浩瀚、太師邸を訪ねる





 ここは冢宰府。 夏の太陽はいつまでも地上を照らしているものだが、さすがにそれも沈んで、暫し時が移った。 暇な府吏はもうとっくに帰宅している時刻だが、ここ冢宰府ではようやく下官たちが帰宅支度を始めたところであった。 それでもまだ一人二人書面とにらめっこをしている官吏がいる。

「みなさま、御苦労さまでした。後は私が明日早々に処理しておきますので、今日は御帰宅なさると良いでしょう」

よく通る声が、冢宰の執務室から聞こえてくる。ほどなく、下官が執務を行っている大部屋に浩瀚が姿を現した。

 このころの冢宰府は、地官府や秋官府と並んでひどく忙しい所で有名であった。 景王が胎果であることも一つの原因であったが、登極したばかりだったので、 国全体の方向性を示さなければならず、包括的な論議が多かったためだ。 冢宰府でまとめるしかない案件も沢山あったということだ。 靖共が冢宰を勤めていたころの倍は仕事をしていただろう。 夜遅くまで書面の推敲やら、まとめた法令発布の検討やらで、定刻で帰ることはめったになかった。
 浩瀚はあまり働き過ぎても能率が落ちることをよく知っていたので、 ころ合いを見ては早く帰宅させる日を作り、下官たちを自宅へ戻るようにさせていたのだ。 最も浩瀚本人はめったに官邸には帰れなかったのだが。

 そんなわけで、姿を見せた冢宰に下官たちは略式の拱手をして、口々に、
「お先に失礼いたします」
「冢宰もお体に気をつけて」
「お疲れが残りませんように」
などと、挨拶をして去って行った。

冢宰付きの書記官にも、浩瀚は、
「あなた方も今日は早く御帰りなさい。たまには家族と話をするのも良いものです。 さあ、今夜は私もこれで冢宰府を出ますので、戸締りを頼みましたよ」
そう伝えて、自らも二三の書簡を持ち、立ちあがった。
「かしこまりまして」
何人かいた書記官はそう答えて周りを片付け始めた。浩瀚はその様子を満足そうに見届け、冢宰府を後にした。

 浩瀚は官邸ではなく、太師邸へ向かって歩いた。 遠甫から皆が寝静まった後に来るように昼間請われたからだ。

――老師(せんせい)は私に何を話そうと言うのだろうか?  今日柴望がせわしくこちらに来たことと何か関係があるのだろうか? それとも主上のことか?――

思案しながら回廊を行く。あたりにはもう人は歩いてなどいない。 しばらく進むと、誰かが柱に背を預け、腕を組み立っているのに気がついた。 そのいささかはしたなく黒く見えた影が、今姿勢をただし、軽く拱手してから浩瀚に声をかけた。

「冢宰、太師邸にお渡りですか?」
「左様でございます、左将軍」
「お供いたしましょう」
「それはかたじけない」

二人はくすりと笑うと、一度崩しかけた表情を戻し、何事もなかったかのように、今度は二人で歩きだした。

 朝が安定してきたとはいえ、二人とも罪人から一転して国家の重臣となったのである。 うらやましいと思うのはかわいい方で、 大方は何か不祥事があればひっくり返してやると手ぐすね引いている旧官吏が多かった。 中には本人たちの不祥事を待たずに、積極的に命を奪おうと言う輩も存在していた。
 そうは言っても、思っているだけで実行に移す者はそう多くは無かったのだが、油断は禁物だ。 浩瀚は文官でありながら、一通りの武術は無難にこなす男であったが、それが本職ではない。 そこで、このころはよく桓たいが自ら金波宮内の護衛を買って出ていた。 今夜もそう言った桓たいの気回しであったのだ。

 黙って回廊を歩く二人、やがて太師邸にたどり着く。 人目を避けてくるようにと遠甫に頼まれた浩瀚は、 入り口でどのように入って行けば良いか歩きながら思案していたのだが、 入り口に着いたと同時に、内側から門が開いた。
 中には遠甫が提灯を下げ、にこにこと笑いながら立っていた。 その足元に一人の若い男が下男の服をまとい跪礼している。

「おお、良く来たの。こんな時間に申し訳ない。桓たいもすまないのう。一緒に中に入ってくれんか」

遠甫がそう言って中へと誘う。

「お招き、ありがとうございます」
浩瀚はそう言って丁寧な拱手して応じた。

「こんばんは、太師。お邪魔します」

桓たいも同じように入っていく。

「今、蘭桂は手前の部屋でよく眠っておる。できれば起こさぬように頼むよ」
「もちろんでございます」

遠甫と浩瀚は静かに話をした。

 午前中に柴望と話をした奥の間に通され、三人は卓に着いた。
「茶ぐらいしかないがのう」
そんな軽口を発し、遠甫が二人に花茶を入れる。蒸し暑い夜には熱い茶も心地よいものだ。桓たいは、
「やはり、酒を持ってくればよかったですかね」
とつぶやいた。
「ほっほ、またこの次に頼もうかの」
「ふふ、桓たい。話は酒が無くてもできるさ。ところで老師(せんせい)、柴望から何かありましたか?」
「うむ、実は預かり(者)があってな」
「預かり(物)ですか?」
「そうじゃ」

浩瀚と桓たいは、思わず目を見合わせる。桓たいは、
「ひょっとして、呀峰の悪事の証拠ですか?」
身を乗り出してそう訊ねてきた。浩瀚も、
「靖共とのつながりがついに発見されましたか?」
そう言った。
「うむ、直接そう言った物にはつながらないかもしれんが、今思えば可能性はあるの」
思案顔で遠甫は答えた。
「ほう、そりゃ何ですか? 私も見て良いものなら早く見たいもんですが」
桓たいは冗談交じりに言いながら勧められた椅子に座った。
「いや、実はもう見せたんじゃがな」
遠甫は笑う。
「はて?」
浩瀚は、首を傾げた。
「そこに座っているじゃろう? それが預かり者じゃよ」
笑いながら遠甫は二人に空を紹介をした。

 浩瀚と桓たいは顔を見合わせ、遠甫が指し示す方を見ると、 そこにはさきほど門のところで見かけた若い下男の格好した者が跪礼していた。
「彼が柴望からの預かり(物)ですか?」
浩瀚が訊ねると、
「ああ、大まかにはそうじゃ」
と遠甫は返事をした。
「昼間、こちらのお庭の手入れをしていましたよね」
桓たいは、この者は我々の後をついてきたわけではないのに、 門からここまでどうやって来たのか不思議に思いながら、確認するように遠甫に聞いてみた。
「うむ、そのとおりじゃ。さすがは桓たいじゃな、と思っておったよ」
遠甫に褒められて桓たいは少しばかり良い気分になる。それを聞いて、浩瀚は渋い顔をした。

 浩瀚は、仕事中はいつも「冢宰」の顔を崩さない。 しかし、気を許した相手には存外に感情をあらわにするものだ。 今回は桓たいが気がついた下男の姿に自分が気付けなかったことに、軽い嫉妬を覚えたと言ってもよいだろう。
 最も、桓たいは、そんな浩瀚が却って好きだったのだが。

 浩瀚は文官でありその総大将ともいえる「冢宰」という役職を拝命している。 たかが下男の一人や二人、目に入らなくてもどうということは無い。 だからこそ、武官としては最高の能力者ともいえる桓たいが左将軍をしているのだから。 今回の空のことについても、結果として桓たいが気付いているのだから、浩瀚は気付かなくても責任は無いのだ。
 まして、空は「気付かれないように」と遠甫から命を受けていたのだから。

 空は、自分の気配を消すのではなく、周りの気配に自分を同化させるのだ。 もし殺気あふれる刺客の様な輩であれば、浩瀚は気づいたに相違ない。 しかし、今回、空は周りの蝉か蟻の様な存在だった。 最初から蝉や蟻に気付く感性が無ければ初めから気付くわけがないのだ。 そういう意味では、桓たいは動物的感が良く働く。 半獣と言う彼の性がそうさせるのかもしれない。

「いったいどういった素姓の者ですか?」
「ほほう、これはまた単刀直入な聞き方じゃな」
遠甫は、少し焦っている浩瀚を面白そうに眺めている。

 浩瀚は、本来身分の低いものだからと言って軽い扱いをしたりする人物ではないのだ。 その者の身分ではなく、異なる言い方をすれば、表面上のことではなく本質を見て接するのだ。 官吏と言う立場からも、庶民だから官吏だから、老若男女経済力能力その他もろもろのことで、 接するときの態度を変えたりしないのが信条なのだ。 それは相手から見れば本当は何を考えているか解らない人間だと言われることもあるのだが。

 浩瀚は、桓たいや柴望、恩師の遠甫などには打ち解けることもあるが、 実はなかなか本心を見せない人間であった。

 そういう意味では、悪評高い元和州侯の呀峰は、周りからは解りやすい人物だったのだ。

遠甫にそう言われ、浩瀚は熱くなりかけた自分に対して苦い気持ちで笑いながら、
「これは失礼いたしました。柴望が突然連れてきた下男、 間違いは無いと存じますがいささか焦っていたようです。どうかお許しを」
「なんの、お主はそれくらい気持ちを表に出した方が良いのではないかの?」
「いや、それはご勘弁を」
そう言って、空の方を向き、
「あなたも気を悪くされたようでしたら、失礼いたしました」
そう声をかけた。空は、さらに低く頭を下げて、何の反意もないことを示す。

「あれは、『渡部 空』と言う名で、海客だそうだ」
「「えっ!」」
遠甫に言われて、今度は二人とも絶句して、改めて空の方を見た。 確かに、髪は黒く一般的な蓬莱人の容姿をしているようだ。 背かっこうは違うが、主上の女御となった鈴と言う娘にも近い感じがした。

 驚く二人を見て遠甫は微笑むと、
「何か、空に尋ねたいことはあるかね?」
そう、言った。
 浩瀚は、片ひじを卓に着き手の甲よりやや上の指の付け根の関節のところをあごに当て、 一国の冢宰にはあるまじき行儀の悪い恰好で少し思案していたが、やがて顔を起こすと、
「それは色々お尋ねしたいところですが、 まずは老師がこの男を預かることになった経緯をお話しくださいますか?」
そう訊ねた。
「うむ、良いじゃろう。何も言わなんだからのう、わしの方からも説明しなくてはな」
にこりと笑い、遠甫は話しだしたのであった。