夜も更けて





 浩瀚が冢宰府の執務室に戻って仕事をしていると、回廊を渡る桓たいの姿が見えた。 彼は、珍しくも正式な書類を携えて冢宰に目通りを願い出たのだ。

 浩瀚は自分の側に左将軍を呼ぶ。

「左将軍、お務めごくろうさまです。面を上げて、どうぞ口上を」
「ありがたき幸せ。こちらの書状をお預かりいたしました」
「それはありがとうございます」
「では、勤めがございますので私はこれで」
「御苦労さまでした。どうぞ退出なさってください」
深く跪礼して、桓たいはその場を出て行った。

――仰々しい出で立ちで何を言うかと思えば――

浩瀚は表情一つ変えずに紙面を見る。そこには、『夕刻太師邸に来られたし』とだけ書いてあった。

 浩瀚は、その日は早々に仕事を切り上げ、他の官吏にも
「明日は公休日ですから、皆さまもお早めにご帰宅なさいますよう」
と、穏やかに告げていた。現在の心中とは正反対の表情を浮かべて冢宰府を後にしている。

 太師邸の門をくぐると、今は雁国に出かけてしまいここにはいない主を呼ぶかのように鳴いていた虫たちが、 一斉にその歌を止める。しばらくするとまた鳴き始めていた。

 太師邸の一番奥の部屋に桓たいは座っていた。
「浩瀚様」
「うん」
「空は?」
「空よ、姿を見せなさい」
するりと、庭木の間から飛び降りて音もなく跪礼している。 非常に身軽だと言うことは、この二人ももう解っていた。

「なぜ、死んだかは調べられるかね?、桓たい」
「なぜ調べたいのか説明が必要ですね。殺した奴を探すのは禁軍になるかもしれませんが、今は秋官扱いですから」
「それまでには、毒も消えるか?」
「はい、可能性が高いです。毒は何も無かったという、相手にとって都合のよい結果も出せるでしょう」
「桓たいはほかの可能性も疑っているのかね」
「呪ではないかと」
「ああ、そうなってしまうとますます我々の手から遠いな」
「そうなんです」
「緑の柱が残った手掛かりか」
「そういうことになりますね」

秋の夜は、夏よりもずっと早い。もうあたりは真っ暗になってしまった。

「火を入れましょうか?」
「いや、桓たい、ここは留守になっているはずなのだから、それはまずいだろう」
「しかし、こう暗いと……」
「しっ!!」
空が、二人の会話を遮るとふわりと音もなく庭木に飛び乗った。 暫し周りを探っていると、また二人の側に飛びおりて、さらに、
「隠れて!」 と密やかにしかし鋭い声色で二人に告げた。浩瀚と桓たいは家具の影に身を寄せ、空は表に出て身を翻した。

そのすぐ後、男が二人提灯を下げて太師邸の門から中をのぞいていた。 声を殺してはいたがそこそこ聞き取れる程度の声で話し始めた。

「こちらで」
「ほう、なんだか野の山のようだね」
「誰かいたんですかね」
「なぜそう思う?」
「いや、人の気配がしたので……」
「ふむ?では中に入って見るかね」

空は焦ることなく、背の高い庭木の上で梟のようにじっとしていたが、後の二人は冷や汗をかいた。

「いや、やめておきましょう。私たちが中に入ったと言うことがうっかり知れると、 あの聡い連中が気付くかもしれませんからね」
「そうだね。一つここは慎重にことをすすめるかね」

提灯は消され、後に静寂が戻る。 しばらくその場にいたようだったが、やがてひたひたと遠のいていく足音が隠れている三人にも聞こえた。

「空、もう大丈夫かね?」

浩瀚が呼ぶと、するりと舞い降りた空は

「おそらくは」

と答えていた。

「あいつを追えるか?」

桓たいが尋ねると、

「難しいかもしれません」

と空は答えた。浩瀚と桓たいの二人は意外そうな顔をする。 もちろん、闇にまぎれてお互いの表情は解らないのだが。

「なぜだ?」
「私の存在が知られることになるかもしれませんので」
「それは、どういうことだね」
「二人のうち一人は、私と同じような仕事をしている者ではないかと」

二人は押し黙る。

 これが昨年であれば、何の不思議もない。 和州と麦州はお互いに間諜を潜ませながらその実情を探り合っていたのだから。 それは時として堯天からの隠密も含まれていたことを意味する。 少しは下火になってきたかと思えば、こんな主上のお膝元で、 あのような化かし合いが始まるのはたまらないと、浩瀚も桓たいも感じていた。

「そして、もう一人は仙でありましょう。得物を持たない私には傷つけることができないそうですが」
「その通りだ。今回の太師襲撃におそらくは関係しているだろう。桓たい、今の声聞き覚えがあるか?」
「残念ながら、ひどく押し殺した声だったので、誰とも判断がつきません」
「ふむ、私もだ。聞きなれた声ならば、いくらかは解るのだが。 朝議の時に発言をするような立場の者ではないかもしれないな」
「路門を守る兵に聞いてみましょうか?」
「聞きたいところだが難しいな。路門を通る人間を調べていることが解ってしまうだろう」
「ああ、そうですね」
「まだ、直接被害は出ていないのだ。幸い空のおかげでね。 と言うことはしらを切られると、こちらも証拠が無いのだ。 あの賊どもも、結果として何もしていないので、 うっかりするとただの下男殺しの犯人にこちらがし立てられてしまう可能性がある」
「……」

桓たいは言葉を失った。うまく事がなれば、今の主上から、太師と家族ともいうべき少年を失わせる。 事が成らなくとも、浩瀚様や自分を冤罪に落とすことができる。 少なくとも真偽が解るまでは、拘束ぐらいはされるかもしれない。 主上の周りを手薄にすることが目的ならば、こんなうまい手は無いかもしれない。 桓たいは頭を抱えた。

「桓たい」
「はい」
「昼に言っていた怪しい妓楼だが、誰か潜入して調べるわけにはいかないか?」
「そうですね。 うちの人間の中にも何人かそう言ったことが得意そうなやつはいるんですが、っと待てよ?  浩瀚様、空はどうですか?」
「空? その妓楼は下男でも雇ってもらえるのかね?」
「下男?? 浩瀚様、何言ってるんですか?空は女でしょ?」
「ん!?」

浩瀚は思わず声を詰まらせた。 ――妙に老師がにやにやと笑っていたことがあったが、それはこういうことだったのか。 あの身のこなしや淡白な物言いからすっかり男だと勘違いしていた――

「桓たい、空が女だといつわかったんだ?」
「最初からですよ」
「柴望が連れてきた時からか?」
「はい、まあ確かにあんまり女らしくは無いかなあ。いや俺は臭いで解ったんですが」
「臭いか」

浩瀚は、空が女なら花娘として売り飛ばすくらいの芝居はできそうなやつに心当たりがあった。

――しかし、売れるのか?――

妓楼なら、今女は引く手あまただろう。 何しろ慶から女性が追い出されてまだそれほど経っていない。 もちろん、陽子がその法案を破棄し呼び戻してはいるが、絶対数が足りない。 特に堯天の様な中央に近い場所ではそうだった。 予王の弾圧が強かったので、相当な金持ち以外は、女は逃げ出すしかなかったのだ。 そういうことで、堯天はまだ女性の数が限られている。妓楼とて同じ事であった。
 ただ、浩瀚は今の空を見ている限り、自分が妓楼の主なら空の様な娘は雇わないだろうと思ったのだ。

――体が閉まり過ぎている。顔が地味だ。言葉が解らない。 感情が無いという病も厄介だろう。よほど手が足りない妓楼なら別だが――

「ちょっと、浩瀚様!」

桓たいが声をかける。

「どうしたんですか、黙り込んでしまって? 空にはかわいそうですかね」
「いや、本人に聞いてみよう。空?」
「御前に」

闇の中から声がする。

「桓たいがお前にある妓楼を探ってもらいたいと言っているのだが、やって見るかね」
「承知いたしました」
「自信はあるのかね?」
「お疑いの様ですが、以前和州で妓楼にて働いたことがございます」

それを聞いて、男二人は、改めて顔を見合わせ、目を丸くする。 桓たいも、まさかすでにそういった仕事を常世でしていたとは思わなかったのだ。
連載へ戻る