浩瀚は、深夜であるにもかかわらず今夜も冢宰府で仕事をしていた。
もう、子の刻にでもなるかと言うころである、いつものように桓たいが酒壺を肩にかけてやってきた。
「なんだ、本当に左将軍と言う職務は暇と見えるな」
「何を言ってるんですか、冢宰閣下は。今日も月がきれいですよ、どうですこのあたりで切り上げては」
「まあ、それも良いか。月なら奥の院が絶景だろう、もうすぐ満月だからね」
「そうですね」
冢宰府の裏には細い回廊があり、そこを少し歩くと小さな建物がある。
小さいと言っても親しい者が集まって宴会を開くぐらいの広さは十分にあるのだ。
前の冢宰である靖共も良く使っていたらしいが、彼が作らせたものではないようだった。
慶国のずいぶん昔からある建物だったらしい。
冢宰府からも離れているので密談にはもってこいの場所だった。
「ここなら大丈夫だよ、桓たい。なにかあったのかね?」
桓たいは、いつもの引き戸からぐい飲みを取り出すと、浩瀚に持たせてこぽこぽと音を立てて注いだ。
「なんだか胡散臭い連中が、路門から出てこないんですよ」
「なんだそれは?」
「いや、一応雲海の上に昇るやんごとなき方々については俺のほうでも調べているんですよ。
何かあっちゃたまりませんからね」
「まあそうだな」
「内殿に上がっちまえば虎嘯のやつが良くやってくれるんで、俺としてはそこいらに心配は無いんですが」
そう言いながら、桓たいも手酌で自分のぐい飲みに一杯注ぐと、それは一気に飲みほして、またすぐに注いだ。
「そうか? 主上には良い方がお付きになるな」
「本当ですよ、俺とか、浩瀚様とか」
「ほう、私のほうを後から言ったな?」
「真打は最後に登場するんですよ、まったくつまんないことで嫉妬深いんだから」
「なんだと?」
「いーえ、なんでも! そこでですが、
今日あまり見かけない奴が十人ほど路門から上へ行って帰って来ないんですよ」
「あそこは簡単には登れないよ。許可したのは誰だろうな」
「もちろん、そうでしょ。官吏と一緒に登って行ったのだから、下官だと思うんですよ。
普通に考えるとその官吏と一緒に帰ってきそうでしょ?」
「それはそうだろう」
「ところがね、帰って来ないんですよ」
「良く覚えていたね」
「いや、俺が見た訳じゃないから何とも言えないんですが、
そいつらはどうも元気が無かったようでして」
「ほう? どういうことだ」
「ふらふらして、正気じゃないみたいなんで、
あんなんで雲海の上でどういう仕事をするんだろうって、
それで見張っていたやつの印象に残ったらしいですよ」
「ふむ」
「何かに憑かれるようにして登ったきり降りてこないんですから、心配にもなるでしょう?」
「だから、冢宰府に左将軍が来たと言うわけか」
「と、いうわけです」
「では、お前は飲むわけにはいかんだろう?」
と言いながら、ちゃめっけのある瞳で桓たいを見た浩瀚は、
もう一つのぐい飲みを自分の後ろへ隠そうとした。
「あ、ちょっと待って下さいよ。ひどいなあ浩瀚様は。
持ってきたのは俺ですって、俺の収入から買ってるんですよ!」
「はは、まあそういうな。祥瓊殿に叱られるかな」
「あ、またそういうことを言う、浩瀚さまはどうしてそう嫌味っぽいかなあ」
「いつ襲ってくるかな」
浩瀚が真顔になってそう言うと、桓たいも黙り込んだ。
浩瀚は、眉根を寄せながらも、官服を少し緩めて片ひじをつき顎に手を当てる。
他では絶対に見せない行儀の悪い姿を、桓たいには見せることができる。
二人はお互いに信頼していた。
「冢宰に申し上げます」
十分にひそやかで中性的ではあったが、そこにいきなり、
別の声が混じりこんだので、二人はびっくりした。
良く見ると前庭に空が片膝をついて跪礼していた。
「空、どうした?」
先に桓たいが声をかけた。
「左将軍、太師から言伝を命じられました」
「俺にか?」
「冢宰に」
「私にだね、どうやら緊急のようだ言ってみなさい」
「はい、ではこちらを」
差し出した紙を、桓たいは急いで受け取って浩瀚に渡した。
「いかん! 襲われたのは太師邸だ。桓たいすぐに動けるか」
「もちろんです」
「空、お前は先にもどりなさい」
「は」
空はあっという間に二人の前から姿を消した。
四半時よりも短い時間だった。
空が太師邸に戻ってきた時はまだ、門の前に二人、賊が見張りをしていた。
まるで門番のようにだ。塀を音もなく超えると、
そこではやはり音もなく太師が賊に縄をかけていた。
まだ太師邸の庭で空に倒された者は全員気を失ったままだ。
「やりすぎましたでしょうか」
声を潜めて確認する。
「いや、このぐらいでちょうどよいじゃろ。悪いことはせんにかぎるでの」
「ありがたきお言葉」
「うむ、それでどうじゃった?」
「確認はしておりませんがおそらく左将軍がいらっしゃるかと」
「なるほど、では空は隠れて見守っていてくれるかな」
「承知いたしました」
ふっと、空の姿が消える。この時空は屋根の上に飛んだ。
念のため桂桂の寝所を確かめる。安定した寝息が聞こえる。
それを確認した後、門の前にしか賊はいない事を確かめて、庭木の上に飛び上がった。
この場所からが一番よく見渡せる。
しばらくして、門の前で小競り合いが起こった。
「貴様誰だ!」
「おい、こちらは恐れ多くも太師邸であるぞ。深夜に何用だ。帰れ帰れ」
桓たいだった。しかも賊に追い返されそうになっている。
「俺が誰だか知らないんだな」
力むことなく言い返す桓たい。
「知っていても通すわけにはいかない。今何時だと思っている。
明日出なおして来い。太師はもうとっくにお休みだ」
「そんな事がなぜわかるんだ?」
そう問われて、俄か門番たちはぐっと返答するのに詰まっていたが、
「太師がお休みになっておられるからこそ、私たちが門番をしているのだ。当たり前のことを申すな」
そう、言い返した時だった。
「わしなら、起きとるよ」
そう言って遠甫その人が門の内側から顔を出したから門番はびっくりしてしまった。
「この嘘つき門番め、くらえ!」
怒号一発、桓たいは片手に一人ずつ門番の頭をわしづかみにすると、
思いっきり二つの頭を打ち付けた。良い音がして二人はその場に崩れた。
「ほっほっほ、災難じゃのう」
「何をのんきなことを言っているんですか、太師」
桓たいが、がっくりしている所へ浩瀚も追いついた。
「ちょっと浩瀚様、馬に乗ってきたんですか?」
「私は桓たいほど足が速くないんでね」
「一体どこに隠してるんですか」
「冢宰府にいつも置いてあるよ。急用のときはこれが速いからね」
そう言って、馬から降りると浩瀚は馬の首をなでてやった。
「太師、一時お庭をお借りします」
「いいとも、よう慣れた馬じゃな」
「おかげさまで」
浩瀚と桓たいは中に入ってその惨状を見た。といっても、悲惨なのは押し入った賊の方なのだが。
「桂桂殿は?」
浩瀚が思わず尋ねると、
「奥で寝ておるよ」
遠甫が穏やかに笑った。
「う〜〜〜む」
唸ったのは桓たいだ。これだけの人数を音も立てずに沈める空と言う海客に改めて感心していたのだ。
「空は、いるのですか?」
桓たいは遠甫に尋ねた。
「空、いるかね?」
「おそばに」
遠甫のすぐそばに、音もなく跪礼していた。
「あいかわらず、気配が読めない。今の俺は少し興奮しているのか全く読めなかった」
「いえ、闇の方が紛れるには都合が良いですから」
浩瀚が、
「これだけの人数を、良く仕留めましたね」
と尋ねると、
「皆素人です。鍛えられた人はおりませんでしたので」
そう答えが返ってきた。
「空は、姿を見られたかね?」
さらに浩瀚は尋ねる。
「いえ、多分誰にも見られておりません」
「では桓たい」
「はい?」
左将軍は、浩瀚のほうを向く。
「これはお主がやったことにしよう。空の存在はあまり知られないほうが良いだろう」
「それはそうですが」
「手柄を横取りするようで、気が咎めるか?」
そう言われて桓たいは思わず空のほうを向いた。空は静かに跪礼している。
「ほっほっほ、心配いらんよ。左将軍、空はのう、
幸か不幸かそう言った感情が無いそうじゃ。確かにその方が良いじゃろうて」
「解りました。では空に一つ借りだ」
空は垂れていた頭をさらに低くして同意を伝えた。
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