次の朝





 これで一安心と、一睡もできなかった夜が明けた。 朝日がさせばやはりまだ暑さを感じる。浩瀚と桓たいは、湿気を含む太師邸の庭にいた。

「空よ」

浩瀚が、あたりを見回しながら呼ぶと、

「御前に」

と、声がした。彼の前には、どこかから飛び降りてきた空がいる。 確認するように肯くと浩瀚は、

「太師がしばらく留守にする。これからそなたは、内殿から出た主上を、 太師の時と同じように、他の者に知られないようにして、密かにお守りしてほしい」

と言った。彼は、厳しい表情をしていた。

「承知いたしました」
「何か聞きたいことはあるかね?」

ザザッと言う音がした。リスか鼠か、何か小さな動物が遠ざかる音だった。 空は、一度耳を澄ますが、すぐに浩瀚の方へ向き直った。

「ご下命がある時にはいかがすればよろしいでしょうか?」
「では、主上が内殿にお帰りになった後は私の所へ来てくれるかね」
「はい」

空は、低い声で返事をした。

「では、退出してよい」
「ありがとうございます」

掻き消えるように空の気配が無くなる。

「気になるな」

浩瀚は独り言を漏らす。桓たいがそれを聞きつけて尋ねた。

「何がですか」

声をかけられ浩瀚は桓たいのほうを向き、少し目を伏せてそっと答えた。

「あの男たちだ」

あえて表情を緩めた浩瀚は、苦笑するように言葉を吐き出した。

「気になることばかりですが」

桓たいは今更何を言っているんだとでもいうように聞き返した。

「ふふ、そうだね。私は『女王が嫌いだ』という所が気になるのだよ」
「では?」
「うん、目的は太師や桂桂殿ではないだろう」
「いわゆる、外堀を埋めると言うやつですか?」
「たぶんな、祥瓊殿を一緒に出したのは正解だったかも知れんぞ」
「そんな物騒な」

いつになくひそやかで真剣な浩瀚の物言いに、桓たいも不安を隠せないでいた。

「昨晩の様な事が起こらない事を祈るよ。 では私は主上に太師のことをご報告申しあげてから朝議の準備をしに冢宰府に戻る」
「私も例の場所に戻って尋問を続けます」
「そうしてくれ」

 空は、二人を見送って陽子が出てくるのを待つために内殿の出口へと急いだ。 しばらくすると、内殿の入り口に冢宰が表れ、中に入ったかと思うとまたすぐに退出して行った。
 それからしばらくして、朝議のために回廊に出て、足をすすめる景王を、 空は園林の一番高い木の上から見守る。怪しい気配は今のところこの周りには無いと確認していた。

 景王が中に入ったのを確かめると、空は表から外殿の朝議の間に潜り込む。 この部屋は天井が恐ろしく高くできていて、広い部屋だった。 どうやら、凌雲山の傾斜を利用して建てられているらしい。 その上座には玉座が据えてあり、景王は台輔と共にそこに坐して朝議の内容を吟味してゆくようだ。 空はその大きな屋根の影になるところにうまく身を潜めて様子を覗うことができた。 冬官府からの提案と、冢宰府からの臨時の提案がなされていた。 冢宰府からの提案とは、もちろん、太師が雁国に視察に行くと言う話である。 特に反対も意見もなく提案が通って行った。
 正午まであと一刻ほどかと思われるころ、朝議終了の声がかかる。 空は、景王の動きを追い、内殿に入っていくことを確かめた。 また、朝議の間に舞い戻ると、台輔の所へ、地位が高そうな官吏が相談に来ているのが見えた。 話の内容から、公休日の後の景王視察についての相談らしい。
 春官府と言うところのようだ。空が太師から教えてもらった記憶によれば、 春官府とは確か、礼典、祭祀、儀礼を司る部署のはずだ。 国官の採用や大学の運営などもこの府吏の中に入るらしいのだ。

――国のサービス全般を管理すると言うことか?――

空はそんな風に感じていた。

 空は、国官の様子を観察する。日本に比べてこの国の中枢を担う官吏の姿は、平均的に若いようだ。 遠甫から聞いた話によれば、仙は怪我もせず、してもすぐに治り、 病気にかからず、年もとらないと言うことだった。 信じられない事だが、この朝議の間に集まった者を見ていると、納得できる。 みな、あまりにも若い。今日提案していた冬官府の者は、その中では年老いている方だった。 冢宰とは、内閣総理大臣か、むしろ大統領の様な役職だと思われたが、浩瀚の外見は若い。 どう見ても三十歳そこそこである。 今台輔と話している春官府の者等、せいぜい二十五六歳、自分と同じくらいにしか見えない。 しかも、えらく美しい男だった。

――おとぎ話に出てくる、『白馬に乗った王子様』と言う者がいるとしたら、あんな感じではないだろうか――

空はそう思った。
 距離はあったが、二人とも普通の声で話していたので、内容は空にもすぐに解った。 主上に視察の時にはぜひ襦裙をお召しになっていただきたいと言う内容だった。 美しい景王を見たいと言う気持ちは、当然皆にあるのだろう。

   空は一通り見て確認すると、風のように外殿の庭に舞い戻った。 冢宰と左将軍はそこで立ち話をしている。 やがて二人は園林の端、岩陰に隠れるようにしてさらに話し出した。

「このあたりで良いだろう」
「そうですね」

「どうだった?」
「あまり、重要な事は聞き出せませんでした。 ただ、賊の中の何人かに共通の点が見つかりました」
「路銀以外でかい?」
「妓楼に通っていたらしいです」
「妓楼? 皆あまり裕福とは言えない身なりだったが、 あの風体では妓楼などにはやすやすとは行けないと思うのだが」

怪訝そうな顔をして浩瀚が桓たいに尋ねた。

「俺も初めはそう思いました。若い奴らが多かったので、 妻子はいないのかと聞いていたんですが、 これは裏を取ったわけではないので定かではないですが、全員独り者らしいんです」

「どこの府吏に仕えている下官かはわからなかったんだろ?」
「正直に言わないだけなのかどうか解らないのですが、その点では何一つ、はきませんでした」

そこまで言うと、桓たいは額のあたりに手をやりごしごしと擦った。

「まあ、あまり無体なことしても意味は無いだろう。妓楼については詳しいことは聞き出せたのかね」
「いや、断片的です。家族はいないと言ったやつが、 『可愛い娘だ、いっしょに雁国に行きたい』などというので、 『そいつはどこかの妓楼の花娘かい?』と、冗談のつもりで聞いたんですよ」
「ほう?」
「すると、その『可愛い娘』の話が延々と続いちまったんで、 どこの妓楼か教えてくれればあわせてやるよ、と言ったんです」

ここまで聞いて、浩瀚は非難と感心を見事に二つに割ったような視線で桓たいを見た。

「あ、俺は本気で言ったんですよ? もし本当に教えてくれたならですが」
「教えてくれなかったんだね」
「その通りです。そいつはそこまででぷつりと妓楼について語るのはやめてしまいました」
「口止めされているんだろうな」

「で、他の奴にもそう言った事が無いか聞き直したら、 ほとんどのやつが引っ掛かってきました。 中には『緑、緑』とわけのわからないような事を言い出す奴もいましたね」
「確かに妓楼なら緑の柱があるだろうからな。 しかし、あそこにいた者たちすべてが妓楼に通えるとはとても思えないのだがね。 実家と懇意にしていてそちらが金持ちと言うこともたまにはあるだろうが。 それこそ雁ならともかく慶ではそんなことはあまり考えられんよ」

「そうなんです。あとは誰かに連れて行ってもらった、とか?」
「あり得るな。少し昔なら靖共やその派閥の官吏たちが下官を丸めこむのに使ったかもしれないな」
「それで、俺はあいつらが通う、もしくは行ったことのある妓楼っていうのが、同じ妓楼だと仮定したんです」
「順当だな」

「場所については、何人かの証言でほぼ確定できました」
「それは、良かった。さすがは桓たい、頼りになるな」
「気持ち悪いですね、浩瀚様に褒められると言うのも」
「お前はたまに褒めるとこうだからな。だからつい嫌味を言うようになる」
「それは嘘でしょ!?浩瀚様はね、厭味がお好きなんですよ!」

桓たいはふっと小さい笑い声を洩らす。それが嫌だと言う風では無い。

「まあいい、それで?」
「堯天のほぼ中心からほんの少しずれた裏通りにあるらしいです。早速店構えだけ確認させてきました」
「手回しがいいな」

「なんでも、表の入り口は小さいらしいんですが、奥は広くて、どうやら老舗の様なんですよ」
「ほう?」

そこまで語り始めた時、禁軍の兵士が一人駆けこんできた。

「左将軍はいらっしゃいますか!」
「おう、ここだ!」

「ああ、左将軍!こちらでしたか。早朝の件で急ぎお戻りくださいと」
「わかった。すぐ行く」

何かあったと、二人は感じた。

「空、いるかね?」

浩瀚はあたりを見回しながらそっと声をかけてみる。

「はい、おそばに」

生垣の陰から声がした。

「桓たいについていきなさい」
「はい」

短い返事と共に空も移動した。

 私邸に戻ると桓たいは、腹心の部下たちが途方に暮れているのを目の当たりにした。

「どうした?」
「全員、死んでいます」
「なんだと?」

急いで、中に入ると確かに皆動かなくなっている。脈は無い。もちろん息もしていない。

「どういうことだ?」

桓たいは思案顔で外にいた見張りの部下を呼び寄せた。

「このことを知っている者は?」
「我々と、そこにいる左将軍を呼びに行った彼と三人だけです」
「うむ、とりあえずこのことは内密に」
「は」

その三人は、何事もなかったように、外で剣の稽古を始めていた。

「空、いるか?」
「おそばに」

するっと天井から下りて桓たいの前に膝をつく。

「お主、本当に気配が無いな」
「恐れ入ります」
「いや、頼もしい。ところで、これをどう見る?」
「私が、思うところを述べてよろしいので?」
「もちろんだ」

「では、蓬莱とは異なるかもしれませんのでそのあたりはご容赦ください」
「ああ、解らんことはその場で聞くさ」
「おそらく遅行性の神経毒かと」

「毒か」
「はい、もしそんな薬があればの話ですが。 おそらく二種類かそれ以上の毒を組みあわせているかもしれません」
「ほう、続けてくれ」

「最初は判断力を鈍くするような、そう言った種類の物を使い、太師を襲うように暗示をかけた」
「なるほど」
「その時に、エンコクに逃げろという暗示もさらにかけたのでございましょう」

「なぜそう思った?」
「左将軍の尋問を聞いておりました。 言葉はよくわかりませんが、 太師と子供をどうにかする所とエンコクという所だけが全員一致しておりましたので」

「ああ、雁国とは慶国の隣の国で、今の主上登極のおりに、延王延台輔に大変お世話になったのだ」
「それで。どこかで聞いた記憶がございます」
「和州でか」
「恐れ入ります」

「で、どんな目的だと思う?」

空は珍しく口元に片手指何本か寄せ難しい顔つきをした。 普段は何を考えているか顔に出る事のない人間なので、 桓たいはそれを見て、空にも表情があるのだと思った。

「左将軍」
「なんだ?」
「雁国にここから向かうには決まった通りがございますか?」
「ああ、向こうへ行こうと思ったら、まず高岫山を抜けるので、西の方へ向かうだろう」

「では、そちらの方向へ彼らをちょうどあの襲撃の刻から 今の刻までの時間分歩いたように見せかけて捨ててくるのがよろしいでしょう。路銀も一緒に」
「誰かが俺たちを陥れようとしている?」
「おそらくは」

「お主、これを見ただけで良くそこまで思い図れるな」
「蓬莱では、そう言った仕事をしておりましたので。ここまでは定石かと」
「わかった。幸いそのくらいは今の俺にもできそうだ」

そう言うと、桓たいは表に飛び出していった。

「おい、お前たちに頼みがある」
「は」

「この死体を密かに運び出す。荷馬車と上にかぶせる物を探してきてくれるか。 どうやら今の金波宮に俺や浩瀚様が邪魔だと思っている奴がいるらしい」
「う、それは大変! 今すぐに!!」
「おい、ゆっくり行け。俺はなにもしていないのだからな」

桓たいはくすりと不敵に笑って見せた。それを見た兵たちも、ふっと笑い顔を作る。

「了解しました」

表の三人は何気ない足取りで、それらを探しに行った。

 このあと、金波宮を出て少し西に行った街道で、 道端に寝転んで休んでいるとしか思えない死体がいくつも発見されて大騒ぎになったと言うことだ。

 その日の午後、浩瀚は冢宰府で仕事をしていた。

「今戻りました」

浩瀚にしか聞こえない程度の声が、美しい園林を望むことができる開け放たれた窓から聞こえてきた。

 ぽんぽん、浩瀚は二回ほど手をたたき、府吏全員に聞こえるように、そのよく通る声で言った。

「皆さま、いつも御苦労さまです。このあたりで休憩にいたしましょう。 主上から賜った菓子もございますよ。もったいなくも冢宰府で食せとのご下命でございます。 また、主上のお言葉をお借りすれば 『まずかったらはっきり言え。どこぞの献上品だからな。調べて改善させるぞ』 とのことでございます」

最後の主上のくだりでは、官吏たちからの忍び笑いが聞こえていた。

 そう言ってから、浩瀚は菓子を書記官に渡して配るように命じ、自らは園林へ出て行った。

「報告はあるかね」
「昨日の賊が全員亡くなりました」
「なんだと」

浩瀚は急に真剣な目つきになり、

「事後処理は?」

と尋ねてきた。空は簡単に昼のできごとを伝えた。

「どうやら、賊の頭は一石何丁かをねらったようだね」

空はさらに深く頭を下げる。

「それは困ったな」

 浩瀚も、やすやすと雲海の上に登ってくることができるのは相当地位のある仙が関係していると見ていた。

――主上だけではなく自分や桓たい、太師にまで悪行を働こうと考える輩には、 心当たりがあり過ぎてしぼることができない。 とらえた賊どもを解放して、泳がせた方が尻尾を出すと思っていたのだが、見事にやられた。 空の報告通りだとすると、敵はまだ自分たちの当初の目的が達成されたと思っている可能性もある。 手掛かりは、共通の『妓楼』だが、さて、どうするか?――

浩瀚は、珍しく厳しい表情で思案をしていた。

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