静かになったときを見計らって、近くの海へ漁に出ていた小船が、先日急いで戻ってきた。

 珍しく寒さの緩んだ海に、突然人が浮かんだという。

 見れば、若い女。まだ息がある。 何より、その髪は、何日かぶりに顔を出した冬の太陽に輝いて、金色に光っていた。

 常世で何よりも尊ばれる麒麟の髪の色。 うっかりすると、国王よりも尊いといわれる麒麟。 小さな子供でさえも、間違うことの無い髪の色であった。

 慌てふためいたのは、一介の漁師だ。

 急いで浜にもどると、麒麟かもしれない女を恐る恐る抱え、漁師仲間に相談する。

 いや、漁師達はただの女とは思っていない。恐れ多くも麒麟さまだと信じて疑わなかった。

 まだ、意識を戻さない。寝かせようにも、 高貴な方をどのように扱ったらよいのか途方にくれるばかりであった。

 とりあえず、すぐ近くの里家に人望厚い女の長老がいるので、そこに連れて行くことにした。

 赤楽三年の冬のことであった。



 慶国に、他国の麒麟が流れ着くということは、ありうることだと、里の人たちは思った。

 朱旌の小説は、思いのほか田舎のほうにも伝わるのが早かった。 この地方にも、ついこの間訪れた朱旌の出し物で、 赤子が戴国の黒麒麟を助けたという話が語られていたのだ。

 慶国の麒麟は景麒だということは、田舎町でも良く知られていた。 拓峰の乱で赤子がまたがった麒麟として、特に和州では有名な話だった。 彼女が景麒ではないことは確かだった。

 金色の髪は、他国の麒麟であろうと、漁師達は単純にそう考えたのだ。



* * * * * * * *



   ナオミは、おばあさんの言う言葉はさっぱりわからなかったが、 その優しい視線やしぐさで、たいていのことは理解できた。 扉を閉めても寒い部屋だったが、ありったけの着物を着せてもらい、 部屋の真ん中に四角く開いた穴には、いつも火がついた黒い円柱が置かれていた。

 ナオミは見たことがなかったから知らなかったが、囲炉裏に炭がくべてあったのだ。

 彼女が常世に流されてから、一週間ほどたっていた。 長老は片田舎に住んではいたが、よく書を読み知識が豊富だった。

 麒麟だといわれて担ぎ込まれた少女の髪の毛の生え際が、黒くなっているのに気づいていた。 起き上がった彼女の言葉は、常世の言葉ではなかった。 長老は、この少女は海客だろうと踏んでいたが、漁師たちには黙っていた。

 墨を磨り、書状をしたためる。あて先は、恐れ多くも州侯あてであった。

 長老は、少女がいとおしかった。 昔、里木に子供ができたのだが、何度かの内乱や妖魔の襲撃で、皆亡くしていた。

「え?何、なんていったの」

長老は自分の顔を指差して、何回も「津笈」と告げていた。長老の名前であった。

「つ・きゅ・う。あ、わかった。おばあさん、津笈さんていうのね。 私は、ナオミ。ナ・オ・ミ、っていうの」

「ナオミ?」

長老は優しい声で、呼びかけていた。

「そうそう、私ナオミっていうの。うれしい!」

にこにこと笑いながら、ナオミは自分が久しぶりに心から笑ったような気がしていた。



 その里家には現在子供は一人もいなかった。 今は農閑期なので、昼間は漁に出ないもの達が寄り集まって、作業をしていたが、 夜には帰っていくので、夕刻から津笈とナオミは二人で過ごしていた。

 はじめは何も食べられなかったナオミだが、次第に常世の食べ物を口にしていった。 元の世界にいたときには考えられないことであった。

 しかし、元気になるにつれ、ナオミは、ここは本当はどこなんだろうと思うようになった。 自分のうちに帰りたいとはあまり思わなかったが。

 寒かったので、はじめは、あまり外には出してもらえなかった。 しかし、血行もよくなり表情も明るくなったナオミを、長老は里家の庭に出した。

 外にでてみて、ナオミはびっくりした。 そこには、自分が生きてきた町並みも、道路も車も電信柱もなかったのだから。 見渡す限りの山と、青黒い色をした冬の海が遠くにあった。

 遠巻きにしている男達を見つけた。ナオミはお辞儀をしてみた。 男達は、ひゅーーとどこかへ走り去ってしまった。



*  *  *  *  *  *  *  *



「おい、どこに国の麒麟様だろうな」

「ああ、若くてかわいい麒麟様だ」

「いつか、帰ってしまわれるんだろうか」

「そりゃ、今頃お国では大変な騒ぎだろう」

「早くお元気になってほしい」

「俺たちにも声をかけてくださるだろうか」

「麒麟様は慈悲深いからきっとお声をかけてくださるさ」

「どんなお声だろうなあ……」

里の男達はそう噂していた。



*  *  *  *  *  *  *



 里家に手紙が届いた。なんと、和州侯じきじきに、視察に来るという。 津笈はびっくりしたが、これでナオミも身の振り方がわかるだろうと思った。 赤子は胎果だ。海客の心がよくお分かりであろう。 私は寂しくなるがそれも致し方ない。津笈はそう思った。

 津笈は、ナオミにも、彼女がわからないなりにその書状を見せ、 州侯がお見えになると伝え、幸せになってほしいといって抱きしめた。

 ナオミは、言葉は相変わらずさっぱりわからないが、 その手紙が自分にとって重要で、今このどこかよくわからないところにいるわけも、 もう少ししたらわかるようになるのではないかと、津笈の様子を見て感じることができた。

 父親や、母親や、学校の先生や友達は、日本語をしゃべっていたが、 どんな風にナオミのことを考えているのかさっぱりわからなかった。

 しかし、津笈のいうことは、言葉はまったくわからなかったが、 何を言おうとしているのか、また、ナオミのことを大切にしているのかが、とてもよくわかったのだ。

 ナオミはうれしかった。もうすぐ、自分の家に帰れるかもしれない。 そうしたら、気持ちが伝わるように、話をしてみたい。そんなことを考えた。





     そんなある日、ナオミは懐かしいものを見つけた。

 プチトマトだ。

 オレンジ色がとてもきれいだった。

 唯一、母親がナオミのためにしてくれた、 プチトマトを買ってきて弁当に入れるという行為。そんなことを思い出した。

 そのオレンジ色の実は、懐紙に載せられ、隅に置いてあった。 彼女が使っていた部屋とはちがう、物置小屋のようなところにおいてあった。

 津笈をはじめ、この家に訪れる者はみな、ナオミを大事にしていた。 食べられるものは何でも食べてよかった。たいしたものは無かったが。

 冬のさなか、少ない食べ物を持ち寄って、 麒麟様に召し上がっていただこうとこの里の者たちは努力していたのだ。

 ナオミは、里の貧しさは理解できなかったが、 自分がとても大切にされていることはわかった。 たくさん置いてあるプチトマトを食してはいけないとは思わなかったのだ。



 ひとつ、口に入れてみた。

 あれ、トマトと違う。

 少しほろ苦い味がした。



 もうひとつ、口に入れてみた。母の顔が浮かんだ。



   もうひとつ食べようとして、なんだか息苦しいと思った。

 津笈、私病気になったのかなあ。



  ナオミは目が開けていられなくなっていた。



*  *  *  *  *  *  *



 津笈は号泣していた。

 ナオミが息を引き取ったのだ。

 原因は、朱色の実を食べたから。

 津笈は悔やんでも悔やみきれなかった。

 この実は、冬の間、山で狩猟に使う矢毒にするために摘んだものだった。

 ナオミは、小さな丸い棺に入れられて里のはずれに葬られた。



*  *  *  *  *  *  *



「というわけでございます、主上」

 ここは金波宮の国王執務室。和州侯自ら陽子の元へ報告に来ていた。 麒麟ではないかという知らせを受けたので一応陽子の元へも知らせようと思ったのだ。

 もちろん、柴望自ら金波宮に報告に来たのは、他にも色々とついでに済ませるべき大変重要な案件があったから、 といえないことも無かったが。

「ああ、柴望、ご苦労であった。知らせてくれて礼を言う。蝕による被害はほとんど無かったんだな」

陽子は、複雑な顔をして、その話を聞いていた。

「御意」

 柴望も、言葉短く答える。

 あと一日早く自分が里についていれば、いやむしろ誰かに迎えに行かせていれば。

 柴望は後悔していた。

 主上と同じ時代の海客。 しかも同じくらいのお年であれば、よい話し相手になったのではないかと、そんな風にも思った。

 髪が金色で、里の者が麒麟だと思っているということだったので、大事をとったのが裏目に出た。



「柴望」

「浩瀚様、いえ冢宰、何か?」

「主上の御前である。そのような顔をするな」

「はい。申し訳ございません」

陽子は気になって聞いて見た。

「柴望、その子の死に顔はどのようであったかわかるだろうか?」

陽子の表情が曇っているのを認めつつ、柴望は答えた。

「それが、とても穏やかな顔であったと。里家では幸せそうにすごしていたようでございます」

「そうか」

幸せであったのならよい。常世に来て少しでも幸せであったのなら、それでよい。 陽子はそう思った。思い込もうとした。

 蝕で流されてきた海客が、うっかり毒を含む実を食して亡くなった。

 ただそれだけのことだ。

「和州侯、誠にご苦労であった。今後も、和州の平和と慶国の発展のためによろしく頼む」

「もったいないお言葉でございます」

景麒が不思議そうな顔をして陽子に尋ねた。

「蓬莱には、金色の髪を持つ方もいるのですか?」

「いや、蓬莱にはいないよ。あちらの別の国にはいるけど。 その子は、髪の毛を染めていたんじゃないかな?」

「金色に染めるのですか?」

浩瀚も陽子に尋ねていた。

「ああ、私もよくは知らないけど、一度髪の色を脱色するんだと思う。 そのあと、黄色っぽい色に染めると、金色に近くなるようだ」

 陽子は、一人の海客が亡くなったことを、それほどのことではないと思い込もうとしていた。

 しかしながら、その気もちは、言葉の端々から、外に漏れたのであろう。 浩瀚が穏やかに微笑んで陽子に告げた。

「主上、恐れながら申し上げます」

「ん?なんだ??」

「ご無理を、なさいますな」



 陽子は、浩瀚の優しいまなざしを見上げながら、しばらく黙って、それから口を開いた。

「ああ、そうだな。今でこそ私は幸せだけど、こちらへ来た当事は帰ることしか考えていなくて。 でも、その娘が少しでも幸せにすごしていたなら、よかったって、思って……」

いつしか、頬に涙をつたわらせて、陽子はまた黙った。

 寒気が金波宮にも訪れる。冬の何気ない一日であった。

                  おわり