太師をしている遠甫の住まいでは、一時、桂桂と遠甫の二人だけで住んでいると言う寂しい状態になったが、
陽子の女御たちが官吏やら下官やらに採用されて出て行ってからは、
行き来が楽だと言う理由で、陽子が太師邸の裏に鈴や祥瓊や虎嘯の官邸も整えてしまった。
それでだいぶにぎやかになったことは事実だ。
空はもちろん官吏では無く下官ですらないので官邸は無い。
もちろん、堯天に家があるわけでもない。
普段はどこに寝泊まりしているのか、遠甫ですら良く解らなかったが、
こぎれいにして疲れた風もなく毎日園庭を整えていた。
遠甫は午前中は良く桂桂の勉学を見ていた。
里の小学に通っていたころから、桂桂は遠甫に教わっていたので、
彼にとっては、場所が変わっただけのことであったのだ。
それが終わると遠甫は、陽子の執務の手伝いをしたり、
冢宰の浩瀚と政について意見を交わしたりして過ごす。
冢宰府以外の懸案についても、参考意見を述べたりする場合もあった。
夕刻はよく勉強会が開かれたので、その相談役として心を砕いたりしていたのだ。
空の存在を知っているのは、遠甫と浩瀚、桓たい、あえて言うなら景麒の使令である班渠であった。
それ以外の者は、空がいても気がつかない。決して大勢いるわけではない庭師の姿にまぎれていた。
しかし、このように一見平和に見える金波宮の中でも、歴史の陰になるところが無いわけでは無かった。
空は、今夜は太師邸の庭にいた。夜だからと言って必ず寝ているとは限らない空である。
当時、禁軍は多くの仕事を抱えていた。
その中で、目立たないが最も大きな仕事の一つとしてあげられるのは、
もちろん、国王である陽子は言うまでもないが、冢宰と太師と左将軍の護衛である。
左将軍はともかく、冢宰と太師は、実戦向きでは無い、と言うことになっていた。
そこで、少ない人数の中からさらに精鋭を絞り込み、交替で冢宰府や太師邸の護衛にあたっていたのだ。
昼夜かまわずである。
空が来て桓たいと練習試合を行ってからは、
桓たいが太師邸の方は週に何度か護衛を抜くことがあった。
空を信頼して、と言うよりは本当に裂く人出が無かったのだ。
空もそのことをすぐに理解した。
却って禁軍がいるときは任せて睡眠をとったりしていたものだった。
そう、今夜は禁軍の護衛は無い。
正式には無いことになっているのだから、護衛など無くても全く禁軍の落ち度にはならないのだが、
今夜は無かった。
こういった情報は、うっかり漏らすと大変なことになるので、
禁軍の中でも元麦州師、そのなかでも特に優れている者が当たっていたが、
本来の業務では無いのだ。
当然話が解らない兵士にとっては、いったい何をしているんだこいつらは、
という不審の下地になってしまう。
禁軍内であまり内緒にして置くのも逆効果だった。
桓たいはそう言ったところはよく気がつく部分があったので、
信用に足るものかどうかをある程度吟味しながら、適当に話を広げていた。
臆病な者たちは、その噂を聞いただけで、妙な気をそがれることを知っていたからだ。
それで、禁軍の中ではどの日が護衛のいない日等と言う話も、
内密にという言葉つきで、出るようになっていたのだ。
桓たいは、皆が陽子のもとに集まって勉強会を開いたり、
陽子が太師邸に行くのを推奨していた。
警護が一カ所で済むからだ。
浩瀚と一緒によく歩いたのも、夜遅く冢宰府を訪ねるのも、警護の一環であった。
しかし、とにかく、その夜は太師邸には空しかいなかった。
空の情報は誰も知らないのだから、その夜は言ってみれば、
太師邸には兵卒の護衛は誰もついていない、つまり無防備と言うことになっていた。
それは、おかしいほどバラバラな気配だった。
太師邸は、雲海の上にあるのだ。
ということは、ただそれだけで太師邸に行くことができる人間は限られていると言うことだ。
路門を堂々と昇ること等誰にでも許されているわけではないのだから。
したがって、その怪しい気配がどこからわき出たのかと言う疑問で、
この常世の凌雲山をよく理解している者ならば、驚愕したことだろう。
しかし、空は、幸か不幸か、そもそも驚愕するような心根を持っていない。
そして、雲海の上にごろつきとまではいかなくとも
物騒な者たちがその手に武器を持ってうろうろすることに
何の不審も持ってはいないのだ。もとい、不審だが不安や驚愕は無かったのだ。
時は、ちょうど子の刻あたり、誰もが寝入ったころだろう。
空は、太師邸の屋根に寝ころびもうすぐ満月になる月を見ていた。
――月の模様が変だな、それに見かけの大きさがずいぶん大きいような気がする――
当たり前のことに今更気付いた。ここは日本、いや地球ですらないのであろう。
どこか宇宙の最果てか、それとも異次元の並行世界か?それは空には解らなかった。
あまりにもあからさまな人たちが、この屋敷へと向かってくる。
この進み具合だと到着までに四半時はかからない。空は遠甫に相談に行った。
「太師」
そっと声をかける。
「空かの」
「は」
さすがに太師は起きていらっしゃる。あの妙な気配を感じていたか、と空は思った。
「何事かな」
「おそらくは賊かと」
「大丈夫かの?」
「たぶん」
「では、頼みましたよ」
空が「たぶん」と言ったのは、敵の武器が良くわからないからだ。
先日、太師から仙は普通の武器では傷つけることができないと聞いてびっくりしたところだった。
そんな自分に今得物は無い。
しかし、今こちらに向かっている者たちは、
太師と桂桂しかいないと言うこと知っているのかいないのか、
賊にしてはあまりにもガサガサとしていて殺気が薄いのだ。
少なくとも、和州で柴望を襲ったような、ああ言った手合いとは全く異なっている。
太師からむやみに殺してはいけないと言われているので、それが少し厄介かもしれない、
などと空は思った。この気配では彼女にとっては何人いても自分の敵ではないからだ。
太師邸の周りには塀もあるのだが、賊らしくその塀を乗り越えたりせずに、
真正面から門を開けて入ってきた。空はあらかじめ射士がいないことを確認している。
彼らの足取りはゆっくりだ。だが、空から見ればちっとも静かでは無い。
一応悪いことをしようとしていることは自覚しているようで音を立てない工夫はしているようだった。
己の信念から欲した反乱であれば、何らかの口上があってもよいのだが、何もない。
最も、普通の人間としては十分に静かだったのだが。
最初の男はあえてやり過ごす。
二番目の男に、空は真下から顎に向かって一撃する。
かしいだ身体を右へ向け暗闇に寝かした。
声を上げる暇もなかったようだ。
賊たちは不思議なことに、誰も、合図すらする者もいない。
三番目の男は首を絞めた。こと切れる前に離す。絶妙のタイミングだ。
先の男が入り口にさしかかっている。
四番目の輩と間があいていることを確認すると、先の男の延髄に手刀を入れた。
四番目の男は、ここまで来て建物の入り口が開いていないのを見ると、
さすがに首をひねったが、思い直したように庭に回ろうとした。
そこを間髪入れず胸元にこぶしを入れる。悶絶して倒れた。こんなことが何度か続いた。
一度に押し入ろうとすれば、もう少し活劇になったのであろうが、
一人ひとり確実に沈めていった空の行動は、あまりにも静かだった。
――あと二人いるはずだ。――
空は気配を読んで待ったが入ってくる様子が無い。
音もなく塀に登ると、その二人はあろうことか門番のように立っているのが見えた。
どうやら、このくらいは相談していたのだろう。
空は、淡々と庭に転がっている賊の両足首をひねっていった。
万が一気がついても、これで逃げられないはずである。一度遠甫のもとへ戻った。
「では、狼藉者が門番をしてくれているのか」
遠甫は隣に寝ている桂桂を起こすことなく、そっと机について何かしたためていた。
「のようです」
「それはそれは、ではすまんが冢宰府にいるはずの浩瀚にこの書を届けてくれるかな」
そういって、空に一枚の書簡を渡す。
「はい」
「場所は解るかね?」
「おそらく、あの場所ではと」
「よし、その間ぐらいはわし一人で十分じゃよ」
遠甫は、空の身軽さを十分に理解しているのか、穏やかにそう言った。
「かしこまりました」
そう言うと、ふっと空の姿は見えなくなった。桂桂は寝室ですうすうと寝息を立てていた。
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